2009.07.24

祇園祭と八坂神社・11 あとのまつり

今日、7月24日には、祇園祭においては、花傘巡行と還幸祭が行われる。

ちなみに、17日は、山鉾巡行とともに、神幸祭が行われた。
山鉾巡行と花傘巡行、神幸祭と還幸祭、それぞれ対応する行事なのである。
神幸祭、還幸祭については、また別に述べるとして、今日の花傘巡行、これが「あとのまつり」=「時期を失した、後悔したがもう遅い」という言葉の語源になっているということ、ご存じだろうか?

つまり、山鉾巡行が「前祭(さきのまつり)」であり、花傘巡行が「後祭(あとのまつり)」なのである。

しかしもともとは、どちらも山鉾巡行の行事であった。
昭和40年まで、17日の「前祭」で20基の山鉾が巡行し、24日の「後祭」で、9基の山鉾が巡行していたのである。
それを、昭和41年から17日に全部まとめてするようになり、代わりに24日に花傘巡行を行うようになったそうだ。
それで、なぜ「あとのまつり」が「時期を失した、後悔したがもう遅い」という意味の言葉になったかというと、「さきのまつり」でたくさんの山鉾が出てしまい、「あとのまつり」は巡行する数が少ないため、多くの山鉾を見逃してしまった、残念~~~ということである。
(まあ、語源についてはほかにも説はあるらしいが)

花傘巡行そのものは、わしはまだ直接見たことがない。
10基の花傘を中心に、子供神輿、祇園太鼓、幌武者、児武者、馬長(うまおさ)、六斎など、古式ゆかしい装束の行列が1000人も行列するそうだ。
その中には、祇園東や先斗町の芸妓さん、舞妓さんも参加して実に華やかだという。
ちなみに女性の参加する祇園祭の行事はとても少ないのである。
列は午前10時に八坂神社石段下(西楼門前)を出発し、四条通→河原町通→御池通→寺町通→四条御旅所→八坂神社石段下→神幸通→八坂神社正門とめぐって、正午に到着。

これを書いてる今、まさに巡行中なのだな・・・
行けるとしても今からでは、まさに「あとのまつり」・・・

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祇園祭と八坂神社・10 山鉾巡行のテレビ中継

もう何年も、宵山や山鉾巡行を見に行っていなかったが、今年は前回の記事で述べたように、瞬間的に巡行を見に行けた。
それでも、だいたい毎年、祇園祭を体験した気分になれるのは、ローカルテレビ局・京都テレビが生中継してくれるのを見ているからである。

今年もまた、それを見ていた。
テレビカメラは、一般人の立ち入れないところから映すので、普通には見れない角度、場面を楽しむことができる。もちろん、現場での迫力には及ばないし、祭の熱気、感動と言ったものとは遠いのだけれど。
以下、京都テレビの中継画面と、NHKのニュースをデジカメで撮ったのをいくつか挙げてみる。

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巡行の先頭を行く長刀鉾に、稚児が強力(ごうりき)の肩に担がれて昇り、頂きで振りかえる「見返りの儀」。
今年の稚児はくつろいだ笑顔が印象的であった。


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四条麩屋町の南北に張られた注連縄(しめなわ)を、長刀鉾の稚児が、太刀で切って落とす「注連縄切り」。


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神の化身となった稚児が、結界を切り放ち、祭の空間へと山鉾が突入を開始するのだ。

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鉾の辻回しも、実際に見に行くと人垣の頭越しだったりするが、こういう俯瞰した映像も、テレビでは見せてくれる。

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東山の緑をバックにした行列の映像というのも、わしは初めて見た。

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山鉾が、四条堺町に至ると、鬮(くじ)取り式で引いた順番通りに来ているのか、奉行である市長が改める。これを「鬮改め」という。近年は鬮をみせる役を、少年がやっているところが多い。これがなかなか清新で凛々しく、かっこいいのである。

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その中でも、「黒主山(くろぬしやま)」の少年は、山の名前にちなんで黒の裃を着ており、ひときわかっこいい。特撮ヒーロー戦隊ものの、「なんとかブラック」のような印象か(笑)

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緊張しながら、伝統の所作を演じる少年たちが、これからの祭、そして未来を担っていくのだなあ・・・

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2009.07.17

祇園祭と八坂神社・9 長刀鉾辻回し

今日17日は、山鉾巡行。
行けないものとあきらめ、テレビで中継を見ていたら、突発的事情で洛中に車を出すことになった。
その用事を終え、息せき切って、四条河原町に駆け付けると、巡行の先頭、長刀鉾の四条河原町辻回しに間に合ったのである!
以下、撮ってきたばかりのその写真。

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四条河原町交差点の真ん中に、ずどん!と聳え立つ威容。

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いよいよ辻回しが始まる。青竹を割って敷いた上に水を撒き、車輪に掛けた綱を引っ張って、力任せに方向転換する荒技だが、コンチキチンの音色の中、雰囲気はいたって優雅に行われるのだ。

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まさに旋回中!

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曇天を突く長刀。疫病を祓う破邪の刃。

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旋回終了!行けー!突き進め!

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あいにくの小雨で、平日でもあって人出はかなり少ないというけれど、ご覧の賑わい。
まだまだ巡行は始まったばかりだったが、踵を返してきた。わずかの時間でも、巡行を見れて、嬉しかった。

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2009.07.15

祇園祭と八坂神社・8 山鉾館

すでに10日から、「鉾建て」が始まって、13日にはすべての鉾が建ちあがっているはずである。
祇園囃子を奏でながらの、鉾の「曳初め(ひきぞめ)」も、12・13日の行事。
また、「山建て」は12日から14日にかけて行われている。

残念ながら7日以後、洛中に出かけることができず、全然山鉾の様子は見れていない。
7日の八坂神社の様子はこんな感じ。

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本殿前の舞殿には、祇園祭のポスターや神事予定一覧表などが張り出されている。
「こんな行事もあったのか」と驚くほどで、宵山や山鉾巡行が済んでも、まだまだ見どころがあることを知らせてくれる。

というか、わしは明日に迫った宵山も、明後日の巡行も、観に行ける予定が立たないので、その後に期待しているのであるが(とほほ・・・)。

さて、八坂神社の東側、東山の斜面には「円山公園」が広がっているのだが、この中に祇園祭関係の施設があることをご存じだろうか。
その名も「祇園祭山鉾館」

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鉄筋コンクリートの無愛想な倉庫であるが、この中に、普段は10基の山が保管されているのだ。
山建ても終わった今は、空っぽになっているにちがいないが。高床式で保存機能はよく考えられているようである。

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なにしろ「山」というくらいで、巨大な構造物なのであるから、一般民家で保管するのが難しいのは想像がつく。当然、山鉾を保管するのは「町会所」という施設だったのだが、その維持もまた大変なのであった。
中には町会所の所有や使用にトラブルが起こるところもあり、しっかりした公的施設の収蔵庫を望む声が大きくなって、昭和43年に、ここ円山公園内に建設され、2年間建物を丁寧に乾燥させて、昭和45年からここで10基の山を保管しているそうである。
庫内の山を示す額の文字は、当時京都在住の名のある人が筆をとって書いてあるとのこと。
(画家や京舞家元、陶芸家、染織作家、茶道家元、京都国立博物館館長ら)

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中に入っているのは、
岩戸山、孟宗山、黒主山、浄妙山、太子山、
油天神山、郭巨山、伯牙山、芦刈山、木賊山。

☆念のため、付け加えると、純粋に保管のための収蔵庫で、観覧などはできません。

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2009.07.08

祇園祭と八坂神社・7 綾傘鉾稚児社参

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「祇園祭と八坂神社」の記事を連載しているが、実は前を通ることは多々あっても、このところ、お参りはできていなかったのである。
七月七日、久しぶりに参拝できた。

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この日は、「綾傘鉾稚児社参」が午後2時半から行われるとのことだった。
残念ながらそれまで待つことができず、その姿を見ることはできなかったけれど。

祇園祭における「稚児」とはなんだろう。

まず祭礼全般において「稚児」は、美しく装い、化粧して参列する子どもである。
幼童は汚れない存在で、神に近いという認識が古来あり、祭礼に際して、神が降臨する「よりまし」となったり、神に供奉する清浄なしもべとしてふさわしいと考えられたのであろう。

祇園祭には、いくつかの「稚児」がある。
もっとも有名なのは、長刀鉾に乗る稚児だ。
これは、「鉾稚児」で、かつては、船鉾以外のすべての鉾に生身の稚児=「生き稚児」が乗っていたそうだが、現在は長刀鉾にだけ乗る。ほかは人形が乗るのである。

長刀鉾の稚児は、補佐を務める「禿(かむろ)」二人とともに、毎年町衆の家から選ばれる。
まず、7月1日、「長刀鉾町お千度(せんど)」という神事で、禿や鉾町の役員たちと八坂神社に詣で、本殿を右回りに3周して昇殿参拝。
そして13日午前に「稚児社参」でまた昇殿すると、このときに「五位少将・十万石大名」の格式を授かるのである。

次に「綾傘鉾稚児」だが、これは、綾傘鉾に乗るわけではない。綾傘鉾を先導する役で、6人いるのだそうだ。
7日の社参では、宮司から「宣状書」を授かり、やはり「お千度」で本殿を3周するのがきまり。
そもそも、「綾傘鉾」は、山鉾の中でも特に異例の形状をしている。
簡単な台車のうえに、直径2,36メートル、傘の長柄3メートルの傘を乗っけている。(ちゃんとたためる傘だそうだ)
しかも、同じ形のものがなんと2基ある。
この大型の傘を、正副6人の稚児と棒振り踊りの踊り手たちが先導するのである。
今宮神社の「やすらい祭」や上賀茂神社の「さんやれ祭」の「風流傘」の系譜を引く形だそうで、古い祇園御霊会(ごりょうえ)の祭礼行列も、この綾傘鉾のようなものだったと推測されている。

さらにもう一種類、「久世駒形稚児」というものがある。
これは、南区久世にある「綾戸国中神社」の神さまのお使いなのだ。
八坂神社の祇園祭に、なんでまたそんなところの神さまのお使いが?とややこしいが、この「綾戸国中神社」は、八坂神社の祭神と同じ「スサノヲノミコト」を祀っていて、八坂神社のスサノヲノミコトが、「和御魂(にぎみたま)」であるのに対し、綾戸国中神社のは「荒御魂(あらみたま)」で、二つが合体しないと、祇園祭は始まらないという考え方から、久世の地から荒御魂を招くのである。
「久世駒形稚児」の「駒形」というのは、稚児が胸の前にご神体である木彫りの馬頭を付けるところからきているそうだ。そして、ご神体を身につけ、馬にまたがった久世駒形稚児は、「神」そのものとなるのだ。
7月13日、長刀鉾の稚児社参と同じ日の午後、久世駒形稚児も、社参を行うが、長刀鉾稚児が八坂神社境内では馬から降りるのに、久世駒形稚児は、騎乗のままだという。その後、17日の神幸祭、24日の還幸祭にも、神輿行列に加わる。

巡行の発端に、刀で注連縄を断ち切る長刀鉾稚児もかっこいいけど、その長刀鉾稚児すら下馬する八坂神社境内に、颯爽と馬上で乗り込む久世駒形稚児も、凛々しいなあ。
稚児に選ばれると、家の出費は大変だし、本人も精進潔斎でしんどいやろけど、祇園祭のスーパーヒーローになれるんやから、そらもう、一生の思い出やろ。

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2009.07.03

祇園祭と八坂神社・6 鬮取式

7月2日の祇園祭の行事は、鬮取式(くじとりしき)。

これは、山鉾巡行の際の、鉾や山の順番をくじで決めるのである。
どうも、昔は順番争いでけんかになったらしく、応仁の乱のあとくらいから、くじで決めるようになったそうだ。
江戸時代には、京都所司代という幕府の役人のもと、六角堂で行われた。

今、これをおこなうのは、京都市議会本会議場!
京都市長列席のもとでやるのである。
山鉾町の代表は黒紋付き羽織袴姿の正装。

ただし、全部の山鉾がくじを引くわけではない。
「鬮取らず」という、毎年何番目に巡行するかが、慣例で決まっている8基の山鉾は、くじを引かない。
先頭の長刀鉾などである。

くじをひく中で、最も注目されるのが「山一番」というやつで、
長刀鉾の次に行く、全体で2番目のもの。これは鉾でなく山と決まっている。
今年は芦刈山がそれをあてたとのこと。

以下、鬮取式の結果決まった、今年の巡行の順番である。


1  長刀鉾         (鬮取らず)
2  芦刈山         (山一番)
3  白楽天山
4  霰(あられ)天神山
5  函谷(かんこ)鉾    (鬮取らず)
6  孟宗山
7  四条傘鉾
8  郭巨(かっきょ)山
9  月鉾
10 蟷螂(とうろう)山
11 油天神山
12 占出(うらで)山
13 菊水鉾
14 太子山
15 綾傘鉾
16 伯牙(はくが)山
17 鶏鉾
18 木賊(とくさ)山
19 保昌(ほうしょう)山
20 山伏山
21 放下(ほうげ)鉾     (鬮取らず)
22 岩戸            (鬮取らず)
23 船鉾            (鬮取らず)
24 北観音山         (鬮取らず)
25 橋弁慶山         (鬮取らず)
26 黒主山
27 鈴鹿山
28 八幡山
29 役行者(えんのぎょうじゃ)山
30 鯉山
31 浄妙山
32 南観音山         (鬮取らず)


鬮取式を終えた、山鉾町の代表は全員で八坂神社に参詣し、祭の無事を祈願する。
これを「山鉾町社参」というそうだ。

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2009.07.02

祇園祭と八坂神社・5 いよいよ七月

もっといろいろ書きたいことがあったが、手のつかないまま、祇園祭の七月に入ってしまった。

最も知られている「山鉾巡行」は17日に行われるのだが、祇園祭は、1日に始まり、31日まで一カ月間、さまざまな行事が続くのである。

まず最初は、「吉符入(きっぷいり)」

神事始めの行事で、各山鉾町の町会所で、それぞれ、1日から5日にかけて行われる。
関係の人々が集って、祭神を祀り、神事の無事を祈るので、観光客には公開されることはない。

ただ、これが済んだ夜から、各町会所では、祇園囃子の練習が始まるのである。
町会所の二階で行われることから「二階囃子」と呼ばれているそうだ。
鉦(かね)と笛で奏でられる祇園囃子は、「コンチキチン」の擬音でも有名だろう。
そうなのである、もう、祇園祭の山鉾町では、コンチキチンの音色が聞こえているのだ。
録音されたやつも、京都の町中ではあちこちでBGMに流され始めるので、七月の京都は一気に祇園祭一色になるのである。

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2009.06.05

祇園祭と八坂神社・4 本殿の伝説

さて、3で写真を掲げた八坂神社本殿、これも特異なものである。

以下、「建築MAP京都」(ギャラリー・間編 TOTO出版)より、引用する。

「八坂神社本殿
  東山区祇園町北側(=住所)
  建立:1654年(承応3年)
  構造形式:正面7間、側面6間、祇園造、入母屋造、檜皮葺

・・・本殿は、本殿と礼堂を大規模な入母屋造の屋根で覆い、側面、背面の三面に庇を付ける独特な構造を持つ。千木、堅魚木を持たず、奥行きが深い建物のため、一見すると仏堂のような印象を受ける重厚な造りである。」

つまりこの独特の構造を「祇園造」と称するのだが、いかにもかつては神仏習合の信仰の場であった祇園さんらしい、神社なのに仏堂みたいな建物なのだ。

そしてこの建物には、伝説がある。

「床下に、池があり、その水は竜宮につながっている」
という、お伽噺じみた、ちょっと壮大な言い伝えなのだ。

なぜここに、「竜宮」とのつながりが出てくるかというと、それこそ、「牛頭天王」からの関係なのである。
牛頭天王の説話は、祇園祭とも切り離すことのできないものなので、ここで述べておきたい。
詳しく書くととても長いのでかいつまんで。

「北天竺マカダ国大王だった牛頭天王は、天帝の使者に教えられ、南海のシャガラ竜宮の第三王女である頗梨采女(はりさいじょ)を妃に迎えようと旅立った。
途中、南天竺で、富裕な巨旦(こたん)大王に宿を乞うたが断られ、困っているところを、貧乏だが親切な蘇民将来に歓待を受ける。
そのおかげで、めでたく妃を得ることができた牛頭天王は、のちに八人の王子や眷属を引き連れて巨旦大王一族を攻め滅ぼすが、蘇民将来の一族は守り、その子孫も疫病から免れるように約束した。」

だいたいこんな感じである。いろいろとバリエーションがあって、巨旦大王は、「巨端将来」あるいは「古端長者」とされたりしている。
いずれにしろ、南海の竜宮は、牛頭天王の妃の実家であり、結婚してからもしばらくは牛頭天王はそこで過ごし子を成すのである。
つまり、八坂神社本殿地下の池の水脈は、牛頭天王の妃の実家である竜宮との連絡路というわけなのであった。

そして、この説話で出てきた「蘇民将来」の名は、祇園祭のおり、間違いなく目にすることになる。
厄除として授けられる粽(ちまき)に、「蘇民将来子孫也」と記した護符が付いているのだ。

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2009.06.04

祇園祭と八坂神社・3 祭神について

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(八坂神社本殿)

八坂神社が、かつては違う名前で呼ばれていたように、この神社が祀る神さまの名も、変遷を経ている。

現在の八坂神社の祀る神さまは

スサノヲノミコト(素戔嗚尊)
クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)
ヤハシラノミコガミ(八柱 御子神)

であるが、主神はスサノヲノミコトであり、クシイナダヒメノミコトはその妃、ヤハシラノミコガミは、スワノヲ・クシイナダ両神の間に生まれた八人の子である。

しかしながら、この祇園の地で最初に祀られていたのは
「祇園天神」
という名の神さまであるらしい。
(「日本紀略」延長4年=西暦926年6月26日条)
そしてこの天神さまは、「牛頭天王」の名でも呼ばれていた。

牛頭天王・・・頭に黄牛の面を戴き、鋭い両角を持ち、夜叉のように容貌魁偉な神であり、疫病にかかわる存在と考えられた。
八坂神社に伝わる社伝によれば、斉明2年=656年に、高麗の国からやってきた副使(大使の補佐)伊利須(いりす)もしくは伊利之(いりし)が、新羅の国の牛頭山に鎮座していた大神の霊を奉戴し、山城の国の八坂郷に鎮座したのが、すなわち牛頭天王だという。
この神さまが、やがて神仏習合の考えから、スサノヲノミコトにみなされて行ったのであった。

牛頭天王にしても、スサノヲノミコトにしても、その素性についてはさまざまな考察がなされており、一筋縄ではいかない。
牛頭天王については、さまざまな説話が伝わっていて、インドの土俗信仰の対象であったという説から、ラマ教、ヴィシュヌ信仰とのかかわりなど、かなりインターナショナルな雰囲気がある。
また、スサノヲノミコトも、「日本書紀」には、新羅国のソシモリなる地に降り立ったという記述があり、そのソシモリこそ牛頭山という説があるのだ。
大胆に推測すれば、東アジアの古代のひとびとが、海を越えて交流する中でつくりあげていった神格が、牛頭天王・スサノヲノミコトに結晶して行ったのではないだろうか

ただ、いずれにしても祇園の地に祀られた神さまが、異国からの伝来という伝承を持ち、疫病に関わる神という面を持っていたのは確かなようである。
そして、祇園祭は、疫病を鎮めるための祭礼として始まったのであった。

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2009.06.01

祇園祭と八坂神社・2

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さて、八坂神社だが、この名前になったのは明治元年のことで、それ以前は「祇園社」「祇園観神院」「祇園天神社」「牛頭天王社」などといろんな名前で呼ばれていたそうだ。
しかも、延暦寺の支配を受ける仏寺だった時代もある。足利義満の命で、延暦寺の支配を離れてからも、神仏習合の、寺とも神社ともつかぬ形であったようだ。
明治元年に名前が変わったのは、「神仏分離令」によるものである。
このことは、祀られている神さまのことに深くかかわってくるので、また詳しく。

あと、もう一つ、わしにとって意外だったことは、東大路に面してランドマークとなっている西楼門が、正面の門ではないこと。
これは、神社の内部の建物配置を見れば一目瞭然で、本殿は南に向いており、そこから、舞殿、南楼門、石の鳥居と続く向きが正面に当たる。
上の写真は、南楼門を内側から見たもの。

西楼門を入ると、小さな祠が幾つかあって、それを迂回する参道を上がっていくと、社務所の前を通って舞殿の西側面が見えてくる。どう考えても横っぱらから進入する経路である。
今でこそ、西楼門の門前が賑やかな祇園町なので、こっちから参る人が多いのだが、かつては全くこのあたりの町並みは違っていたのだ。

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2009.05.29

祇園祭と八坂神社・1

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「京都の三大祭」、と称される三つの祭礼は、良く知られているところだろう。
季節的に順番に言うと、五月の葵祭、七月の祇園祭、そして十月の時代祭。
どれも大規模で、催される祭事は多く、複雑で、興味深いのだが、
わしは、中でも祇園祭にもっとも魅かれているのである。

ここ何年も、その好きでたまらぬ祇園祭になかなか触れることができなかった。
今年こそは、深く楽しみたいと思うので、このblogでじっくり記事にしていくことに決めた。

手始めに、夜の西楼門を撮影してみた。上の写真がそれである。
四条通の東の突き当たり、石段の上にに聳える、朱の鮮やかな門で、この一帯を象徴するランドマークといえよう。
この門を背にして向くと、下のような風景になる。

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まっすぐ西へと続く四条通。
この四条通の真ん中に、祇園祭の際には巨大な「鉾」が立ち並ぶことになるのだ。
その光景を想像すると、いつも胸がわくわくするのである。
その日まで、いろいろと、祇園祭と八坂神社について、考察してみようと思っている。

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2008.09.29

京都本紹介「京都宵」恐怖と甘美・・・底知れぬ京都の闇

「京都検定」の受験勉強をやった人なら誰でも知っていると思うが、桓武天皇が遷都するにあたり、「やましろ」の地を選んだのは「四神相応之地」だったからとされている。佳き地相として、北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎がある、というのがそれだ。
で、実際に京都盆地でそれに照応するのは、玄武が船岡山、青龍が鴨川、白虎が山陰道・・・、とここまでは、わかる。
だが、朱雀はというと、巨椋池。これがひっかかるのだ。「おぐらいけ」と読むのだが、今の京都地図を眺めたって、それはないのである。
なぜかというとその巨大な湖沼は、昭和16年に干拓されてなくなってしまったのだ。

じゃ、その時から、京都は南の護りを喪ってしまったのじゃないか・・・?

わしはずっとその疑問を抱いてきたのだが、寡聞にして今までそれに言及する他者を知らなかった。
それが、この本
「京都宵」光文社文庫・異形コレクション・井上雅彦監修

に収められた一編、小林泰三作「朱雀の池」でずばり、そのテーマが取り上げられていたのである。
しかもこの小説、もう一つ、京都に関してあまり人が言いたがらない事実・・・「原爆投下の目標であった」という件も重ねて描いていた。
これもまたわしが、かつてblogで取り上げていたもの
であって、このふたつを見事にひとつの恐怖譚にしている作者に深く共感、脱帽したのである。

この「京都宵」は、19編すべてが書き下ろしの新作。
その一つ一つが異なる切り口で京都の怪しさと妖しさを描いていて、鮮烈である。
艶麗で耳に心地よい京都言葉の語り口に、いつの間にかおぞましい異界に引き込まれる恍惚。
さまざまな題材と視点から描かれる恐怖と幻妖の物語は、京都の闇の底知れなさを味わわせてくれて、芳醇である。

あと一編だけ、特異な感想を述べるのだが、それは赤江瀑作「水翁よ」。
編者・井上雅彦が憧れをもって述べるとおり、赤江瀑こそ京都を舞台に豪華絢爛な「魔」の物語を描いてきた巨匠である。
その最新の一編が読める喜びのなか、不意にわしは心底、恐怖に戦いたのである。・・・なんというか、この「水翁よ」中の出来事を、過去に体験したという記憶がよみがえったのだ。
実はほかの作品でも、同じように「あれ?これ、現実に味わったことがあるような・・・」と感じた。フィクションと現実の境を幻惑させるような、そんな雰囲気があるのだ。
まさに魔書・・・

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2008.07.11

「源氏物語」を読む(3)

「源氏物語」本文は、一般的には、いわゆる古典文学全集に納められているもので読める。
これを文庫本や軽装版などにしたもののほうが、もっと手に入れやすいということもあるが、注釈や解説の充実を考えると、全集の本がお勧めであろう。

わしの場合、近所の市立図書館へ出かけてみると、二種類の全集に「源氏物語」があった。

「新日本古典文学大系」 岩波書店
「新潮日本古典集成」  新潮社

岩波書店のほうは、源氏物語は5巻本になっており、こっちのほうが新しい分、進んだ研究を取り入れていると思われるが、本がでかくて持ち歩きにくい(苦笑)。
新潮社のほうは、源氏物語の分は全8巻。本が小さめで持ち歩きやすい(笑)
さらに、読むことに関しては、岩波書店のよりもわしにはこっちのほうが容易である。
注釈の付け方が、丁寧で見やすいのだ。

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写真で見てのとおり、本文の上に、「頭注」と言う形で説明がある。
それに加えて、本文の脇に「傍注」として、赤い色の印刷で書かれているのが、現代語訳とか、誰のことを書いているのかという人物の指示。これが、本文を読むには実にありがたい指針となってくれる。

傍注を助けに、とにかく本文を読み進める。一息ついて、上の頭注を読んで、わからないところを解き明かす。すらすらとはいかないけれど、読んでいくと、校注(校訂・注釈)した人々の工夫が理解できて、面白い。

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2008.07.02

「源氏物語」を読む(2)

Sibi

紫式部直筆の「源氏物語」は失われ、それどころか、平安時代に書写された本も、今は一冊もない。
現在残されているものは、鎌倉時代以降に書写されたものと、それを基にして、江戸時代に木版印刷で刊行されたもの、そして明治時代以後、活字で刊行されたものである。

平安時代に書き写されていくうち、いろんなかたちになってしまった「源氏物語」。それを原典に戻そうとして作られた「青表紙本」と「河内本」。
このうち、鎌倉時代は「河内本」が広く読まれていたらしい。
それが、戦国時代に至って、藤原定家の子孫である三条西家が、「青表紙本」の宣伝に努めて、やがてこちらが主流となり、「河内本」は陰に隠れた・・・というのが大雑把な流れ。
このくらいまでは、「源氏物語」を手にとって読める階層というのは、上流階級に限られていた。
ただ、室町時代からは、あら筋や名場面をまとめたもの、解説書みたいものもたくさん書かれて、連歌師などの必携本として普及していたらしい・

それが江戸時代になり、様々な本が木版印刷されて、多くの人々が読めるようになる。
「源氏物語」も
「絵入源氏物語」、「首書源氏物語」、「源氏物語湖月抄」
などの本で、広く普及された。
これらは、ただ本文を印刷しただけではない。
「絵入」はもちろん挿絵を入れ、読点、濁点、振り仮名、注釈などを入れて読みやすくしたものである。
「首書」も、「湖月抄」も、絵こそなかったが、あとのことを取り入れて、とりわけ「湖月抄」は、それまでの「源氏物語」の評釈の集大成といった本になった。

ん?・・・ちょっと待て。
読点、濁点て、江戸時代になって入ったの?

そうなのだ、元々伝わってきた「源氏物語」の写本の、本文というのは、たとえば次のようなものなんである。

「衛門のかむの君かくのみなやみわたり給事なをなをゝこたらてとしもかへりぬおとゝきたのかたおはしなけくさまを見たてまつりにしゐてかけはなれなんいのちかひなくつみをもかるへきことをおもふ心はこゝろとしてあなかちにこの世にはなれかたくをしみとゝめまほしき身かはいはけなかりしはとよりおもふ心ことにてなに事をも人にはいまひときはまさらんとおほやけわたくしの事にふれてなのめならすおもひのほりしかとそのこゝろかなひかたりけりとひとつふたつのふし事に身ををもひをしてしにこなたなへての世中すさましうおもひなりてのちのよのをこなひに・・・」
(中山本・柏木帖より)

うあああ、どこで切って読むのか、全然わからへん!
句読点、濁点、そして仮名を適宜漢字に直してもらわないと、手も足も出ない。

江戸時代の人々もわしと同じだったようで、読んで楽しむ人々ばかりでなく、専門家である学者も、「源氏物語」を読むのは注釈付きのものを頼りにしていたらしい。とりわけ「湖月抄」がみんなの共通テキストみたいになっていたそうだ。
こうした刊行本のほとんどが、三条西家流「青表紙本」を基にしていたとされ、「河内本」は幻の本と思われていた。

明治になってもしばらくは同じ状況で、「青表紙本」系の写本や、「湖月抄」などで「源氏物語」は読まれ、またそれらを基にして活字本になっていたのだけれど、国文学の研究が進むにつれ、「青表紙本」の不備・・・文のつじつまが合わなかったり、「青表紙本」系同士なのに文章が違ったりすること・・・を解消するために、「河内本」探しが始まる。
そしてついに大正時代になり、大阪の平瀬家所蔵本が「河内本」とわかった。
以後、かなりの「河内本」が発見されて、それまでの「青表紙本」と付き合わせての研究が始まる。

ところが、そうしてみると、今まで「青表紙本」とされていたものの多くに、なんと「河内本」の影響が見られることがわかってしまったのだ。「湖月抄」や「首書」もまた、そうなのであった。
えええ?じゃあ、もっと純粋な「青表紙本」はないのか?
ちなみに、藤原定家直筆の原「青表紙本」はとっくに散逸してしまって、現在残っているのは、ばらばらの状態の4帖分しかない。(残っていたのが奇跡のようなもの)
改めて「青表紙本」探しもまた、始まり、あちこちに秘蔵されていた本が、昭和初期に掘り起こされたそうである。
その中で、佐渡の旧家から昭和4年(1929年)ころ大島雅太郎氏が買い取って世に出した「大島本」というのが、どうやらもっとも「青表紙本」の原型に近く、しかもほぼ全巻揃っているため、頼りになるということになった。

この「大島本」は戦国時代に、飛鳥井雅康という公家が、守護大名大内氏の求めに応じて書写したもの。

現在、わしらが手にすることの出来る「源氏物語」本文は、この「大島本」を基に、句読点、濁点を打って読みやすくしたものが多い。
・・・はあはあ、やっと、読むところまでたどり着いたぞ。(笑)

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2008.06.30

「源氏物語」を読む(1)

Outenmon

「源氏物語千年紀」に際して、なんか語ろうという程度で、天邪鬼的に
「『源氏物語』をどう見るか」
などという文章を書いてきたのでであるが、思いも寄らぬほど深入りしてしまった。
やはり、「源氏物語」の持つ力は凄いのだ・・・と、今更ながら気づいた次第である。

そこで、ここからは稿を改め、
真っ向から「源氏物語」に取り組んでみることにする。
「源氏物語」初心者として、読むことを始めたい。

ところで、ここへ来てふと、気づいたのだが・・・
今まで大雑把ながら紹介してきた、賞賛、崇拝から、軽蔑、弾劾に至るまでの、おびただしい「源氏物語」の論評。さて、それらの著者は、一体、どういう「源氏」本文を読んだのであろうか?

そう、本文。
もっとも基本的な、「源氏物語」そのもの。

「原文」という言い方は誤解しやすい。
「源氏物語」は、著者が書いた直筆原稿がちゃんと残っている、現代の小説とはわけが違うのである。
「原文」を、紫式部が書いた直筆原稿と言う意味でとるならば

そんなん、どこにも残ってまへん!!

という、ある意味当たり前で、しかし驚愕の事実を、わしはこの歳になって初めて気がついたのであった。

そして、書かれた当時の状況を想像してみた。
当たり前すぎるが、印刷などはされていない。全部手書き。
作者紫式部が書いたものを、誰かが読み、「これ、凄い!チョー面白いやん!」と書き写して、また誰かに読ませる。それをまた誰かが書き写し、書き写し、広まって行ったのである。

・・・その書き写した本、作者とかが校閲したのか?
・・・まあ、ごく最初は出来たかもしれへんけど、あとは、できるわけがないわな・・・(汗)

写し間違いは当然発生するだろうし、「著作権」などというもの、かけらもない時代であるから、書き写した者が「うちやったら、ここはこうしたほうがエエと思う」と勝手に改変するのも自由自在・・・

うわー、もしかして、「源氏物語」って、中身が違う本が一杯存在するようにならないか?

・・・で、現実はそうなったのである。(大汗)

語句の違い、展開の違い、巻数の違い・・・なかには文の意味の取れない本まで存在するようになったらしい。
「こらあかんわ!紫式部はんが書いた、基のヤツを復元せな!」
と、心ある者は考えるだろう。
それを、実行したのが、藤原定家と、源光行・親行父子であった。
平安時代末期から、鎌倉時代初期に掛けてのことである。

定家と源父子には交流があり、お互いに集めた本を見せ合ったりしつつ、それぞれに、「これぞ決定版・源氏物語」というものを作っていったのであるが、
定家が残したものを「青表紙本」という。青い表紙で装丁されていたからである。
源父子が残したものを「河内本」という。父子とも、河内守を務めて、そう呼ばれていたから。

ここで2種類の「源氏物語」が存在したことになる。協力して一つにすればよかったものを・・・と思うが、どうも双方の「編集意図」が違っていたようだ。

「青表紙本」は、可能な限り元の文章を復元しようとして古い文章を尊重し、意味の通らないところがあってもそのままにした。
「河内本」は、文章の筋が通っていることを第一に考えて編纂し、かなり改変を加えたかもしれない。
・・・というのが、これまでの研究の一般的見解である。

その後、これらの本も、写本段階でいろんな異本が生じている。両系統が混じった本もたくさんあるらしい。また、この2系統にあてはまらないものも存在する。
それでも、定家さんと源父子のおかげで、かなり混乱は収められたわけで、感謝せねばならんやろなあ・・・

ともあれ、平安時代に書かれたと証明できる「源氏物語」写本は、現在一冊も存在しない。青表紙本も河内本も、さまざまに異なるたくさんの「源氏物語」から必死に作り出したものである。
紫式部の手になる「原文」は、遥かな幻のままなのである。

それでは、わしらが今、読むことの出来る「源氏物語」本文とは、具体的にどのようなものなのか?
(続く)

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2008.06.25

「源氏物語」をどう見るか(番外編)

Daigojito

さて、源氏物語にとっての最大の受難時代の話が長くなってしまった。
だいぶ「源氏物語をどう見るか」から、道が外れてしまっているような気もする。
外れついでに、「大不敬」問題をめぐる人々の、その後の人生について触れてみたい。

まず、「大不敬」論を展開し、源氏物語排斥の急先鋒だった橘純一。
彼の論は結局、国文学界からは黙殺されてしまった。
彼はそんな中、陸軍士官学校の国漢教官(国語と漢文を教えたのだろう)となる。しかし、1943年(昭和18)に出版しようとした「日本神話の研究」はなんと陸軍当局から「発禁処分」になってしまった。当時国策として公認されていた神話解釈と異なるものだったせいだ。
やがて敗戦となり、陸軍士官学校は閉鎖となって自然退官。5年後に跡見短期大学教授となったが、その4年後、70歳で死去。

橘純一の攻撃した教科書を編纂した井上赳。
彼は引き続き教科書編纂事業に携わったが、1944年(昭和19)、文部省図書局廃止に抗議して辞職。戦後は1946年から1947年まで衆議院議員。日本国憲法の審議にも参加。
1951年から1956年まで東京文科大学(現二松学舎大学)、1958年から1965年の死去まで共立薬科大学の教授を務めた。
彼は戦後、「戦時中の自分は軍部や国家主義・国粋主義と戦い、その干渉に抵抗し続けた」と主張している。

源氏物語のことを
「いかにわが民族が、優秀なる民族であるかを、最も具体的に説明することであって、その内容が、頽廃的であるかどうか、などいふことは、まったく問題にならないことである」
と戦時中、国粋主義的に発言していた小説家・舟橋聖一。
彼は、敗戦の翌年、雑誌「国語と国文学」で
「自分の戦時中の考えは『もののあはれこそ国文学精神』というものだったが、大東亜文学者会議の事務局に握りつぶされて、発言を許されなかった」
と書いた。
その後、日本文芸家協会初代理事長、文部省国語審議会委員などを務め、1976年死去。

ちなみに「国語と国文学」の同じ号で、橘純一は
「戦前は為政者の魔術にかかって、科学的態度を軽視し、独善的態度に陥っていた」
と反省?している。

最後に、橘純一に対し、唯一名指しで反論した蓮田善明。
その当時、成城高等学校教授であり、日本浪曼派の論客としても活躍していた。やがて軍隊に召集され、陸軍中尉としてマレー半島で敗戦を迎える。その翌日、8月16日に、上司を射殺して自決。


このブログにコメントをくれる畏友が、示唆を受けたという
「文学部をめぐる病い(」高田理惠子著 松籟社)
という本を、数日前に読んだ。
副題に、「教養主義・ナチス・旧制高校」とある。
主に戦時中から戦後への日本のドイツ文学者たちの右往左往する言動を、シニカルで客観的、かつ愛情に満ちた筆で描いて、「二流」の自覚にさいなまれた「半端な文化人」がどう生きてきたかと言う問題を提起した本・・・だと思う。
戦時中から戦後に掛けての、源氏物語に関する国文学者たちの右往左往と、この本に書かれたドイツ文学者たちと、相似形であるのは言うまでもない。

彼らの「論」に対して、わしは批判的であるが、彼らの生き方、人格については何も言うことはできないだろう。
高田理惠子氏の言葉を借りれば、
彼らの「努力、悔しさ、悲しみ、そして過ち」を、何とか理解しようと思うだけである。

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2008.06.23

「源氏物語」をどう見るか(9)

Tuyusikibu

ひたすら、源氏物語が千年の昔に書かれたということや、古来から賞賛されてきたことにすがり、権威主義的におしつけようとする勢力に比べて、橘純一の「大不敬」論が、ある意味明晰で鋭いものに思えてくる。

橘の指摘した「源氏物語の情的葛藤中、最も枢軸をなす藤壺中宮対源氏の君の関係・・・」

 (情的葛藤中、最も枢軸をなす・・・ これ、凄くかっこいい言い回しだなあ・・・と思ってしまうのはわしだけだろうか。きっと、枢軸って言葉はこの頃、流行だったのだろうなあ・・・枢軸国っていうたら、ナチスドイツとファシズムイタリアと、大日本帝国だったしなあ・・・
そして、かっこいいだけじゃない。わしも、藤壺と光源氏の関係から生じる葛藤こそ、源氏物語の最重要部分であり、そして、 まさにここが精髄だと思うのであるが、それについてはまた別記。)

ここを指摘した橘の意見を黙殺しておきながら、源氏物語を教材に載せた勢力もまた、同じようにここを国民に見せないように、知らさないようにした。
同じ穴の狢だったのである。橘純一の指摘した部分を、「ヤバイ」と彼らも思っていたのである。
だから、まともに反論するのは拙かった。黙殺し、この部分を「必要性は無い」「中心事情になってゐない」(山田孝雄「谷崎氏と源氏物語―校閲者のことば」「中央公論」昭和14年1月所収)と歯切れ悪くも一蹴した。

しかし・・・
それもこれも、「源氏物語」を愛し、あの時代に生き延びさせる方便だったと見ることは出来よう。
一見、傲慢に見えるが、彼らは、必死だったのだと思う。
国を挙げて、戦争の遂行にすべてを捧げさせる時代に、「源氏物語」などは、役に立たない無用のものとまっさきに槍玉に挙げられる。そんな中で生き残っていくために、最大限に源氏物語を持ち上げ、日本国民の誇りとしなければならなかったのだ。おそらく、それこそが本音だったのではないか。

今、京都では、源氏物語千年紀、と祝し、源氏物語賞賛の雨あられ。
けれどそれが「世界に誇るべき日本の宝」ということだけで、物語の中身にさして目を向けないのなら、あの惨憺たる戦争の時代と、「源氏物語」に関する事情はほとんど変わらないのではないか。
あるいはそうかもしれない。
儲かる学問、就職し易い学部にばかり人と金が集まる風潮はますます強まり、いまや、多くの大学の「国文科」や「日本文学科」は存亡の危機にあるとまで聞く。
かつて小学校教科書に「源氏物語」を載せようとした者たちが聞いたら、悲憤慷慨し、また、同じ事をしようとするだろうか。

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2008.06.22

「源氏物語」をどう見るか(8)

Jidaiisho

中心となって教科書を作った井上赳によれば、源氏物語を教材としたのは
「平安京の最も栄えた時代に、枕草子や源氏物語の如き世界に誇るべき文学が出たことを想はしめる」(小学国語読本尋常科用巻十一編纂趣意書)ためであった。
その「編纂趣意書」を貫く思想は、「国民精神」「国民文化」「国民文学」「国民思想」を児童に叩き込もうというものである。やたら「国民」が強調されるが、つまり日本国民であることを世界に向けて誇るよう教えるのが、第一義だったのであった。
そして、具体的に「小学読本」に載った「源氏物語」は、およそ本文の面影をとどめない、けったいなものとなった。全部を引用すれば誰でもわかりやすいのだが、要約すると
●前後2段に分かれる
●前段で、作者としての紫式部、作品としての源氏物語の簡潔な説明。
●後段が本文で、源氏物語の中から、ほんの一部分を抜粋し、わかりやすい口語訳にして紹介。
ということになっている。
前段では「源氏物語五十四帖は、我が国第一の小説であるばかりでなく、今日では外国語に訳され、世界的の文学としてみとめられるやうになりました。」と強調された。
後段には、「若紫」と「末摘花」からの抜粋が載る。これが実にとんでもないシロモノであった。
「若紫」からは光源氏が幼い少女である紫の上を見初める部分が採られたのだが、なんと、「光源氏のいない源氏物語」になっている。少女の可愛らしさをひたすら描写しているのだが、それを見つめる光源氏の姿と存在は文章のどこにもない。抹殺されているのだ。
「末摘花」のほうでは、光源氏が愛人の一人、末摘花のところから自邸に戻り、引き取って育てていた紫の上と絵を描いて遊ぶ箇所が採られている。もちろん愛人・末摘花などはかけらも出さない。ただ、兄と妹のように仲良く遊ぶ二人の姿が描かれるだけだ。
その後、この「末摘花」からの抜粋部分は「紅葉賀」からのものに差し替えられる。
こちらでは、光源氏と紫の上の関係はなんと「いとこ」と書かれる。それはまあ、系図上から見ればそう見れないことはないが、それを辿るには、禁じられた藤壺と光源氏の関係に言及しなければならないじゃないか!
もちろん教科書の文章に、そんなことを書くわけには行かない。

教材として載った「源氏物語」は、本文をただ口語訳したのではなく、まるで別の物語をでっちあげたものであった。小学生の教材として提示するには、こうでもするほかはなかったのだろう。
それにしてもあまりに無理やりなやり方である。どうしてこんなに捻じ曲げてでも、源氏物語を教材に載せなければならなかったのか。

それについては、次の文章が最も意図を露骨に語っていると思われる。

「今や世界は各国とも自国的のものを熱心に主張する時代となつた。国際的大試合の最中の感がある。大事な試合の際に、わが長所を用いる遑(いとま)がなく、敵の長所に引きずられるやうになれば勝味は無い。だからどの国でも自分の長所とする特色を発揮するのに一心になる。我等も日本的なものの発揚を怠つてはならない。その方法は一に限らぬが、日本的なものの因って来る源泉である古典を普及するのもよい事である。国定教科書に万葉集の歌が入り、古事記の話がはいつたのは結構である。相並んで源氏物語が採られたので完璧に近づいた。我等の祖先は、皇室を中心として一致団結し、明浄直の三徳を実践して驀(まっしぐ)らに発展の一路を歩いて来た事を、小国民に自覚させねばならぬ。発展の途上には文化的にも偉大な足跡を残して他の追従を許さない誇りをも持たしめねばならぬ。源氏物語の如きは文化史上の金字塔として世界に誇るに足るものである。我等の祖先にかくの如き偉大な作品の作者があった事を知らしめるだけでも、自国愛の涵養に予想外の効果があるであらう。」
(平林治徳「教材としての源氏物語」「文学」昭和13年12月所収・岩波書店)

「我等の祖先にかくの如き偉大な作品の作者があった事を知らしめるだけでも」

そう、それを知らせるだけでよかった。それ以上のことを知らしてはならなかったのだ。
だから、あんないびつな抜粋を載せたのである。
それ以上の興味を持ち、もとの文を読みたい・・・と思わせては困るのであった。

「約千年も昔に、その頃はヨーロッパの如きは、まったく無知蒙昧の野蛮時代であった頃に、このやうに、すぐれた小説が製作されてゐたといふ動かすべからざる事実は、いかにわが民族が、優秀なる民族であるかを、最も具体的に説明することであって、その内容が、頽廃的であるかどうか、などいふことは、まったく問題にならないことである。」
(舟橋聖一「源氏物語と国民文学」「新潮」昭和15年11月所収・新潮社)

大和民族が他民族に優越することの証明が大切であって、物語の中身などはどうでもいいのであった。まさに、時流に応じた「源氏物語」の役立て方であろう。
それを進めようとした者たちにとっては、橘純一のように、源氏物語の中身の問題を暴き立てるのは、最もタブーとするところである。
「それをいっちゃあ、おしめえよ」だったのだ。

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2008.06.20

「源氏物語」をどう見るか(7)

Jidaigissha


前回、昭和13年以降、敗戦に至るあたりを「源氏物語にとって最大の受難時代」と書いた。
しかし、これにはもう少し説明を加えなければならないと思う。
単純に「受難、暗黒時代」であったなら、焚書だの禁書だのになったように思われる。
ところがこの時代、源氏物語は、なんと小学校の国定教科書の教材になり、全国の少年少女が読まされていたのだ!

そもそも、橘純一が源氏物語を非難・弾劾したのは、国定教科書(この時代、これ以外は学校で教科書にすることは禁じられていた)に載る事に際しての反対意見だったのである。
彼の意見は確かに大きな反響を生んだ。しかし彼に賛成したほとんどは、源氏物語に関して専門化ではない人々である。
肝心の教科書編纂側、そして国文学界は、ありていに言うと彼の意見を黙殺した。
かくて、国定教科書「小学国語読本」巻十一=六年生用に1938年(昭和13)から1947年(昭和22)まで源氏物語は載っていたのである。

これをして、教科書編纂者や国文学者たちが、軍国主義や国粋主義に抵抗し、良心を守り抜いたから・・・と賞賛する向きもある。ところが、そうではなかったのだ、残念ながら・・・

たとえば、彼らのうち、正面から橘純一に反論した意見はほとんど・・・いや、ひとつもなかったのである。
教科書編纂者井上赳(たけし)は
「区々たる俗論の如きは敢えて論ずるに足らない」と言っただけ。
ほかには、「源氏物語をもつて頽廃文学とするのは一知半解の考であらう。」「もし源氏物語を頽廃文学と認める立場から考へれば、わが国の古典文学は何らかの意味で退廃的であり不健全といふ事になる」「源氏物語を排撃する人々は(中略)左翼思想を隠した人々に多いことを一言しておく」などと、頭ごなしに恫喝した者もあれば、「橘は主催していた国語研究の雑誌が運営困難になったので、名前を売ろうと過激なことを言ったのだ」と、誹謗するやつなど、ろくでもない意見しか残っていない。
実は、教科書に源氏物語を載せようとした彼らの意見もまた、十分に当時の軍国主義、国粋主義的時流に乗っかったモノであった。(続く)

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2008.06.16

「源氏物語」をどう見るか(6)

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(写真は、左京区岡崎にある、京都市美術館。1933ー34年(昭和8-9竣工)

源氏物語を現代語に訳したものは、与謝野晶子以来、今に至るまでいくつも出版されている。
谷崎潤一郎が手がけたものも有名だ。
ところが、彼が現代語に訳した源氏物語は、3種類存在するのである。
なぜ彼は何度も現代語訳を試みたのか?

実は最初のものは1935年(昭和10年)から書かれ、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)にかけて刊行されたのだが、一部が削除された不完全版であり、戦後になってそれを補う第2回のものを出版したのである。3回目は、かなり時間が経ってから「決定版」として、新仮名遣いのものとして出したのだった。

では、最初のもので削除されたのは、どこかというと、

「源氏の構想の中には、それをそのまゝ現代に移植するのは穏当でない三カ条の事柄がある。
その一つは、臣下たる者が皇后と密通してゐること、他の一つは、皇后と臣下との密通に依って生れた子が天皇の位に就いてゐること、そしてもう一つは、臣下たる者が太上天皇に準ずる地位に登ってゐること、これである」
という、部分であった。
この言葉を谷崎に申し渡したのは、校閲者として携わった国語学者・山田孝雄(よしお)である。
その背景には、皇国史観による、思想統制があったことは言うまでもない。山田孝雄は、国語学者として「山田文法」理論で知られる実力者だったが、国粋主義を推進した「国士」とも見られていた。

次に引用するのは、橘純一という国文学者が、1938年(昭和13)に発表した文章である。おそらく、源氏物語に対する、史上、最も苛烈な非難と弾劾の言葉だと思う。

「源氏物語の情的葛藤中、最も重要な枢軸をなす藤壷中宮対源氏の君の関係、これより起こつた第三帝(桐壷の巻に出で給ふ帝を第一帝として数え申す)御即位の事、源氏の君が太上天皇に准ぜられる事、これらは大不敬の構想である。源氏の君の須磨引退の原因となった第二帝の寵姫朧月夜内侍との関係も亦然り源氏物語は全篇一貫して、その性格が淫靡であり不健全である。平安貴族衰亡の素因を露呈した文学である。」
(小学国語読本巻十一「源氏物語」について文部省の自省を懇請する・太字は原文のまま)

 光源氏と藤壺の密通、その間の不義の子が皇位に就く、
 そして光源氏が皇位に就いた子の父として「太上天皇」となる、
 また、光源氏とやはり帝の妃だった朧月夜との密通、

 これらは「大不敬の構想である」と、橘純一は喝破した。

天皇・皇族・皇室に敬意を払わず、無礼な行為をするのを不敬というのであるが、「不敬罪」というものが存在した時代、これは法律違反と言う以前に、道徳的に糾弾されたのである。
それが、「大不敬」だよ・・・おそらく当時にあっては、最大級の非難、糾弾、弾劾だ。
山田孝雄は、橘純一のように、源氏物語全篇を否定したりはしなかったが、橘の指摘した部分に関しては、厳しく削除を言い渡した。

「(山田)先生が粛然と襟を正してこれを申し渡された時の態度は、いかにも古への平田篤胤などに見るような国士の風があったことを、今も忘れることは出来ない。」
(谷崎潤一郎「あの頃のこと」(山田孝雄追悼))

谷崎潤一郎はもちろん不本意だったに違いないが、「大不敬」とされた部分を削らなければならなかった。
そして、これ以降、源氏物語に関する書物は、この「大不敬」に関わる部分を削るか、伏字(××)にするものが多かったらしい。
源氏物語にとって、最大の受難時代だっただろう。

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2008.06.14

「源氏物語」をどう見るか(5)

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(写真は京都国立博物館。1895年(明治28)に竣工)

仏教の立場から、儒教・儒学(朱子学)の立場から、源氏物語を非難する向きがあったのは既に触れた。
明治になっても、そうした空気はあり、また、外国に対して勇ましく士気を高めようという意識が盛り上がったせいか、軟弱なるモノへの風当たりは強まる。源氏物語はしばしばその格好の槍玉に挙げられた。

たとえば、キリスト教の思想家・実践家である内村鑑三などは、こんな風にぶちあげた。

「また日本人が文学者という者の生涯はどういう生涯であるだろうと思うているかというに、それは絵艸紙(えぞうし)屋へ行ってみるとわかる。どういう絵があるかというと、赤く塗ってある御堂のなかに美しい女が机の前に坐っておって、向こうから月の上ってくるのを筆を翳(かざ)して眺めている。これは何であるかというと紫式部の源氏の間である。これが日本流の文学者である。しかし文学というものはコンナものであるならば、文学は後世への遺物でなくしてかえって後世への害物である。なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何もしないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしになした。あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい(拍手)。」

太字部分はわしが加工しました(笑)それにしても、日露戦争に反対したという内村先生にしては実に好戦的な文章で驚いた。長くなるので引用しなかったのだが、これに続く部分には「文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。」という言葉まで。
これは、京都便利堂から明治三十年に発行された「後世への最大遺物」という小冊子の一部分。何度か再版され、「後世への最大遺物・デンマルク国の話」というタイトルで岩波文庫にもある。

さて、この内村鑑三と同時代、芳賀矢一という人が国文学の世界で活躍している。実は活躍などと言う生易しいものではなく、「国文学」というものの成立に絶大な力を発揮したと言うほうが良い。
この人、夏目漱石と同じ船でヨーロッパに留学し、ドイツで文献学を学んで持ち帰り、それまで、「国学」の一分野であった国語や国文に対する研究を「国文学」として成り立たせたのである。
国語国定教科書を編纂したり、文部省唱歌の歌詞を作ったり、後には國學院大學学長に就任。日本の文学研究の基礎を作った大きな存在だった。
「形容動詞」という言葉を作ったのも彼だという。
そんな彼はもちろん日本の古典のほとんどを研究しているのだけれど、源氏物語にはこんな言葉を述べているのである。

「腐敗した社会の有様を書いたものを
 我国文学の第一のもののやうに珍重しなければならぬ
 というのも、実は情けないものです」

また、平安時代の物語全般を評してこう書く。

「而して其文の艶麗緻密に長じて、豪放奔快の事なきもの」
「其載する所多くハ艶話等に過ぎざる」

どうも芳賀先生も内村先生と同様、勇ましいもの=豪放奔快を愛し「艶話」のようなものを毛嫌いしていたようだ。
この人の著作で有名なものに「国民性十論」というものがあり、これは日本人の国民性について述べた本の走りと言うて良い。
その手の本のほとんどと同じように、他の民族や人種と比べて、日本人はこんなに優れているんだぞ!と勝手な印象を並べたものだ。今読んでみると、「ああ、日本人は芳賀先生の述べた美徳のほとんどを裏切っていたんだなあ」と感慨深い。
ただ、その中で「草木を愛し自然を喜ぶ」という項があり、その中で源氏物語の描写も例として引用される。源氏物語のそういう面は自慢したかったらしい。

ともあれ、近代国文学にあっても、発祥の頃から、源氏物語には賞賛と共に批判が向けられていたことは間違いない。
やがて、国粋主義の暴走、天皇の絶対化、神格化が進むと、源氏物語には根本的な非難、弾劾が襲うことになる。

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2008.06.11

「源氏物語」をどう見るか(4)

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(写真は、「源氏物語千年紀」関連のイベントポスター)

源氏物語を「好色」だからと排除した勢力の一方で、「好色」だからこそもてはやした者達も、もちろん存在した。
江戸時代のそれを、はなはだ大雑把ではあるが紹介してみたい。

さて、もしも、

あなたが、大学の文学部に進み、国文科とか日本文学専攻とかを選んで、研究対象を決めるとする。
「紫式部の源氏物語にします」
と言えば、友人とか家族とか、一般の人は
「ええな~、結構やな~」と納得するであろう。
しかしこれが、
「井原西鶴の好色一代男にします」
と言い出すと、まあ、ほとんどの人は引くに違いない。
「こ、好色って、あんたそんなえげつないものを・・・」

だが、「好色一代男」こそは、「源氏物語」を受け継ぐ文学作品の画期的なひとつであった。
構成からして「源氏物語」が54帖であるのにならい、主人公・世之介の人生を7歳から60歳までの54年間、54章で描いている。
そして、「源氏物語」が取り扱った「いろごのみ」=多くの女性を遍歴する男のロマンを、江戸の現世に再現するものだったのである。

けれど小説の内容としては、ひたすら女性との交情を描いており、「好色」がただただ、色欲の充足とみなされていく結果になった。
それは遡って、原型である「源氏物語」の「いろごのみ」もそう解釈されてゆく風潮を生んだかもしれない。

江戸時代の文芸はさまざまな展開をしていくけれど、「源氏物語」と「好色」の系譜はやがてもうひとつの爆発的ヒット作を生む。

その名も「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」。
将軍直属の武士・旗本出身の柳亭種彦が作者であるが、この本、38巻に及ぶ大作で、1000部も売れればベストセラーと言う時代に、各巻それぞれが1万巻も売れたという超ベストセラー。貸本が普通だったので、おそらく江戸の町民がほとんどみんな読んでいた。
内容は源氏物語を江戸時代に移し変え、光源氏は「足利光氏」という武士で、足利将軍や山名・細川など大名のお家騒動のなかで、活躍するというもの。
ただし、読者の興味は勧善懲悪的活劇にはなくて、主人公の「好色」な女性遍歴描写が、当時の江戸将軍家「大奥」の内情暴露ではないかというところにあった。
そのために時の権力に睨まれ、ついに発禁処分を食らい、作者も程なく死んで(自殺説あり)、作品としては中断している。

だがこの「田舎源氏」こそが、当時の江戸の庶民にとっては「源氏」だった。
光源氏はよく知らないが、足利光氏こそはわれらがヒーローであり、アイドルなのであった。
また、「田舎源氏」の本は、挿絵が大きな役割を果たし、文章はむしろ従、今で言うマンガみたいな感じだった。そしてその挿絵を描いたのが浮世絵師・歌川国貞で、売れたのは彼の絵のおかげだと、柳亭種彦のライバル、滝沢馬琴は皮肉っている。
ついには、「田舎源氏」の挿絵や、その名場面を描いたものを「源氏絵」と呼ぶようになり、単独でももてはやされるようになった。国貞もノリまくって描きまくり、1千枚に及ぶという。

「源氏物語」原文はほとんど読まれていないが、挿絵たっぷりの「田舎源氏」は誰もが読んでいる・・・
この江戸時代の構図、現代と良く似ていると思う。

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2008.06.04

「源氏物語」をどう見るか(3)

仏教の教えに五戒というものがあり、そのひとつは「不邪淫」である。簡単に言うと、「不倫をしてはいけない」というものであり、源氏物語の主人公たちはまさに不倫の連続であって、その意味で罪深いとされた。

やがて鎌倉時代になり、儒教の朱子学が移入されて盛んになると、こちらからの「源氏物語」排撃が行われる。
「忠孝」や「倫理」を説く立場からは、光源氏が父帝の妃と密通するなどという行為は、もってのほかであった。近親相姦は最も嫌悪すべきタブーなのである。
儒教の影響の強かった中国・韓国では、いまだに「同姓不婚」であり、特に韓国では、民法でそう決まっているそうだ。
光源氏は、「空蝉」という人妻のところへ忍んでいったおり、彼女に逃げられ、同じ部屋にいた空蝉の義理の娘「軒端荻」を「まあ、これでいいか」と抱いてしまっているが、儒教倫理に照らせば(照らさなくてもか・笑)、言語道断だろうなあ・・・

そうした儒教・朱子学は京都五山の僧らが持ち込み、広めていったのであるが、武士階級がそれを主に受け入れ、徳川幕府の御用学問となっていった。
反面、公家は余りこれに染まらず、「源氏物語」の文化を保ち続けたというのが一般的なイメージである。
ところがどんな事にも例外があり、それも時に過激に現出する。

Gosho
(写真は京都御所)

江戸時代初期、京都で藤原惺窩らが活躍し、僧に担われていた儒教から、学問としての儒学に変容し、さらに広まる。
そうした空気の中、漢詩文を好み、和歌や物語を蔑視する傾向があったらしい。中でも突出したのが、後光明天皇であった。

「同帝(後光明天皇)常々被仰候は、吾国朝廷の衰微いたし候は和歌の発興と源氏物語の行はれ候との二つより起候。(中略)況、源氏は淫乱の書に相極候旨被仰候て、一向歌は不被為読候。源氏、伊勢の類は御目通へも遣不申候。」(室鳩巣『鳩巣小説』)

 儒学者・室鳩巣が肯定的に記述するところで、
「わが国の朝廷が衰えたのは、和歌と源氏物語のせいだ」
「源氏物語は淫乱の書、その類のものは一切読まない。和歌も詠まない」
 と言い切る帝であった。
 このお方、剣術も好んでいたという硬派ぶりなのである。

しかし、この後光明天皇、父親はあの、後水尾天皇なのだ。
ご存知だろうか?
後水尾天皇は、徳川秀忠の娘・和子を妃(女御のち中宮)として迎えた帝で、徳川幕府と長年熾烈に渡りあう一方、修学院離宮を造営させ、気概と覇気を示した天皇と知られる。
そして、子どもの数は皇子皇女合わせて、公式に36人!第19皇子は58歳で、第17皇女は61歳で産ませているというのである。
ホントかうそか知らぬが、遊女を宮中へ呼んだり、お忍びで遊郭に通ったりと言う話も伝わる。
なんというか、光源氏みたいなスーパープレイボーイなのだった。学問好きでもあり、「伊勢物語御抄」という本も書いているが、もちろん自分自身を業平や光源氏になぞらえていたに違いない。

そんな父親に対して、息子がとった硬派的生き方というのは、やはり、父への反発がそうさせたのじゃないかと言うのが、わしの想像である。なにしろ、後光明天皇が即位したのはわずか11歳で、父の後水尾上皇の院政の手の中。公私ともに巨大な壁である父親に反抗し、剣術に、源氏物語批判にとあがいていったのではなかろうか。

そんな後光明天皇、わずか22歳で崩御してしまっている。公式には天然痘が病名だが、毒殺説もある。
幕府の朝廷抑圧と巨大な父親の存在に反抗するなかで発した「源氏物語なんぞいらん!」という叫びは、時の流れに埋もれて久しい。

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(写真は、東山の泉涌寺。皇室の菩提所であり、後水尾天皇も、後光明天皇もこの寺内の月輪陵に葬られている)

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2008.05.30

「源氏物語」をどう見るか(2)

Sikibukuyoto

『源氏供養』という言葉、考え方を知り、わしはやっと納得できたことがある。

上の写真は、桜の季節に西陣を回ったとき、引接寺=通称千本ゑんま堂で撮ったものだ。
普賢象桜という、八重桜のふわふわ花弁に囲まれて立っているのは、「紫式部供養塔」である。

どうしてそんなものがここにあるのか?
そもそも、供養塔とはなにか?

その答えは、千本ゑんま堂の開基とされるのが、小野篁(たかむら)であることに隠されていた。
小野篁もまた、紫式部に勝るとも劣らないほど伝説化された人物の一人である。
平安初期の歌人、漢詩人として名を成すと共に、冥界に自由に行き来し、閻魔大王に仕えていたという伝説が有名なのだ。
そう・・・紫式部が地獄へ堕ちたという伝説にも、彼が現れるのである、救済者として。

今昔物語などで小野篁は、顔見知りの貴族が閻魔大王の下へ引き出されてきたとき、これを救ってやったと記される。『源氏供養』を思い立った人々は、紫式部も同じように、小野篁によって地獄行きの運命から救い上げてもらいたいと考えたのだ。つまり紫式部供養塔は、冥府の小野篁に紫式部を救ってくださいと祈る『源氏供養塔』なのである。

この千本ゑんま堂から東へ、鞍馬口通をだいたい800メートルほど行くと、堀川通。そこから北へちょっとあがると、東側になんと、「紫式部の墓」と「小野篁の墓」が並んで存在する。
小野篁の没年は852年、紫式部は1014年?(はっきりしないらしい)ということで、生前にはまったく縁もないふたりであるからして、ここに二人の墓があるのも、『源氏供養』の考えによるものに違いないだろう。

さて、今回いろいろ調べていくうち、『源氏供養』は、物語、謡曲にもなっていることを知った。
謡曲「源氏供養」のストーリーを読むと、紫式部堕地獄説と、紫式部観音化身説が合体していて面白い。
前段で成仏できない亡霊として顕れた紫式部が、後段の最後では地謡によって石山観音の化身であると明かされるのだそうだ。
『源氏供養』を行った人々は、「源氏物語」に反発したというより、この物語の愛好者であり、罪深い物語を読み耽ってしまった自分の罪をあがないたいという意図があったようである。
なんだかそれは、とても人間的で、共感できるなあと思うのだ。

(引接寺=千本ゑんま堂所在地:京都市上京区千本通蘆山寺上ル閻魔前町34番地)

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2008.05.29

「源氏物語」をどう見るか(1)

「『源氏物語』千年紀」というポスターが、今の京都の街には目立つ。
滋賀県大津市の石山寺も、源氏物語執筆の場所と言う伝説で盛り上がっているようだ。

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『源氏物語』という書名が、現在わかっているところで最も古く文書に現れるのが、『紫式部日記」1008年11月1日の項だったから、今年を『千年紀』として祝おう・・・ということなのだそうだ。

というわけで、今は京都の街もメディアも、源氏物語礼賛一色であり、なんとNHKの「みんなのうた」でさえ「光のゲンちゃん」という、光源氏を讃える歌が流れていたりする。

さて、そうなってみるとわし、一言言いたいのであるが、源氏物語はずっと高尚な古典文学と崇拝され、日本文化の精髄と愛好されてきた一方で、これを認めない思想と言うのもずっとあったのである。

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「紫式部堕地獄伝説」

紫式部は、死後、地獄に堕ちた・・・という伝説と言うか考え方が、昔あったそうである。
角川書店の「日本伝奇伝説大事典」は、わしの座右の書のひとつなんだけど、その紫式部の項目に、こんな叙述があるのだ。

「・・・紫式部堕獄説であるが、これはすでに平安末期にはあったようで、『宝物集』(平康頼撰、治承二年以降成立)下には紫式部が人の夢に顕れ、虚言でもって『源氏物語』を書き地獄に堕ち苦しんでいるゆえ供養して欲しいと言ったとあり・・・」

「虚言好色な物語」「虚妄の好きがましい書」と源氏物語を非難し、作者の紫式部を、罪深い者と断じる人々が、すでに平安時代から居たそうである。
その罪によって地獄に堕ちた紫式部を救済しようと『源氏一品経』『源氏物語願文』などが編まれて、『源氏供養』というものが鎌倉期にかけて行われたというのであるから、半端な潮流ではなかったようである。

そうした流れに反発して、
「いや、『源氏物語』は仏の道へ導くモノなんや!」という一派も同時期に在って、こちらはさらに
「こんな素晴らしい物語を書いてくれた紫式部は神、いや仏の化身」
とエスカレート。
紫式部が近江の石山寺に参篭して源氏物語を執筆したという説は、これらの論客によって、式部を仏に結びつけるために出来上がってきたらしいのである。
その結果、この説は
「紫式部は石山観音の化身である」というところに行き着いたのであった。

どっちも、紫式部が聞いたら
「そないおもわはるんやったら、そなんちゃいますか」
てなものであるが・・・

ともあれ、道徳的、宗教的にこの物語を見る人々は、昔から多かったのである。

この項の写真3枚はどれも石山寺。(2月末に行ったときの撮影で、よく観ると雪があります)

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2007.02.16

京都案内本の真贋

京都ブーム、「京都検定」人気の余波、いろいろあって、書店の「京都コーナー」はどんどん本が増えていくようである。

わしが京都に来て、ともかく京都のことを知らねばと思って買った本の一つが
岩波新書・青版の「京都」で、林屋辰三郎先生の名著である。
1962年に第一刷が発行されて以来、版を重ねて今に至るも読み継がれている。

その冒頭を引く。
「 御池
 京都は、神泉苑からうまれた。そういっても京都をおとずれる人々に、神泉苑の名はあまり耳なれたものではなかろう。いや京都に住む人々にも、このごろはさほど関心をもたれてはいない。しかし御池といえば、京都を知る人なら誰でも知っているはずである。その通りには京都市民のための市役所もあれば、京都訪問客のための著名なホテルもある。そのうえ戦後、疎開跡を利用して道幅をひろげてからは、祇園会の山鉾巡行路ともなって、一躍その名を高めた。」

さて、次に引用する文章は、2004年10月に発行された、京都を案内する本の一節である。

「 神泉苑
京都のルーツ
 京都は神泉苑から生まれた。そういわれても神泉苑の名は余り耳慣れないものかもしれない。しかし「御池」といえば、京都の人なら誰でも知っているに違いない。単に御池と呼ばれ、古来親しまれてきた名園である。二条、三条といった京都洛中の大路の真ん中にあるのが御池通で、戦後は祗園祭りの山鉾巡航路となって一躍その名を高めた。」
 

一目瞭然、ほとんどそのまんまパクリである。
しかも、よく知られた名著の冒頭をいただくという大胆不敵さ!
わしは呆れ果てたのであるが、ふとわが身を振り返って思うところがあった。
わしも、京都の案内をブログに載せている。寺社や名所の由来などを綴るとき、先人の著作を参考にするのは当然である。
そのとき、データを引く程度なら許されるであろうが、文章をそのまま盗み、あるいはあちこちから切り取ってきてつぎはぎして、自分の創作のように披露し、得意になっていないか?
固く自戒せねばならぬと思った。

京都の名所案内の本は、江戸時代から沢山出ていて、一つヒット作が出るとその海賊版みたいなものが続々と出たようである。
現代は手軽なガイドブックや地図を兼ねたムック本、イラスト本から、花の名所や美術や骨董や庭園やらの専門的な案内書まで、百花繚乱状態。
インターネットのHP、そしてblogもまた京都関係のものがたくさんある。
わしのblogなどは偏向がはなはだしく、忸怩たるモノではあるが、限りなく良心的でありたいと思う。

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2006.11.13

京都と「作家」 その7 水上勉

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わしにとって、水上勉こそ、京都を描いて最も心に沁みる作家である。
若狭に生まれて、九歳で京都の瑞春院に入り、十一歳で得度し、やがて等持院に移って十八歳まで小僧として修行を続けたのち、二十一歳で東京にでた水上は、
「京都の人びとや京都の風光が私にあたえたものは大きく、大きいというよりは、ふかく根づよいものになってしまっている事に気づいている。(中略)はっきりいえば、京都をはなれて私はあり得なかった。」(立風書房刊「京都花暦」収録の「京の人びと」より 以下も引用はこの本より)
と書いている。
そして、彼の視点は、京都に奉公にやってきた地方人、なのである。
「つまり、京はこのような奉公人といえば古風すぎるが、よそからきて、京の風土に培われている人びとの多い街といえるだろう。」
さらに、こう綴るのである。
「谷崎潤一郎も長田幹彦も、近松秋江も、吉井勇も、川端康成も、大仏次郎も京を描いた。もちろん一級の文学もあった。ところが、これらの作品によく目をすえて、今考えてきたような京の土の深さ、根のつよさみたいなもの、地下茎のようなものが、この古都を息づかせている世界に分け入った作品はというと数少ない。明治以後は、ほとんど旅人の目にうつった世界といえぬはない。」
「それでは私はどうか。問われれば、地下茎を踏んまえた上での物語を好んできた。旅人の目にうつった物語には惹かれなかった。」「『金閣炎上』も『五番町夕霧楼』も『雁の寺』も『西陣の蝶』も、私は、いくらかでも旅窓から降りて、地べたを見つめながら書いたつもりだった。」

よそから来て、京都に根づき、地べたを見つめながら生きる庶民の哀歓。それこそが水上勉の京都を舞台にした小説を貫くものである。
彼の文名を確固たるものにした「雁の寺」を読めば、それは一目瞭然だ。

ある日本画家が襖に雁を描いた京都の禅寺が舞台なのだが、一応設定は架空であり、画家も寺院も名称はすべて実在する名前ではない。しかし、描かれる寺院生活の日常はあくまでもリアルである。その寺の和尚は日本画家の死後、画家の妾を寺に引きとって愛人にする。そして、執拗に描かれるのは、水上の体験を基にした小僧の生活の過酷さ。それは、当時の庶民=奉公人たちが共通に味わった苦しみである。厳しい戒律と屈従を小僧に強いながら、自らは欲望をほしいままにする和尚への小僧の敵意は、ついに惨劇を生む。そして、小僧をさいなむのは和尚ばかりでなく、虚弱な身に軍事教練を強いる中学校であり、その背後にある国家権力でもあった。この小説は、権力を持つものに対する弱者の怨念と反逆の文学といっても過言ではないだろう。
その一方で、和尚の愛人である女性は優しく、ある意味母性の象徴のようにも描かれ、小僧がこの女性に母の面影を見ていることも暗喩される。彼女もまた、八条坊城という京都郊外に生まれ、幼い頃から京都の料亭で奉公人として働かざるを得なかった庶民である。

「愛憎もつれあって、悲しみも喜びも、吸いこんでいる冷たい土壌の街」と京都を語る水上。「雁の寺」も「五番町夕霧楼」も結末は非情で哀切だ。その非情と哀切こそ、京都を最もリアルに体感させてくれると、わしは思うのである。

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2006.11.04

京都と「作家」 その6 長田幹彦

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さて、「祇園」で思い出される作家は、長田幹彦である。

え?知らないって?
まあ、作家・長田幹彦と言われるとなかなか思い出せないであろう。
この人は、「祇園小唄」の作詞者なのである。

 月は朧に 東山
 霞む夜ごとの かがり火に
 夢もいざよう  紅ざくら
 忍ぶ思いを 振袖に
 祇園恋しや だらりの帯よ

を1番として、4番まであるこの歌、京都というと誰もが思い浮かべる歌の一つであろう。(作曲は佐々木紅華)
実はこの歌は、映画の主題歌であった
それも、長田幹彦が書いた小説を原作とした映画だったのである。
小説のタイトルは「祗園夜話」
映画のタイトルは「絵日傘」
昭和5年に作られたそうである。映画と共に歌は全国に流れ、京都の花街を象徴する歌になった。

何しろ無声映画の時代の作品で、映画はわしは見たことがない。
そして、彼の書いた小説もまた、今では書店ではまず、見る事がない。
しかし、長田幹彦は大正時代の売れっ子作家で、「祗園」「祗園夜話」「祗園情話」など、祇園や舞妓さんを題材にした小説をあまた描き、人気を博したそうである。さらに、歌謡曲の作詞家としてもヒットを飛ばし、大家だったらしい。ついには「新金色夜叉」という自作の映画監督までやったとか。
作詞家としてはなんと、わしの故郷、長野県飯田にも関わっている。
飯田の観光名所:天竜峡には、「天竜舟くだり」という、京都の保津川くだりと同じような舟の遊覧があるのだが、天竜峡と船くだりを宣伝しようと作られた歌「天竜下れば」の作詞者が彼だったのだ。(ちなみに作曲は中山晋平)
こっちの歌が作られたのは昭和8年。芸者・市丸という人が歌って大ヒットしたという。

長田幹彦の小説は、大正12年に6巻の全集、昭和11年にも15+1巻の全集まで出ている。しかし、いまや見つけることすら困難である。京都の図書館で検索してみたら、他の作家と一緒に収録されているアンソロジーで、なんとか代表作くらいは読めそうだ。
それでも、祇園は律儀に彼を顕彰し続けている。
昭和36年に円山公園に「祇園小唄」の石碑が建てられ、平成14年からは11月23日に、「祇園小唄祭」が碑の前で行われるようになった。吉井勇を偲ぶ「かにかくに祭」(11月8日)は、祇園甲部の芸妓さん舞妓さんが献花するが、こっちのほうは五花街が毎年交替で行うのだそうだ。
で、いかにも京都らしい、でも凄いことに、長田幹彦が祇園小唄を作詞した場所である、祇園のお茶屋「吉うた」というお店は、創業100年の今も繁盛しており、お店のホームページまであるのだ。祇園小唄の原文もお店に大切に保存されているとのこと。ちなみに長田幹彦の小説も、こちらのHPで少し読む事が出来る。

小説は忘れ去られたが、祇園小唄は京都の花街と共にこれからもあり続けるだろう。
長田幹彦は、円山公園に石碑が建てられた3年後に他界した。

さて、京都と「作家」としてはこれだけ揚げれば十分であろう。
しかし!長田幹彦という人は、それだけでは済まないのである!
この人、なんと晩年は「心霊」に深く興味を示し、「幽霊インタービュー」「心霊」「心霊五十年」「私の心霊術」などという著作を著し、『超心理現象研究会』なるものを主催して、日本有数の心霊研究家だったというのである。
そちらの方面は、今のところわしの関心と知識範囲の及ぶところではないです(^^;)。

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2006.10.15

京都と「作家」 その5 瀬戸内寂聴

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京都と関わりのある作家として、避けて通れない存在であるが、できればわしとしては避けて通りたかったのが(苦笑)、瀬戸内寂聴である。

この人の京都との関わりは半端ではない。京都を舞台にした著作も非常に多いし、何より現在、京都に住んでおられるのである。
その嵯峨野の寂庵を、わしはお邪魔したことはない。それよりなにより、わしはこの人の作品を、自分から進んで読もうと思った事がない(汗)。

この人の文章は実に巧みであり、京都の描写も通り一遍でない優れものである。京都の風物が単なる背景でなく、登場人物の心象を描くものになっていて、実に味わい深い。
京都を知るためのガイドブックとして読む小説ならば、この人のものが随一、と薦めるにやぶさかでない。

しかし、瀬戸内作品は、徹底して、「女性のための作品」だと、感じるのである。ほとんどすべてが女性を主人公としており、大なり小なり彼女らは、瀬戸内自身が投影されているのであろう。
「愛の絵巻」と称される事が多いが、愛欲の遍歴を綴る作品がほとんどである。そのあたりが、純情なわしには刺激が強すぎて(爆)。

それにしても、瀬戸内作品は京都を隈なく、しかも深く描きつくしており、これから京都を描くには、「二番煎じ」を注意しなければならない。
「女徳」「煩悩夢幻」「京まんだら」「「幻花」「祇園の男」「比叡」「愛の時代」などは、京都を舞台とした小説として見逃せない作品であろうし、「色と欲に徹した男の業を描く」という「色徳」などは、わしが是非読まねばならぬ作品か(笑)。
「古都旅情」「寂聴古寺巡礼」という、タイトルからして京都案内的著作もあり、この人のパワフルな著作(そして風貌と言動)に接すると、「う~~、とてもかなわへん」と、後進のモノ書きとしてはびびるのである。

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2006.10.12

京都と「作家」 その4 赤江瀑

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作家の中には、既存のジャンルに当てはまらない、その人にしか書けない独自の分野で読者を魅了しているオンリーワンの存在がいる。
京都に関わる作家のうち、赤江瀑(あかえ ばく)がそれに当たると思う。

わしが赤江作品を最初に読んだのは、前にも触れた「京都ミステリー傑作選」(河出文庫・昭和60年初版)というアンソロジーに入っていた、「京の毒・陶の変」という短編である。
ほかには山村美紗、阿刀田高、小林久三、和久峻三といった作家が書いている中、わしには赤江作品が最も濃密に京都の雰囲気を描いていると思われ、最高に魅力的であった。
この作品、ミステリー傑作選に入っていると言うても、トリックも推理もない。清水焼の家に生まれた若き陶芸家が、陶芸の道に苦悩する中で京都の魔的な部分に囚われ、ついに破滅していくのを描いた短編である。
陶芸に関する深い造詣、湿度さえ感じさせる濃密な京都の風物描写、華麗にして艶な文体、衝撃的な展開、もうまったく、「こういう京都の小説を探していたんだ!」と、わしは叫んで、赤江の虜になったのだった。

しかしながら、赤江は余りメジャーな存在とは言いがたい。熱狂的ファンがついているユニークな存在というところだろうか。
この人は、1933年に下関に生まれ、今もそこに住んでいるらしい。
シナリオライターとして活躍したのち、1970年に「ニジンスキーの手」で第15回小説現代新人賞を受賞したのが作家としてのデビューである。
その後、第1回角川小説賞、第12回泉鏡花賞を受賞し、2度にわたって直木賞候補となっている。
刊行された本は80冊以上に及ぶが、京都を舞台にした作品がかなりの比重を占める。京都出身でも在住でもないのが不思議なほどに、京都の真髄を抉り出し、京言葉を縦横に駆使し、まさに「京の毒と魅惑」を味わわせてくれるのだ。
立風書房発行の「京都小説集 その壱 風幻」と「京都小説集 その弐 夢跡」に、京都を舞台にした作品が集められているが、ここに収められた作品の題名を目にするだけでも、なんとなく作風がわかるであろう。

「禽獣の門 花夜叉殺し 虹色の翅の闇 花曝れ首 殺し蜜狂い蜜 獣林寺妖変 雪華葬刺し 夜の藤十郎 罪喰い 阿修羅花伝・・・」

耽美、幻妖、伝奇などと形容されるが、それだけでくくりきれない赤江作品の魅力は、こうした紹介ではなかなか伝えにくい。どうぞ一度読んでみてください。

ただし、現在も創作活動を続けている赤江だが、過去の作品を入手するのはなかなか困難である。「京都小説集」もわしは図書館で借りて読んでいるのだ(涙)。
新作歌舞伎の脚本も書いているほど、古典と伝統芸術に詳しく、絢爛たる文章の書ける赤江。彼のような作品を書きたいと思うわしの願いは、身の程知らずだろうか?だろうなあ(嘆息)。

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2006.10.06

京都と「作家」 その3 山村美紗

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京都を舞台に数多くの作品を書いたということでは、谷崎も川端も遠く及ばず、おそらくは空前絶後であろうと思われる作家がいる。

推理作家・山村美紗である。

彼女こそ、京都で活躍し、京都で生涯を終えた作家の代表と言うことも出来よう。多くの作品が映像化されて広範に鑑賞されたという点でも群を抜く存在だ。

しかし、彼女は最初のうち「京都」を売り物にしていなかったようである。「日本のアガサクリスティ」が彼女の初めのニックネームであり、「女流の本格推理」で勝負していたのだ。
わしの手元にある『京都殺人地図』(徳間書店)という初期の短編集では、舞台になるのは伏見桃山とか長岡京とか、観光スポットと縁のない土地であり、登場人物も主人公の女検視官を除けば地味な一般人ばかりだ。当時彼女は宇治に住んでいて、土地勘のあるところを地道に描いていたのであろう。

ところがやがて、彼女の作品の中では、祗園祭りの鉾が暴走して犯人をひき殺したり、和服美女が八坂神社で矢を突き立てられたりという、絢爛たる展開が売り物になっていく。まさにそれは絵になる場面を要求するテレビドラマにうってつけで、山村美紗ミステリー・サスペンスは2時間ドラマの定番となった。(これを書いている今日の夜も「赤い霊柩車シリーズ」の21作目がオンエアされるのだ。)
彼女自身も住処を東山の豪邸に移し、華やかなドレスを身にまとった姿で、「サスペンスの女王」としてマスコミの寵児となっていった。

夥しいその作品で、京都を殺人の舞台としてきた彼女であるが、その華麗なイメージと裏腹に、彼女の文章は実はちっとも絢爛としていない。抑制が効いているというか、素っ気無いというか、淡々と経過を綴る冷徹なタッチである。
やはり彼女の真髄は巧緻なトリックで読者を唸らせる「推理」にあって、京都の文物や魅力を語るのは添え物でしかなかったのだと思う。彼女の描く京都は紋切り型であり、薄っぺらい印象を抱かせるのだが、これは仕方のないことだろう。
彼女の作品は、あらかじめ読者の抱く「京都らしさ」に迎合して描かれた。改めて京都の魅力を日本中に宣伝した功績は多大であるが、極力血なまぐささ、陰惨さを排除して描かれた死体を京都中に転がしたことで、それらのスポットのイメージが安直になってしまったのは否めない。
恐らく本人もそれは気になっていたのだと思う。『京都ミステリー傑作選』(河出文庫)というアンソロジーの序文に彼女は
「観光客の多くは、ロマンチックな恋の物語で知られる嵯峨野の寺々や、桜、紅葉などの美しい風景、可愛い舞妓さんに代表される華やかな京都しか見て行かない。しかし、観光客の何気なく踏んでいく石の下には、歴史の流れの中で、無念の死を遂げた人たちの屍やどくろ、そして、血や怨念があるのだ。」
と書いている。
しかし、ついに彼女はそうした陰惨さや怨念を描くことはなかった。華やかな舞台と常識的な動機で語られる、安心して読める作品が膨大に残された。
超人的ペースで書き続け、急逝した彼女は、それをどう思っていただろうか。

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2006.10.05

京都と「作家」 その2 梶井基次郎

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セレブな文豪と対極的なアプローチで、京都を題材にした作家の代表は、「檸檬」の梶井基次郎だろう。
(念のためですが、「檸檬」は「レモン」と読みます。)

では、「檸檬」とはどんな小説か?とりあえずまとめると・・・

学業を放擲し、肺を病み、「見すぼらしくて美しいもの」に惹きつけられて京都の街を放浪する学生。寺町二条の果物屋の店先に輝いていたレモンに魅せられて一個買い、河原町の書店「丸善」に行って、画集を広げて積み重ね、ゴチャゴチャな色彩の上にレモンを置いて出てくる。
「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。」と夢想しながら。

なんというかまあ、生活が乱れきって、刹那的になってしまったお兄さんの独りよがりの妄想なのだけれど、テロが日常化した現代では、あんまりシャレにならんかもしれないなあ。(苦笑)
わしも二十代、いろいろ挫折しては引きこもりみたいになった時期があって、鬱屈した気分は体験した。また、うらぶれた裏通りの方に惹きつけられる感性は共感できる。しかし、「だからどうやちゅうねん?」という読後感ではある。

なのにどういうわけかこの作品は「青春の憂愁」を象徴する名作、みたいに讃えられていて、主人公がレモンを買ったと目される寺町二条の「八百卯」には、その説明を記したレモンが今に至るもずっと陳列販売されている。そして先頃店を閉じてしまった河原町蛸薬師の「丸善」も名作ゆかりの店として名を売り続けた。確か閉店のときも店内の本の上にはレモンがごろごろしてたはずである。

それでは、梶井はそんなに京都に深く関係しておったのか?

彼は、1901年(明治34)に大阪で生まれ、サラリーマンの父の転勤に伴い、東京、三重県鳥羽と引っ越しつつ育ち、1919年(大正8)に第三高等学校に入学。これは現在の京都大学教養課程にあたるもので、本来3年で卒業のはずが、彼は2回落第して、5年間過ごした。1924年(大正13)には東京帝国大学英吉利文学科に入学して、なんの未練もなく東京へ行くのだ。「檸檬」が発表されたのは東京で始めた同人雑誌「青空」の創刊号である。以後、この同人雑誌に次々と書き、これが休刊となっても他の同人雑誌に書き続けた梶井だが、京都時代から患っていた肺結核が悪化。1931年(昭和6)に創作集「檸檬」が発行されたものの、翌1932年(昭和7)に、31歳の若さで世を去る。

わしの手元にある梶井の本は、「檸檬」(新潮文庫 昭和56年発行 第28刷)であるが、これには20の短編小説が収められている。
京都を舞台にしている作品は、「檸檬」と「ある心の風景」の2作だけなのは、ちょっと驚いた。
「ある心の風景」のほうも、京都の街の描写がかなりあり、夜更けに四条通や新京極を、赤や青の七宝に飾られ、「美しく枯れた音」のする朝鮮の鈴を腰に下げて歩く主人公は印象的だ。でも「街では苦しい」と何度も呟く彼の憂愁の源は「娼婦に移された悪い病気」である。これではやはり、「京都が売り物にする名作」とはなり得まい(苦笑)

梶井の京都での生活は三高生としての5年間であるが、新潮文庫の解説によれば、実に乱暴で「頽廃的」だったということになる。
琵琶湖疏水で仲間と夜中に泳いで震えあがり、寒さしのぎに酒を飲んだ勢いで売春宿に行ったのが始まりで「甘栗屋の鍋に牛肉を投げ込んだり、中華蕎麦の屋台をひっくり返したり、借金の重なった下宿から逃亡したり、自殺を企てたり・・・」「京都で少しは顔の売れていた『兵隊竹』という無頼漢に左の頬をビール瓶でなぐられたり」したそうである。既に肺の病があったのに、そんなことを繰り返しておれば命を縮めるのは当然であろう。
しかし、誰しも青春の日々にはやりきれぬ憂悶があり、破壊、あるいは破戒の衝動を覚えるものである。それを正直に突っ走った梶井に、当時の読者たちには共感と憧憬があったのであろうか。

梶井が居た頃、寺町通りはけっしてみすぼらしい裏通りなどではなかった。むしろ華々しい表通りだったはずである。しかし今、寺町通りは明らかに「表」ではない静けさのなか、不思議に情緒溢れる雰囲気がある。その一端に、「檸檬」のイメージがあるのは、確かだろう。

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2006.10.04

京都と「作家」 その1 いわゆる文豪

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「京都在住 小説家 作家」
という検索ワードでググってみたら、わしんとこの、このblogが第1位で出てきて、思わず「げっ?!」とのけぞってしまった。(苦笑)

過去に名を残している作家で、京都に住み続け、京都で亡くなったという人は、わしの知る限り 吉井勇くらいである。祇園の白川のほとりに「かにかくに」の石碑があり、毎年11月8日には、祇園甲部の芸妓さん舞妓さんが花を手向けて舞を奉納する。祇園を愛し、祇園に愛されて昭和35年に肺ガンにより、京大病院で死去。
しかしこの人は歌人であり、都をどりの歌詞なども書き、また戯曲も手がけているようだが、小説は残されていないようである。

ほかに、京都に関わる著名な作家といえば、谷崎潤一郎と川端康成が双璧だろう。

谷崎は昭和20年に京都にやってきて、まず寺町今出川上ルに間借りし、続いて「永観堂の西二丁若王子みち白川の岸」に居を構え、さらに下鴨の糺の森東側にある邸宅に移る。この屋敷は今も谷崎が暮らしていた頃のままに残り、先頃、一般公開もされたというニュースをきいた。池泉回遊式庭園が美しく、御殿風の建物があるという豪邸である。
ここがとても気に入って、作家活動も旺盛だった谷崎であるが、夏の暑さ、冬の寒さに耐えかねて昭和31年に熱海に転居したそうだ。

川端は谷崎以上に京都の名所旧跡を作品の舞台に使っている印象があるが、京都に住んだことはない。中京の老舗旅館「柊屋」と、三条蹴上の「都ホテル」(現・ウェスティン都ホテル京都)が定宿であった。
ちなみに柊屋旅館は現在、1泊2食付で30000円から80000円と、HPに出ている。

これらを見る限り、京都は筆名を揚げた文豪が、セレブな楽しみを味わう街だった。
谷崎など「私は三日に一度は美食をしないと仕事が手に付かない」と言い、川端の書いた色紙や掛け軸は、市内の一流どころの料亭、割烹には山と残っているようである。
彼らの小説に、今熊野商店街をうろつき、タコヤキを子供と分け合って食うような描写は間違っても出てこない(笑)。
祇園の御茶屋で舞妓さんを揚げて遊び、超高級料亭で京料理の粋を味わい、柊屋だの俵屋だの都ホテルだのを定宿にする・・・それは素晴らしいことである。
しかし、望んでできることではない。このどれ一つとっても、自腹で出来ますか?

わしは、そんな特権階級とはほぼ、無縁である。
そんなわしが、ここでどんな小説を書けるのか。精一杯あがいてみようと思う。

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2006.10.01

京都人気取りのよそさん

京都にいると、どうでも、「よそさん」であることを思い知らされてびびって控えめに生活し続けているわしである。(嘘つけ・笑)
しかし、「よそさん」でありながら、京都人以上に京都らしい生活を謳歌満喫し、それをエッセイなどに書きながら華々しく活躍なさっているお方もいる。
わしなど、到底真似はできないので嫉妬するばかりだが、こういうお方を、京都原住民の方々はどう思っておられるのか、興味があった。
ただ、京都生まれ京都育ちの人の多くは、自分らの街を余り語りたがらないような気がする。考えてみれば、慣れ親しんだものよりも異風のもの、自分にとって目新しいもののほうが情熱を持って表現しやすいのではないだろうか。
だからこそ、わしなども熱意込めて京都のことを書き綴っているのだろう。
そして、そんな「よそさん」をどう思っているのか、本音を明かさぬ京都の人から聞くのは難しい。

そんな中で、入江敦彦さんという京都人は、英国に惹かれ、現在はかの国で生活しておられるが、同時に「京都人だけが知っている」シリーズはじめ、本音の京都案内で、わしの目を大いに開いてくれている。
その著作を片っ端から読んでいるうち、今読んでいる「KYOのお言葉」(発行・マガジンハウス)のなかで、ついに痛快な一節に出くわした。

「京都で育った者はあまり他人を羨ましがらない。羨望は品のない行為だ、己(の利害)に関係ないことはドーでもいいことだと親に叩き込まれるからだ。よそさんが京都人気取りでキモノ着て町家に住んで自分の特別扱いをひけらかそうと歯牙にもかけない。

なるほど!わしが、かの「キモノ着て町家に住んで」活躍されておるよそさんに感じた反発は、嫉妬だけではなかったのだ。
「自分の特別扱いをひけらかしている」姿勢にあったんだなあ。

大阪に行ったりすると、こんなわしでも京都人扱いを受けたりする。「さすが京都人は、京都時間で、約束の時間にルーズやなあ」などと、大体はマイナスイメージなんだけどさ(大苦笑)
まあ、まちがってもわしは京都人気取りなどは出来ないが「自分だけが京都のこんな穴場を知ってるんだ」などと思いあがらぬように気をつけようっと。

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2006.09.28

比叡山

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延暦寺の所在地は、滋賀県大津市坂本本町であって、京都市ではない。
しかし日々仰ぐ比叡山は、京都の歴史に深く関わってきて、この街を語るのに欠かせないものであろう。
わしはしかし、2度ほど比叡山には登ったが、延暦寺にちゃんと参拝した事がないのである。

学生時代、それも就職前の最後の時期に「そういや、まだ登ってないなあ」と仲間の誰かが言い出して、修学院から、いにしえの登山道=雲母(きらら)坂を歩いて登るという暴挙を成し遂げたのである。
かつて、僧兵が神輿を担いで駆け下りたり戻ったりした頃には、ほどほどな道だっただろうが、ろくに歩くもののいなくなった時代、それは荒れ放題の、土と岩がむきだしになっている斜面で、雨が降ったら轟々と水が流れ下るであろう川底の道だった。それでもまあ、尾根に出ると見晴らしもよくて気持ち良かったのだが、汗だくで登りきった先には、いきなり広い駐車場がありやがって、排気ガスを浴び、とっても嫌になったものである(苦笑)。
帰路は確かバスに乗った。駐車場にも下っていく道にもたくさん猿が現れてびっくりした記憶がある。
それから10数年後、千種忠顕という、南北朝時代の公家にして武将だった男の小説を書きたくなり、彼が戦死した地まで登ってみようかと思い立ったが、すっかり身体がなまっていて簡単に挫折した(さらに苦笑)

あとは、車で「比叡山ドライブウェイ」を走った事は数回ある。料金が高いのでなかなか行けないが、山上からの景色はたしかに格別である。四月の終わりごろに走ると、遅い山上の桜が楽しめる。去年はカブトムシ展示館みたいなのが出来てたのでそれだけが目的だった。(苦笑ばっかだな)

御所から鬼門にあたる比叡山は、畏れ奉る存在であって、親しんで仰ぐものでなかったかもしれない。今はビルに隠れて見えないところも多い。(わしの住んでる山科などは、そもそも角度的に全く見えやしないのであるが)
ただ景色としては賞賛されていて、「額縁門」と銘打って、比叡山が門を透かして見えるのを自慢にしたり、この山の秀麗な姿を庭の借景にしているというお寺はある。
また、千日回峰行という、超人的な修行が比叡山にはあるのだが、その行者は七年間に分けて、比叡山の山道を通算1000回歩き通す。だがこれ、800回目から900回目までは雲母坂を下って京都市内の神社仏閣を巡るのだそうだ。これはなんと一日に84キロも歩くのだとか。それで、東山三条の古川町あたりの白川の流れに「行者橋」というのが架かっていて、これは欄干も何もない危なっかしいほど細い石橋なのだが、回峰の行者が渡るために作られているのだそうだ。
(続く)

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2006.07.24

「祇園祭」か「祗園祭」か?

ずっと、わし、「祇園祭」と打ち出していて、疑わなかったのだが、この「祇」という文字。
今日「京都民報」という週刊新聞に連載している「漢字の落し文」というコラムで、日本語教育研究所副所長の佐藤一男さんが書いているのを読んでびっくりした。

古くから使われてきたのは「示」(しめすへん)に、「氏」と書く字であり、これが常用漢字の正字体であるそうだ。

「祇」は簡易慣用字体というもので、これはJIS漢字による表記混乱の結果なのだという。
そして、ワープロで打ち出そうと思うと、正字体はJIS漢字に入ってないので打てないのである!(怒)

「祗園祭」とは打ち出せるのだが、この「祗」は、「シ」と読み、意味も違うのである。
ゆえに、「祇園祭」も「祗園祭」もともに間違っているのだ!

なんちゅうこっちゃ、悲しいがな、正しい文字も打てへんなんて・・・

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2006.07.17

随想・祇園祭 その六

祭囃子遠く

今年の祇園祭、わしは、宵山も行かなかったし、巡行も見に行かずに終わりそうである。
うねる人の波、揺れる駒形提灯、夢幻の音楽のように響く祇園囃子、あの熱気と高揚と、路地裏の闇の懐かしさを味わうのは、年に一度の大いなる喜びだから、本当に残念だ。

祭りの魂は変わることなく受け継がれていると思うけれど、
失われて戻ってこないものもあるのは確かだ。

山・鉾の立ち並ぶのは東は烏丸通、西は油小路通
北は姉小路から、南は高辻通。
それらの中で一番、山・鉾が多く建てられて並ぶのは、烏丸通の一本西側、室町通である。
「室町」と京都で言えば、呉服関係の旦那衆のまちである。
問屋が立ち並んで、長く京都経済の中心、栄華の象徴というべきお金持ちのまちであった。
政治を動かすのも、花街で散財するのも、文化を担うのも、ここの旦那衆だったのである。
宵山の屏風祭りに、秘蔵の屏風絵や陶磁器やらの美術品を飾るのも、そうだった。
その繁栄は、わしの聞く限り、衰退の一途である。

山や鉾や、幾多の神事は、必死の努力で伝えられてきている。
けれど、かつて、わしの目を楽しませてくれた屏風祭りの商家の幾軒が、あのままに生き残っているのだろう。

山科でも、今日は、宵山を楽しみに行く娘さんたちの浴衣姿が目に付いた。
素材も着こなしも、わしの目には珍奇に映る浴衣が多かった。
「室町」の流通ではないキモノなのかもしれない。
いや、おそらくほとんどが、そうなのにちがいない。
祭りは、「ハレ」の一瞬であるが、それを担うのは日々営々と生きている地元の人間である。
いまの祇園祭を担っている人々は、どんなだろう・・・と思う。

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2006.06.07

京都大仏殿跡で風に吹かれる

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豊臣秀吉が築こうと試み、息子秀頼が完成させた、方広寺大仏殿。
今は歴史の記憶の彼方の、まぼろし。
巨石の石垣が残る豊国神社と方広寺を抜けて、東側に行くと、「大仏殿跡緑地」があった。

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大仏殿の礎石や石組みなど、今もこの地下には遺跡が眠っている。
そして地上は清々しい公園となっていて、三本のムクノキらしい巨樹が、青空に聳えていた。

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誰もいないその緑地を散策し、巨樹の枝が天蓋のように覆う下に座る。
夕立の雨があがったばかりで、雫が落ちてくる。でも、なんと言う心地よさだ。
風が来る。草が揺れ、樹木の葉が鳴る。その音だけしかしない。
御影石のベンチの上で、知らずに結跏趺坐して、瞼を閉じていた。
ただ、風に吹かれていた。

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2006.04.12

秘めたる桜

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11日の京都は、断続的に突風と強い雨に見舞われ、とても花見日和ではなかった。
でも、押して観にいった桜がある。
今熊野から東山の谷筋へ登る道のひとつ、小さな川が渓谷をなしているところに、この白い枝垂桜が咲いている。

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谷間には棕櫚や観賞用の植物が植えられていて、秘密の花園じみており、小さな橋を覆ってこの桜が枝を垂らす。橋を渡り、坂道を登ると不思議な洋館のような建物があって、別世界のようである。

有名社寺でも名勝でもなんでもないところだが、京都にはこんな密やかなスポットが普遍的にあって、自分だけの思いを込めることが出来るのだ。

雨に打たれて、残念ながら枝垂桜は散りかけ、花は下を向いていた。それでも写真に撮ると不思議なほどに艶やかに映っている。雨を衝いて訪れた自分に、花が微笑みかけてくれたと思いたい。

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2006.04.04

京都府知事選挙

三日間ほど、息子を連れて長野県飯田市に帰省していた。
行き帰りの日は晴れていたが、肝腎の真ん中の日は、台風並みの低気圧に見舞われて土砂降りと大風。
今日の帰り道も、かなり横風に吹かれて、高速道路の運転は怖かった。

ふるさとはどんどん変わって行っている。
郊外の大型ショッピングセンターの隆盛(?)と、旧市街地の凋落。

京都はどやろ?
4月9日は京都府知事選挙の投票日である。
なんか、公職選挙法に抵触するらしく、インターネットでは選挙運動したらあかんらしい。
そんなアホな話があるかいな?と愕然とするんやけど。
法律作ってる方々は、よほど選挙をこそこそとやりたいのかいな?

京都府は、この間の市町村合併の嵐で、町名などどうなっとるのか、わしなどにはようわからん状態である。
京都の街も、どんどん変わって行ってるのは言うまでもあらへん。
わしは何の力も影響力もない、市井のおっさんやから
選挙でしか、政治にモノを言えへんのや。
この一票でな。

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2006.03.07

岡部伊都子先生の本

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岡部伊都子先生には、その著作を読んで以来、ずっと私淑してきた。
一度もお会いしたことはないが、わしの「京都」と、「モノの考え方」についての師のお一人である。
先生の最新の著作「遺言のつもりで 伊都子一生語り下ろし」という本が、昨日の朝日新聞の書評に載っていたので、今日、四条通のジュンク堂で買ってきた。
先生のプロフィールについて、この本のカバーに書かれているものを下に引用する。

岡部伊都子(おかべ・いつこ)
一九二三年、大阪に生まれる。随筆家。相愛高等女学校を病気のため中途退学した。結婚・離婚を経て、一九五四年から執筆生活。伝統や美術、自然、歴史などにこまやかな視線を注ぎながら、戦争や沖縄、差別、環境などの問題を鋭く追及する。

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わしが京都に来た19歳のとき、この本に出会った。
「観光バスの行かない・・・埋もれた古寺」新潮文庫 1975年初版
気取り屋で、余り人の行かない、京都の穴場を見つけたいと若造の身で思っていたわしは、タイトルに魅せられて買った。京都のお寺は、浄瑠璃寺、高山寺、曼殊院、泉涌寺、永観堂などくらいで、兵庫や奈良、大阪のお寺も多く紹介されていた。
繊細な感性溢れる文章にうたれるとともに、この本の中には、社会に対する鋭く切実な問いかけも含まれていたのに驚いた。曼殊院の黄不動画像に託して、当時日本を沸騰させていた日米安保条約改定への反対闘争に言及し、理不尽なものへの怒りを激しく書いていたのだ。

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以来、わしは岡部先生の著作を探しては読んだ。
これも新潮社の本で、1976年刊の「京の手みやげ」
京千代紙、京ろうそく、京焼、清水人形など、優れた京都の手仕事が紹介されている。寺や神社のことしか頭になかったわしに、京都の職人技、ものづくりに集約した歴史と文化というものへの目を開かせてくれた。

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そして、最新刊「遺言のつもりで 伊都子一生語り下ろし」藤原書店刊
生い立ちから、太平洋戦争のこと、筆一本で生きてきたこと、ハンセン病や沖縄、安保闘争などから社会への目を開いていったことなど、自身で語られた言葉をまとめた本である。
その言葉は、たとえば
「わたしは、先生と言われるのはいやや。『先生』という言葉を大事にしたいからな、学ばせてもろた人を先生と呼びたい。先生といわれるより、『いっちゃん』と言われるほうが好きや。 先生と呼ぶほうが無難やから、みなさん先生と言わはるけど、わたしはいやや。 本音が好きなんや。」

わしは、ほんまに岡部伊都子先生から、大事なことを学ばせてもろた。
だから、本音で先生と呼ぶ。
先生は今年83歳。この本は、先生の129冊目の著作である。

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2006.02.14

花に寄せる思い

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深山の奥に密やかに咲く蘭や
あるいは砂漠の真ん中で一瞬華麗に開くサボテンの花
それもおそらくは比類なく美しいのだろう

けれど俺が好きなのは京都の花だ

幾多の移ろいを経た街角の生垣や
由緒を秘めた古刹の庭に咲く花々
それがどうしてこんなにも魅力的なのか
俺は知っている

重ねられた歴史の中
有名無名の人々が
生きた証を滲みこませた花々だからだ
数え切れない喜怒哀楽と血と涙を吸って
京都の花は輝く
記憶の重層を花弁に畳み
永劫の空に馥郁と魂を放つのだ

さあ春よ来い
梅と椿と桜の蕾が
遥かな思い出とたぎり立つ若い命を混じり合わせて
待ちかねているぞ

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2006.02.10

忘れてしまう僕たちのために

時は過ぎて行き
僕たちはいろんなことを忘れてしまう
あの時、大切にしまいこんだ宝物も
いつか埃にまみれて色褪せていく
でも、捨てられない
春を待つ色のない季節に
そっと取り出して、光を当てよう

このblogの右側に、「特別企画」として並べてある中に、「祇園祭どす・トラックバックピープル」というのがある。
去年の夏、祇園祭をとりあげて大いに盛り上がったものだ。今はもう、ほとんどトラックバックもない。
それでも、消せずに置いていたのは、このトラックバックを通じて知り合った絆を忘れたくなかったからだ。

「コトモノBLOG」のモヨコさん、どこかでまだ、ここを見ていてくれるかな?
もう、「コトモノBLOG」は消えてしまって、トラックバックをたどることも出来ないけれど、あなたのblogと響きあった「随想・祇園祭」は、僕にとってかけがえのないものだ。
その随想の一番目に取り上げた、亡き俳優・市川雷蔵の文章。
それをこの間、本として見つけることができたよ。

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「雷蔵、雷蔵を語る」
朝日新聞社刊 朝日文庫

雷蔵が彼自身で書いたエッセイをまとめた唯一の本だ。
僕が「祇園祭の宵山について書かれた、おそらく最も美しい文章」と言った言葉は
この本の242ページにある。
そしてその前のページには

 京の町には日本人の心のふるさとのような、
 懐かしい雰囲気のただよっていること

という言葉もあったのだ。
そして、雷蔵の気取らないプライベートの写真が、おしげなくちりばめられていて、
そこには、なんともいえず懐かしい、日本や京都の雰囲気が滲んでいるんだ。
それを知らせたかった。

そして、大切なものも、どんどん忘れてしまう僕のためにも

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2006.02.02

京都検定1級受験結果

昨日・2月1日に、京都・観光文化検定試験の結果が郵送されてきました。
わしが受けた1級の受験結果は
「合格まであと29点です。」とのこと(泣)。

参考データとして
受験者数:803名
合格者数:36名
合格率:4,5%
平均点:85,9

とのことでした。
わしの得点は91点で、まあ、平均より上だったのは良しとしましょうか(^^;)
とりあえず、ご報告まで。

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2005.11.06

色づく京都そして渋滞

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入院中に時代祭も終り、気がつけば11月。京都の木々も、色づき始めています。
「また紅葉、遅いみたいやなあ」と言われつつも、鮮やかな色彩も既にちらほら。
しかし!それと同時に、京都の道は人と車で溢れ始めるのでありました(;;)
わしが毎日通っている東福寺界隈は、そろそろ、車で通行するのが困難な状況になりつつあります。

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「秋の京都は大渋滞」
これは決して誇張ではありません。甘く見るとえらい目に遭います。
そして、注目はこのポスターにも書かれている、二つの交通規制です。

①嵐山等観光地交通対策
11月1箇月間の土・日・祝日
・長辻通北行一方通行
 10時~18時
・嵯峨街道南行一方通行
 10時~16時(土は12時~16時)

②東山交通社会実験
11月19日(土)20日(日)
    26日(土)27日(日)
・五条坂車両通行禁止
 10時~17時
・東大路通駐停車抑制
 13時~17時 

近年の京都の、観光シーズンの混み具合は尋常ではありません。それを前提に、雑誌やメディアでも
「あまり人の来ない穴場」情報を競っておりますが、なにしろそこへ行くまでに渋滞に(^^;)
有名な場所、土日祝日、この二つは避けるのが無難かと。

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2005.07.26

随想・祇園祭 その五

祇園守(ぎおんまもり)
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 炎暑の中に出かけるとき、首に手ぬぐいを掛けるとなにかと助かる。汗が拭けるし、首筋の日焼けを防げる。
タオルよりも軽くて暑苦しさがないので、とてもいい。
 この間、東京在住の妹から貰ったこの手ぬぐい、洒落た紋様が付いているが、これ、「祇園守」というそうだ。

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 歌舞伎の名門・成駒屋の家紋として有名で、江戸時代、歌舞伎役者関係の図柄は「粋」の極みとしていろいろなものに使われ、手ぬぐいの柄としても定番となったらしい。
 祇園守というからには無論、「祇園社のお守り」という意味なのだが、起源はあまりはっきりせず、巻物がクロスしている柄から、キリシタン信仰との関連も考察されている。
 祇園社=八坂神社の祭神は恐怖の疫病神「牛頭天王」であり、異国の神であったのを、日本のあらぶる神・スサノオノミコトと習合。以来、様々な神や仏を取り入れて複雑な信仰を形作っているので、想像力が掻きたてられるのだろう。中には祇園祭は古代イスラエルのシオン祭が伝播してきたもの、という説まである。
 そうした幾多の考察や想像を呼ぶのも、祇園祭の持つ豊穣な力のなせるものに違いない。

 ところで、祇園守は、槿(むくげ)の花の品種名にもなっている。
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          大仙祇園守
mukuge15
           赤祇園守 

 槿の咲く中、7月31日の疫神社夏越祭をもって、祇園祭の行事は終わる。疫病や災いから免れて、楽しい夏を過ごせますようにと、祈ろう。

☆ 槿の祇園守については、
 yumeさんの「yume_cafe」「目疾地蔵さん・祇園守のむくげ」
 piitaさんの「京都あちらこちら」「祇園守」
で紹介されています。

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2005.07.22

随想・祇園祭 その四

宵山追慕

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 宵山も山鉾巡行も過ぎてしまったけれど、僕の胸の中にはまだ、祇園囃子が鳴り続けている。
 そして、忘れられない歌声が響いている。
 七月のあいだ中、祇園囃子とあの歌声は、僕の胸をうずかせるのだ。

 「・・・常は出ません、今晩限り
 ご信心の、おん方さまは・・・
 ろうそく一本献じられましょう
 ろうそく一本、どうですか~」

 宵山に、粽やお守りを売る、鉾町の子供たちが歌う歌だ。
 けれど、僕の耳に残るその歌は、乙女の声なのである。
 可憐な容姿に、強い意志を秘めて、なおかつ優しかった人だ。

 京都で学生生活を始めたばかりの僕に、あの人は「京おんな」の理想と映った。手もなく心惹かれ、憧れた。あの人が主催していたサークルに入り、文学を論じた。コンパに繰り出し、酒を飲んだ。酔ってあの人にからむ奴には鉄拳で応じた。いつもあの人を見ていた。あの人に認められたいと、背伸びして沢山の本を読んだ。
 そして、あの人が活動していたから、学生運動にも身を投じたのである。

 ささやかなる疾風怒濤の時代。
 高揚もあれば挫折も経験した。友情も培ったが裏切りもあり、傷もいっぱい残る。
 その、どちらかといえば苦かった「青春」の只中で
 蒸し暑い夏の夜に、あの人がこう言った。
「そういえば、今日は宵山やなあ・・・うちも、子供の頃、浴衣着て粽売ったことあるんよ」
 そして、あの人の唇から流れた、あの歌。
 細く、透き通った声が、どんなにか甘く、僕の心に染み透って行っただろう。
 その頃、僕は知っていた。
 あの人に恋人がいることを。

 やがて、あの人は卒業し、数年して僕も社会に出た。
 消息を知るすべはあったけれど、特に連絡などもしなかった。
 歳月は流れて、ある春の日の円山公園野外音楽堂。
 人込みの中に、あの人の姿があった。
 生き生きした目の光も、小鹿のような容姿も変わっていなかった。
 僕はその頃、結婚したばかりだった。
 そう伝えるとあの人は笑顔を見せて、屈託なく話した。

 それから、どれほど経っているだろう。
 宵山を彷徨い、子供たちの歌声を耳にするたび
 僕の胸は甘美にも痛い。おそらく、いつまでもそうだと思う。

 ☆今、本で調べるとあの歌は「占出山」の町内に伝わる歌のようだ。

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2005.07.07

随想・祇園祭 その参

幻の映画「祇園祭」
kodaiji77_0231 先に紹介した小説「祇園祭」は、映画化され、1968年11月に公開された。
 しかし、企画からそこに至るまで7年もかかり、様々な紆余曲折と困難が伴ったのである。
 詳しいことは、「猟さんのシネエッセイ」「数奇な運命に翻弄された『祇園祭』」で知ることが出来た。
 東映の時代劇スターだった中村錦之助(後の萬屋錦之助)が主演し、また彼自身が、自主制作組織「日本映画復興協会」の陣頭に立って作り上げた力作である。わしはまだ見たことがないのだが、原作の力強いストーリーをほぼそのままに、超豪華な配役が揃っていて、「間違いなく傑作と呼べる作品」と綴る「猟さん」の言葉に頷ける。

 時代劇からやくざ映画路線に変わろうとする東映と役者魂をかけて戦っていた当時の錦之助は、この作品でそれまでのチャンバラ・アイドルから脱皮を遂げたと言われる。さらに共演は「七人の侍」で日本映画の金字塔たる演技を見せた三船敏郎、志村喬、物凄い美貌だったと聞く若き日の岩下志麻、もうそれだけでも、「見たい!」と思わせるのだが、ビデオにもDVDにもなっていないらしい。テレビで上映されたというのも聞いたことがない。幻の映画となってしまっているのは、痛恨の限りだ。
 しかし、唯一見れるのが、京都文化博物館の映像ホールで、毎年祇園祭の頃に上映されるのである
 残念ながら、今年もわしはそれを見に行けないのだが(;;)

 京都が「映画の都」と言われた時代もあった。「東映太秦映画村」や「大映通り」にその栄華の名残がある。市川雷蔵や、錦ちゃんと呼ばれて愛された中村錦之助が闊歩していた頃の京都は、どんな風だっただろうと、わしは思いを馳せるのである。

 早世した雷蔵はもちろん、西口克己も、萬屋錦之助も今は故人である。それでも、祇園囃子は彼らの聴いたものと同じ音色を奏でる。そして、残された小説には熱い情熱が脈打ち、フィルムに躍動するスターのきらめくオーラは、これからも沢山の人々を魅了し続けるだろう。

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2005.07.04

随想・祇園祭 その弐

小説「祇園祭」
 西口克己という、京都出身、在住だった小説家がいる。
 年譜によれば、1913年(大正2)に、伏見中書島の娼家に生まれ、京都三高(旧制第三高等学校)から東大文学部に進み、1946年(昭和21)に日本共産党入党。1950年の党分裂の際、「除名」され、義母名義の娼家の片隅に逼塞しながら書いた小説「郭」が、1956年(昭和31)にベストセラーとなり、小説家として認められる。
また、1955年(昭和30)には、日本共産党の統一と同時に党へも復帰。1959年(昭和34)に京都市会議員に当選し、四期勤めて、京都府会議員に当選。これも三期に渡って活躍した。
 小説の代表作は「郭」のほか、「文殊久助」「山宣」「祇園祭」「新幹線」「Q都物語」などがある。
 1986年3月15日永眠。

gionmaturito_0021 小説「祇園祭」は最初、1961年に中央公論社から出版されたが絶版となり、その後弘文堂からの再刊もまた絶版、わしが買ったのは1968年に東邦出版社から出されたもので、表紙の絵は滝平二郎の切り絵によるものである。
 内容は、室町末期、祇園祭復興に自らの誇りと平和に生きる権利を求めた京都町衆のたたかいを描いたもので、ラストの天文二年の祇園会山鉾巡行に至るまでのダイナミックな筆致は壮烈である。

 「・・・よいか、皆の衆、―ようく聴いてくれ―くりかえしいうが、将軍家の命令は神事停止じゃ。社殿での祈願や、神輿渡御など、つまり神官たちの執り行う儀式は取りやめよというのじゃ―よろしい、どうしても命令にそむけぬというのであれば、一切の神事は取り止めてもらおう―ただし―ただしじゃ―たとえ神事これなくとも、山鉾渡したし!―これば、わしらの決心じゃ!」
 「もともとこの鉾は、京町衆のものなのだ。洛中の数知れぬ人々のためのものなのだ。京都を捨ててかえりみぬ将軍の、一片の命令で左右されるものではないのだ。そんな命令に媚びへつらうような、腐りきった祇園社の神官どもに用はない。まがれ、鉾!八十尺の鉾頭を、堂々と南に向けるがいい!」
 「―山鉾は、―美しい祇園会の山鉾は、戦さぎらいの京町衆が、殺されても、殺されても、ついにその念力で動かしたのだということを、こいつらに見せてやるのじゃ―のう、頼む、―わしを、―わしをもう一度、あの鉾の上に乗せてくれ―笑いながら、鉾の上で死なせてくれぬか・・・・」

 戦乱の中で平和を希求する町衆は、支配階級の妨害をはね返し、平和の祭典たる祇園祭を復興する。その中心人物となった青年、笹屋新吉のロマンスをからめながら描かれる物語は、波乱に富んだ筋立てで、実に面白く読めるものでありつつ、「民衆こそ歴史の主人公」という作者の信念が貫かれているのである。文体も、作者の肉声のように熱情みなぎって、わしは読み返すたびに熱い感動の涙がこらえきれない。
 山鉾巡行の様子を「何千何万もの人波をかきわけてすすむ巨大な艦隊」と描いた西口克己の視点にわしは激しく共鳴する。あの巡行は、豪華絢爛なだけではない。町衆の心意気を高く掲げて進む、勇壮な戦列なのだ。

 そしてこの作品は、映画化されている。しかし、今やそれは「幻の映画」なのである。それについては次項で。

☆現在、小説「祇園祭」は、新日本出版社から出されている「西口克己小説集」の一冊として購入できます。 

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2005.07.02

随想・祇園祭 その壱

祇園祭と市川雷蔵
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 京都の七月を彩る祇園祭は、八坂神社の祭礼であると共に、京都の町衆が誇りとし、心から楽しむ祭りである。
その八坂神社の朱塗りの西楼門をくぐると、すぐ両側に石灯籠が立っている。
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 右側の石灯籠に刻まれている名前は
  三代 市川寿海
  八代 市川雷蔵
であるが、寿海は名門の歌舞伎役者であり、雷蔵はその養子で、歌舞伎役者でもあったが、大映のスターとして一世を風靡した俳優である。
 わしは、銀幕で眠狂四郎を演じた最高の役者であるこの人のファンであるが、彼は1969年、三十七歳の若さで逝った。命日は七月十七日。祇園祭、山鉾巡行の日だった。
 そんな彼の残した下の手記は、祇園祭の宵山について書かれた、おそらく最も美しい文章だと思うのだ。

「結婚して以来二人で京都の町へ出かけても、映画館であれ、百貨店であれ、私たちは絶えず周囲からの視線の集中攻撃にあって当惑するのが常でした。なにがそんなに珍しいのか、ジロジロと興味あり気な目で見られると、全く身体まですくむ思いでした。
 ところが数年ぶりで出かけた宵山では、私は全然期待もしていなかった快い気分に浸ることができました。鉾や露店や人出は年々歳々同じことで数年前と変わるものではなかったのですが、かつては一人で歩いたのにくらべて、今度は二人で手をつないで大勢の男女と入りまじって歩いた気分だけはまったく、予期もしない幸福感に溢れる思いでした。
 自分でもよく説明できない気持ちでした。たしかに老若男女さまざまな連れの中にもまれて、私たちの若さ、しあわせといったものをしみじみと感じるような、生まれて初めての宵山情緒だったのです」
(「市川雷蔵かげろうの死」田山力哉著・講談社刊より、引用 ☆下の写真の左の本である)

gionmaturito_0011 複雑な生い立ちを持ち、スターの孤独の中、夭折した彼が、ほんのつかの間味わった、新妻との幸福の象徴が、宵山見物だったのだ。
 祇園祭の宵山には、彼が語ったとおり、老若男女誰もが心華やぎ、生きる喜びを噛み締められるような、不思議な雰囲気があると思う。

☆祇園祭について書かれたblog記事でモヨコさんの「コトモノBLOG」の「祇園囃子が聞こえる」が、わしの書こうとした宵山への思いに近いと思いました。

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2005.07.01

水無月・みなづき・皆好き

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6月30日は、夏越の祓いということで、あちこちの神社で茅の輪(ちのわ)をくぐったり、紙の人形(ひとがた)を川に流したりということを、京都ではするのだが、我が家で欠かさずやってるのは、この和菓子「みなづき」を食べることくらいである。
老舗はもとより、和菓子屋はどこでもこれを売り出してるが、今回うちのは生協の共同購入で求めたごく安価なもの。それでも十分美味しく、なんか猛暑を乗り越えるパワーを貰ったような気がするのが、年中行事の威力かな。

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みなづきだけでは淋しいので、6月に口にした甘味を並べてみる。これは、京都駅伊勢丹デパート内の「茶寮・都路里」で食べた、「鞍馬」と名づけられた黒糖蜜のカキ氷。適度にコクのある甘さが暑さにバテ気味だった身に嬉しかった。

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都路里はもちろん、パフェをはじめとした抹茶メニューがずらりと揃えられて、平日でも行列が絶えないのである。祇園にある本店は言わずもがなだろう。

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混雑していたといえば、紫陽花を見に行った宇治の三室戸寺もそうだったが、ここの庭園内にある「花の茶屋」で味わったのは「冷やし飴」。
京都に来るまで知らなかった夏の飲み物である。生姜入りの水飴をお湯に溶かし、氷で冷やしたものといえばいいだろうか。三室戸寺門前の土産物のテントで「飴の素」というのを買ってきて楽しんでいる。宇治市にある「岩井製菓」製で、米飴・中双糖・土生姜が原材料だそうだ。ちなみに「花の茶屋」も、この岩井製菓さんが営業していたのだと、たった今HPを見て知った。

いよいよ七月、祇園祭のこの季節はとにかく蒸し暑い。
浴衣・・・いや、おじさんとしては、ステテコで冷やし飴を飲み、さらには梅肉和えのハモを肴に生ビールでもあおって、のらくらとやり過ごしたいものだ(^^;)

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2005.05.30

階級社会・京都

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 通り名の歌に歌われる地域を「聖域」と感じるわしには、手の届かない京都のモノが多々有る。そして日々、ひしひしと感じるのである。「この街に住む人間は、みんなあからさまに格付けがされていて、歴然たる階級社会に生きているなあ」と。
 写真は祇園のお茶屋である。まず、わしには生涯縁のない店だ。
「そんなことあらしまへんえ。一見さんお断り言うても、ちゃんと手順を踏んだら遊ぶことが出来ます。どうぞ気楽におこしやす」と、公式には言うてくれるであろう。
 大嘘である。社交辞令である。建前である。

 お茶屋遊びの平均的料金。
 三人で出かけ、舞妓さん一人、芸妓さん一人付いてもらって、懐石料理などを取り寄せ、飲み食いし、踊りなど見せてもらって午後6時か8時まで遊び、一人あたま、4万8千円。(参考・文春新書「京都 舞妓と芸妓の奥座敷」相原恭子著)・・・今は不況でだいぶ値が下がっただろうか?
 そのくらいなら払えるぞ、という人もおられるだろう。だが、一見さんお断りの壁を突破するのは並大抵ではない。名前を言えば誰も知っている大会社の社長でも、祇園のお茶屋には入れてもらえず、腹いせに宮川町で何億とばらまいた、という話がある。お店のほうが、客を選ぶのである。その基準は何一つ明らかにはされぬ。そして、花街にも格の差がある。
 そんなことは誰でも知っているので、京都では改めて話題にもならない、のだろうが。

 これもまた、名前を言えば、ある年齢以上の京都の人なら大概知っていた有名な飲食店。よくガイドブックにも載っていたのだが、いつからか店を閉めてしまい「幻の名店」となってしまった。その主人が最近漏らしたという閉店の理由。
「京都では、食い物屋は、どこまで行っても低くみられるねん。ある人にそう言われて、なんやもう、やる気がのうなってもうた」

 京都に多い和菓子屋には、三段階の格付けがあるそうである。
 ☆お餅、赤飯をメインとしながらお饅頭も売る「おもちやさん」
 ☆多種類の饅頭や餅菓子を並べる「おまんやさん」
 ☆お茶席で使う上菓子を扱う「菓子司(かしつかさ)」
 「おもちやさん」のあるじは「○○のおっちゃん」と呼ばれ、「菓子司」の経営者は××さんのご主人」と呼ばれる、そうである。(参考・淡交社「天使突抜一丁目」通崎睦美著)
 高級と低級、上品と下品、尊い者と卑しい者が、くっきりと差別されてきたのは、日本の歴史の一面であろう。
 京都の社会には歴然とその意識が残っている、とわしは言い切りたい。

 永遠に尊貴で至高の存在と思われた天皇家が東京に行ってしまい、それに連なる序列だった貴族も一緒に去り、御所は巨大な空白となった。
 残る尊きものは、門跡や大本山を頂点にする仏教寺院のヒエラルキー。
 真摯に修行に励み、宗教者として尊敬を集める僧がいる一方で、祇園をはじめとする花街の一番の上得意とされるのも、大寺院の生臭坊主だ。坊主丸儲け、というじゃありませんか。不況の中でも遊びに来てくれるお坊様は、花街の救い主だろう。しかし、本山ー末寺の上下関係、寺内の僧の階級差は、いまだに封建時代を思わせる。下っ端はもちろん祇園に遊びになど行けない。
 修行初めの下級の僧は冬でも足袋を履くのを許されない禅寺があり、足に傷を負った若い僧が、傷口から菌が入って入院。退院後も裸足でこき使われて、悪化しては入院を繰り返すので医師が何度も寺に「足袋を履かせるように」と言っても無視され、若い僧は敗血症となり、ついに死亡。江戸や明治の頃の話じゃない、つい数年前聞いたことだ。

 神社の御神体がなんであるか、あえて覗く人は少ないように、京都に関してはわかっていても話題にされないことが一杯ある。
 わしは、ヨソサンで、そういう空気が読めないので、時として壁にぶつかり、大いなる違和感に悩むのである。
 でも、本当は京都の人は皆、知っているのだ。
 日本が平等な社会でもなんでもなく、上に甘く、下に厳しい階級社会であること。京都にはそれがあからさまに見えること。
 京都では、市長選挙で、政党では日本共産党だけが推薦する候補が、政財官界代表の候補と大接戦を演じるという、まあ、日本の他の大都市では信じられないことが起こるのである。自分がどういう階級に所属していて、その利益に寄与してくれるのがどんな政治家か、よくわかるのである。

 そういう京都に、わしは激しく違和感を覚えつつ、熱烈に愛する。ここは、世界のどことも違う、まちだから。

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2005.05.29

京の通り名の歌「寺御幸」

 京の通り名の歌は、江戸時代の文献にも載っているそうであるが、幾つかのバージョンがあるのは、Bachさんのご指摘どおり。メロディーもきっといろいろあるのではないかと思われる。

 さて、南北のほうの歌は「てら・ごこ」である。

寺 御幸 麩屋 富 柳 堺
(てら ごこう ふや とみ やなぎ さかい)
高 間 東 車屋町
(たか あい ひがし くるまやちょう)
烏 両替 室 衣 
(からす りょうがえ むろ ころも)
新町 釜座 西 小川
(しんまち かまんざ にし おがわ)
油 醒井で 堀川の水
(あぶら さめがいで ほりかわのみず)
葭屋 猪 黒 大宮へ
(よしや いの くろ おおみやへ)
松 日暮に 智恵光院
(まつ ひぐらしに ちえこういん)
浄福 千本 はては西陣
(じょうふく せんぼん はてはにしじん)

 こっちの歌は、「丸竹夷」に比べて知名度が低く、わしもラジオで聞くまで知らなかった。ちょっと前まで、京都銀行のCMでよく流れていたのである。
 ではこれも、通り名のフルネームを記す。読み仮名を書いてない場合「町」は「まち」と読む。

寺町通 御幸町通 麩屋町(ふやちょう)通 富小路(とみのこうじ)通 柳馬場(やなぎのばんば)通 堺町通
高倉通 間之町通 東洞院(ひがしのとういん)通 車屋町(くるまやちょう)通
烏丸(からすま)通 両替町(りょうがえちょう)通 室町通 衣棚(ころもたな)通
新町通 釜座(かまんざ)通 西洞院(にしのとういん)通 小川通
油小路(あぶらのこうじ)通 醒井(さめがい)通 堀川通
葭屋町通 猪熊通 黒門通 大宮通
松屋町通 日暮(ひぐらし)通 智恵光院通
浄福寺(じょうふくじ)通 千本通

西陣は通り名でなく、地域の名称で、応仁の乱で西軍が陣を敷いたことから付けられている。
このところの歌詞、「はては西陣」でなく、「さては西陣」と歌うバージョンもあるらしい。

 その西陣の隅っこに住んでいたことはあるが、こっちの歌の範囲からも、わしははじき出されてる(苦笑)。
 それはなぜかと考えてみる。真っ先に浮かぶ理由は、このエリアは家賃が高いのである。代々ここで暮らしている住民の比率が高いので、ヨソサン向けの賃貸物件が少ないし、なにより都市の中心なので地価が格段に上なのだろう。
 そして、昔ながらの京都の町家暮らしは、ご近所付き合いのしきたりが高度で複雑で、よそ者はびびってしまうのである。
 旅行者や、一時の滞在者である学生に対してはおおらかに接する京都の人々も、ご近所さんになると、厳しいチェックの目を向けてくる、様な気がする(^^;)
 それでも最近は、このエリアにもマンションは林立し、町屋暮らしに憧れて東京からやってきはる方も増え、ヨソサンの流入は激しいに違いないが、わしにはいまだ、一種の「聖域」みたいな感じが抜けないのである。

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2005.05.27

京の通り名の歌「丸竹夷」

 今、保育園に通ってる息子が、さる催しで発表するために習っているのが、京の通り名の歌なのだが、まず、東西の通りの歌は「まる・たけ・えべす」である。
 あちこちで取り上げられていていまさらだが、歌詞を記してみよう。

丸 竹 夷 二 押 御池 
(まる たけ えべす に おし おいけ)
姉 三 六角 蛸 錦 
(あね さん ろっかく たこ にしき)
四 綾 仏 高 松 万 五条 
(し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう)
雪駄ちゃらちゃら 魚の棚 
(せったちゃらちゃら うおのたな)
六条 三哲 とおりすぎ 
(ろくじょう さんてつ とおりすぎ) 
七条こえれば 八 九条 
(ひっちょう こえれば はっ くじょう)
十条 東寺で とどめさす 
(じゅうじょう とうじで とどめさす)

・・・とどめを刺すんかい!(@@)と、終りまで歌ってみるとびっくりする。
 では、通り名のフルネームを列挙してみよう。

丸太町通 竹屋町通 夷川通 二条通 押小路通 御池通
姉小路(あねやこうじ)通 三条通 六角通 蛸薬師通 錦小路通
四条通 綾小路(あやのこうじ)通 仏光寺通 高辻通 松原通 万寿寺通 五条通

・・・あれ?なんか、この辺から怪しくなってくるぞ。
「雪駄ちゃらちゃら魚の棚」てのは、なんだ?!
六条通はいいとして、三哲ちゅうんは、バス停の名前にはあるが、通り名なのか?
・・・で、泥縄的にたった今調べてみたら、雪駄屋町通というのがあり、現在、一般的には「楊梅(ようばい)通」と呼ばれているらしい。
また、三哲は塩小路通がこれに該当するそうだ。

さて、続きは 七条通 八条通 九条通 十条通
東寺はお寺であって、通りの名前ではない。 

 すっかりわかったつもりでいて、この歌を解説しようとしたら、かくのごとく理解しないまま歌っていたところが判明した。「いまさら」と思っても、勉強してみるものである。
 そして、更に驚いたのだが、わしは20年以上京都にいて、やたらあちこち引越したにもかかわらず、なんと、この歌詞の範囲に住んだ事がないのである!
 息子も当然、これら通り名に日常的に縁がないので、「タコさんろっかくイカにしき」などと間違って歌っている(笑)

 通り名は南北にも当然ついていて、その歌もあるので、次回はそれをご紹介。

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2005.05.12

惜春譜

春も過ぎて、はや初夏の気配にある中、まだお見せしてなかった花や風景を、まとめて載せておきます。

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新緑遊行(あそび)と特別名宝展、を開催していた東福寺で、たった一本咲いていた八重桜。4月22日撮影。

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うちのごく近所、農業用水のほとりに咲いていたツツジ。5月2日撮影

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これもご近所のお宅で、見事に煉瓦塀を覆っていたモッコウバラ。5月2日撮影

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2005.05.01

きらめく水辺

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あまりに急に夏のような暑さになって、ほとぼりを冷ましに向かうのは水辺である。
子供は靴と靴下を脱ぎ捨てて、まっしぐらに流れに足を踏み込むのである。
4月29日、京都府立伏見港公園。

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北から流れてきてここで宇治川と合流する水は、元をたどれば琵琶湖疏水なのである。しかしこの辺りでは「宇治川派流」と呼ぶ。なぜかというと、昔は宇治川のほうが水位が高く、なんと南側から伏見の町へ流れ込んでいたからだそうだ。
流れには、江戸時代の水運をしのぶ十石舟、三十石舟が観光客を乗せて行き交っていたが、子供はあまり興味を示さず、ひたすら水と戯れ、カワニナ(細長い淡水産巻貝)を拾い集めていた。300個くらいは集めていたと思う(笑)

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暑さは変わらず、4月30日も水遊びへ。
左京区の高野川、高野橋と蓼倉橋の中間にある、亀の飛び石。
出町の三角州の下にもあるが、高野川のは、ほんとうに地元の子供たちの遊び場である。
わが息子はいきなり跳び移り損ねてぐしょ濡れ。でも笑ってそのまま遊べるほどに暑い日差しだった。

きらめく思い出は、存外こんな、観光地でもテーマパークでもない場所で作られていったりするのだろう。

☆sunaさんの「見たままに切り取る京都」では、鴨川畔 川端東一条・亀の飛び石について触れられています。

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2005.04.15

京都と中国の絆

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平安神宮を中心に、桜見物の人々で賑わっている左京区岡崎。琵琶湖疏水には、十石舟が浮かんで、岸辺の桜を愛で、花吹雪を浴びながら優雅に行き来している。
そんな中、京都国立近代美術館から疏水と道路を隔てて南側に、不思議な建物があるのをご存知だろうか?
凝った装飾に彩られた四角いビルの屋上に、八角形の屋根を持つお堂が載っている。
「藤井斉成会有鄰館 (ふじいさいせいかいゆうりんかん)」という、美術館なのである。
わしは昔、この建物を能楽堂だと勘違いしていたが、藤井紡績の創業者・藤井善助という人物が、収集した八千点を超える中国美術品を展示する目的で1929年に建てたそうだ。
そして、ひときわ目に付く、この屋上の八角堂は、なんと中国の北京の故宮=紫禁城の一角にあった建物なのだ!
1924年、当時の北京で道路拡張工事が行われ、紫禁城の西北が一部分削られることになり、そこにあったこの八角堂が、中国大使やその舅であった犬養毅らの斡旋で、京都の岡崎にやってきたのである。
屋根の瓦は、1737年(乾隆2)に焼かれた瑠璃瓦、軒丸瓦には中国皇帝を象徴する五爪の龍の紋様、八角の棟には龍、獅子、麒麟などの「走獣」と呼ばれる魔除け人形が載っている。丸ごと美術品というべきお堂である。

藤井氏は中国の美術・文化を愛し、貴重なこの建物を惜しんで移転を引き受けたのであろう。しかし、その後の日本と中国の関係は戦争へと突き進んで行った。そうなっては、軍国日本が中国の文化遺産を略奪したような形になってしまったのではないだろうか。多大な犠牲と引き換えに、平和は戻った。岡崎の八角堂は、そんな歴史の痛みを刻みながら、両国友好の絆にしていくべきであろう。

今、中国では反日デモが荒れている。
「愛国無罪」などと喚いて乱暴狼藉を働く輩を見ると、感情的に怒りが湧く。
しかし、こんなときこそ、いろんなモノを振り返ってみなければいけないと思う。
岡崎もそうだが京都の桜の名所の一つに、嵐山が数えられるだろう。
その中ノ島公園には、「日中不再戦の碑」が建っている。
桜を愛でる人々よ、岡崎や嵐山には、そんなものもあることを知って欲しい。

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2005.04.06

老舗の張り紙

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 京都市中京区、寺町通二条上ルに、憧れの老舗「一保堂茶舗」があり、今日、仕事でこの辺に行ったのを良いことに、訪れてみた。
 何度も前を通ったことはあったが店に入るのは初めて。何しろ御覧の通りの風格あるお店なので、どきどきしつつ暖簾をくぐろうとすると、玄関脇の壁に張り紙が・・・

ippodo-2
「いり番茶お求めの皆様 
 ご愛顧頂きありがとうございます 
 実は昨今原料となる良質の茶葉の
 確保がむずかしくなり一日の販売
 可能な数量に限りがございます
 どうかご了承くださいませ
               一保堂茶舗」

 実はわしの目当てはこの、いり番茶だったのだ。yumeさんのblog「京番茶」記事で、こうなっているとは聞いていたが、目の前に張り紙を見ると更に緊張した。
 店内はわしのほか、客はいなかった。わしより10歳ぐらい上かと思う男性の店員さんが応対してくれる。かなり焦りつつ、一番安い煎茶を頼み、そして
「それから、いり番茶はありますか?」と聞くと
「はい、200グラムのしかございませんが」
「あ、もう、それで結構です!」
 というわけで、見事ゲットし、かぐわしい香りの包みを抱えて、ほくほくと帰ってきたのである。

 しかし、数日前、家族とある寺院に出かけたとき、その門前にあった有名飲食店で目にした張り紙を思い出した。
入り口の玄関柱の一番目立つところに、
「やくざさん 暴れる子供 中年の人 お断り・・・」などと書かれてあったのだ。
 築数百年の由緒ある建物を利用したお店だそーだが、その風格を台無しにする文面にのけぞる。
 中の蔵には、ギャラリーも併設されているというので楽しみにしていたがいっぺんに入る気が失せる。
 わが息子は、行儀の悪い五歳男児であり、わしら両親は紛れもなく中年ですがな、分不相応いうわけどすな、ほなさいなら!
 というわけで、憤然と背を向け、マクドナルドでハッピーセットを食い、ゲームセンターでムシキングゲームに親子三人で熱中して帰ってきた(笑)
 いろんな雑誌や案内本で味と店構えを絶賛されているお店だったが、あの張り紙はどの本にも書いてなかった。これだから、ガイドブックは当てにならない(苦笑)

 手書きの張り紙には、如実にお店の個性や品格が滲み出るものだな・・・

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2005.03.16

おじゃこさん

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京都案内とは別に、京都に関するいろんな考察、愚痴などを書くカテゴリー「京都随想」を作りました。んで、第一回です。

 京都の言葉は、男女差があまりないという。特に親しい間柄では、全く同じような言葉遣いになるそうだ。
 その結果、よそさんが聞くと「京都の女の人は実にもの柔らかで女らしい。でも、男の人は、柔弱で頼りない」という印象を持ってしまう。

 学生時代、京都生まれ京都育ちの友人を、下宿に招いたことがあった。当時、わしの妹も京都に来て学んでいたので、三人で晩飯を作って歓談していたのだが、そのとき、友人がふと使った言葉。
「おじゃこさん」
 じゃこ=雑魚である。ちりめんじゃこ、などという風に使う。
 妹がそれを聞いて爆笑した。大柄で筋骨たくましい友人が、雑魚に「お」と「さん」を付けて喋ったのがひどく不似合いで、可笑しかったのだ。
 友人は、何で笑われたのかわからず茫然としていたが、わしが説明すると憮然とした。彼は、妹とわしの笑いに、
「標準語を話す(と自分では思っている)人間が方言を話す人間に持つ優越感」を感じ取ったのだろう。でも友人は特に怒りも抗弁もしなかった。

 今、わしはあの友人にすまないことをしたなあと思う。彼は闊達でユーモアに溢れ、なおかつ剛毅なところも持った青年だった。男の言葉に「おじゃこさん」はおかしいと思ったのは、わしと妹の無知と偏見であった。
 慣れない習俗に触れて、違和感を持つのは仕方がないが、馬鹿にして笑うことは自分の浅薄さの表明である。

 「おじゃこさん」と、わしも今では胸張って言うで。 

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