2007.02.16

京都案内本の真贋

京都ブーム、「京都検定」人気の余波、いろいろあって、書店の「京都コーナー」はどんどん本が増えていくようである。

わしが京都に来て、ともかく京都のことを知らねばと思って買った本の一つが
岩波新書・青版の「京都」で、林屋辰三郎先生の名著である。
1962年に第一刷が発行されて以来、版を重ねて今に至るも読み継がれている。

その冒頭を引く。
「 御池
 京都は、神泉苑からうまれた。そういっても京都をおとずれる人々に、神泉苑の名はあまり耳なれたものではなかろう。いや京都に住む人々にも、このごろはさほど関心をもたれてはいない。しかし御池といえば、京都を知る人なら誰でも知っているはずである。その通りには京都市民のための市役所もあれば、京都訪問客のための著名なホテルもある。そのうえ戦後、疎開跡を利用して道幅をひろげてからは、祇園会の山鉾巡行路ともなって、一躍その名を高めた。」

さて、次に引用する文章は、2004年10月に発行された、京都を案内する本の一節である。

「 神泉苑
京都のルーツ
 京都は神泉苑から生まれた。そういわれても神泉苑の名は余り耳慣れないものかもしれない。しかし「御池」といえば、京都の人なら誰でも知っているに違いない。単に御池と呼ばれ、古来親しまれてきた名園である。二条、三条といった京都洛中の大路の真ん中にあるのが御池通で、戦後は祗園祭りの山鉾巡航路となって一躍その名を高めた。」
 

一目瞭然、ほとんどそのまんまパクリである。
しかも、よく知られた名著の冒頭をいただくという大胆不敵さ!
わしは呆れ果てたのであるが、ふとわが身を振り返って思うところがあった。
わしも、京都の案内をブログに載せている。寺社や名所の由来などを綴るとき、先人の著作を参考にするのは当然である。
そのとき、データを引く程度なら許されるであろうが、文章をそのまま盗み、あるいはあちこちから切り取ってきてつぎはぎして、自分の創作のように披露し、得意になっていないか?
固く自戒せねばならぬと思った。

京都の名所案内の本は、江戸時代から沢山出ていて、一つヒット作が出るとその海賊版みたいなものが続々と出たようである。
現代は手軽なガイドブックや地図を兼ねたムック本、イラスト本から、花の名所や美術や骨董や庭園やらの専門的な案内書まで、百花繚乱状態。
インターネットのHP、そしてblogもまた京都関係のものがたくさんある。
わしのblogなどは偏向がはなはだしく、忸怩たるモノではあるが、限りなく良心的でありたいと思う。

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2006.11.13

京都と「作家」 その7 水上勉

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わしにとって、水上勉こそ、京都を描いて最も心に沁みる作家である。
若狭に生まれて、九歳で京都の瑞春院に入り、十一歳で得度し、やがて等持院に移って十八歳まで小僧として修行を続けたのち、二十一歳で東京にでた水上は、
「京都の人びとや京都の風光が私にあたえたものは大きく、大きいというよりは、ふかく根づよいものになってしまっている事に気づいている。(中略)はっきりいえば、京都をはなれて私はあり得なかった。」(立風書房刊「京都花暦」収録の「京の人びと」より 以下も引用はこの本より)
と書いている。
そして、彼の視点は、京都に奉公にやってきた地方人、なのである。
「つまり、京はこのような奉公人といえば古風すぎるが、よそからきて、京の風土に培われている人びとの多い街といえるだろう。」
さらに、こう綴るのである。
「谷崎潤一郎も長田幹彦も、近松秋江も、吉井勇も、川端康成も、大仏次郎も京を描いた。もちろん一級の文学もあった。ところが、これらの作品によく目をすえて、今考えてきたような京の土の深さ、根のつよさみたいなもの、地下茎のようなものが、この古都を息づかせている世界に分け入った作品はというと数少ない。明治以後は、ほとんど旅人の目にうつった世界といえぬはない。」
「それでは私はどうか。問われれば、地下茎を踏んまえた上での物語を好んできた。旅人の目にうつった物語には惹かれなかった。」「『金閣炎上』も『五番町夕霧楼』も『雁の寺』も『西陣の蝶』も、私は、いくらかでも旅窓から降りて、地べたを見つめながら書いたつもりだった。」

よそから来て、京都に根づき、地べたを見つめながら生きる庶民の哀歓。それこそが水上勉の京都を舞台にした小説を貫くものである。
彼の文名を確固たるものにした「雁の寺」を読めば、それは一目瞭然だ。

ある日本画家が襖に雁を描いた京都の禅寺が舞台なのだが、一応設定は架空であり、画家も寺院も名称はすべて実在する名前ではない。しかし、描かれる寺院生活の日常はあくまでもリアルである。その寺の和尚は日本画家の死後、画家の妾を寺に引きとって愛人にする。そして、執拗に描かれるのは、水上の体験を基にした小僧の生活の過酷さ。それは、当時の庶民=奉公人たちが共通に味わった苦しみである。厳しい戒律と屈従を小僧に強いながら、自らは欲望をほしいままにする和尚への小僧の敵意は、ついに惨劇を生む。そして、小僧をさいなむのは和尚ばかりでなく、虚弱な身に軍事教練を強いる中学校であり、その背後にある国家権力でもあった。この小説は、権力を持つものに対する弱者の怨念と反逆の文学といっても過言ではないだろう。
その一方で、和尚の愛人である女性は優しく、ある意味母性の象徴のようにも描かれ、小僧がこの女性に母の面影を見ていることも暗喩される。彼女もまた、八条坊城という京都郊外に生まれ、幼い頃から京都の料亭で奉公人として働かざるを得なかった庶民である。

「愛憎もつれあって、悲しみも喜びも、吸いこんでいる冷たい土壌の街」と京都を語る水上。「雁の寺」も「五番町夕霧楼」も結末は非情で哀切だ。その非情と哀切こそ、京都を最もリアルに体感させてくれると、わしは思うのである。

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2006.11.04

京都と「作家」 その6 長田幹彦

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さて、「祇園」で思い出される作家は、長田幹彦である。

え?知らないって?
まあ、作家・長田幹彦と言われるとなかなか思い出せないであろう。
この人は、「祇園小唄」の作詞者なのである。

 月は朧に 東山
 霞む夜ごとの かがり火に
 夢もいざよう  紅ざくら
 忍ぶ思いを 振袖に
 祇園恋しや だらりの帯よ

を1番として、4番まであるこの歌、京都というと誰もが思い浮かべる歌の一つであろう。(作曲は佐々木紅華)
実はこの歌は、映画の主題歌であった
それも、長田幹彦が書いた小説を原作とした映画だったのである。
小説のタイトルは「祗園夜話」
映画のタイトルは「絵日傘」
昭和5年に作られたそうである。映画と共に歌は全国に流れ、京都の花街を象徴する歌になった。

何しろ無声映画の時代の作品で、映画はわしは見たことがない。
そして、彼の書いた小説もまた、今では書店ではまず、見る事がない。
しかし、長田幹彦は大正時代の売れっ子作家で、「祗園」「祗園夜話」「祗園情話」など、祇園や舞妓さんを題材にした小説をあまた描き、人気を博したそうである。さらに、歌謡曲の作詞家としてもヒットを飛ばし、大家だったらしい。ついには「新金色夜叉」という自作の映画監督までやったとか。
作詞家としてはなんと、わしの故郷、長野県飯田にも関わっている。
飯田の観光名所:天竜峡には、「天竜舟くだり」という、京都の保津川くだりと同じような舟の遊覧があるのだが、天竜峡と船くだりを宣伝しようと作られた歌「天竜下れば」の作詞者が彼だったのだ。(ちなみに作曲は中山晋平)
こっちの歌が作られたのは昭和8年。芸者・市丸という人が歌って大ヒットしたという。

長田幹彦の小説は、大正12年に6巻の全集、昭和11年にも15+1巻の全集まで出ている。しかし、いまや見つけることすら困難である。京都の図書館で検索してみたら、他の作家と一緒に収録されているアンソロジーで、なんとか代表作くらいは読めそうだ。
それでも、祇園は律儀に彼を顕彰し続けている。
昭和36年に円山公園に「祇園小唄」の石碑が建てられ、平成14年からは11月23日に、「祇園小唄祭」が碑の前で行われるようになった。吉井勇を偲ぶ「かにかくに祭」(11月8日)は、祇園甲部の芸妓さん舞妓さんが献花するが、こっちのほうは五花街が毎年交替で行うのだそうだ。
で、いかにも京都らしい、でも凄いことに、長田幹彦が祇園小唄を作詞した場所である、祇園のお茶屋「吉うた」というお店は、創業100年の今も繁盛しており、お店のホームページまであるのだ。祇園小唄の原文もお店に大切に保存されているとのこと。ちなみに長田幹彦の小説も、こちらのHPで少し読む事が出来る。

小説は忘れ去られたが、祇園小唄は京都の花街と共にこれからもあり続けるだろう。
長田幹彦は、円山公園に石碑が建てられた3年後に他界した。

さて、京都と「作家」としてはこれだけ揚げれば十分であろう。
しかし!長田幹彦という人は、それだけでは済まないのである!
この人、なんと晩年は「心霊」に深く興味を示し、「幽霊インタービュー」「心霊」「心霊五十年」「私の心霊術」などという著作を著し、『超心理現象研究会』なるものを主催して、日本有数の心霊研究家だったというのである。
そちらの方面は、今のところわしの関心と知識範囲の及ぶところではないです(^^;)。

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2006.10.15

京都と「作家」 その5 瀬戸内寂聴

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京都と関わりのある作家として、避けて通れない存在であるが、できればわしとしては避けて通りたかったのが(苦笑)、瀬戸内寂聴である。

この人の京都との関わりは半端ではない。京都を舞台にした著作も非常に多いし、何より現在、京都に住んでおられるのである。
その嵯峨野の寂庵を、わしはお邪魔したことはない。それよりなにより、わしはこの人の作品を、自分から進んで読もうと思った事がない(汗)。

この人の文章は実に巧みであり、京都の描写も通り一遍でない優れものである。京都の風物が単なる背景でなく、登場人物の心象を描くものになっていて、実に味わい深い。
京都を知るためのガイドブックとして読む小説ならば、この人のものが随一、と薦めるにやぶさかでない。

しかし、瀬戸内作品は、徹底して、「女性のための作品」だと、感じるのである。ほとんどすべてが女性を主人公としており、大なり小なり彼女らは、瀬戸内自身が投影されているのであろう。
「愛の絵巻」と称される事が多いが、愛欲の遍歴を綴る作品がほとんどである。そのあたりが、純情なわしには刺激が強すぎて(爆)。

それにしても、瀬戸内作品は京都を隈なく、しかも深く描きつくしており、これから京都を描くには、「二番煎じ」を注意しなければならない。
「女徳」「煩悩夢幻」「京まんだら」「「幻花」「祇園の男」「比叡」「愛の時代」などは、京都を舞台とした小説として見逃せない作品であろうし、「色と欲に徹した男の業を描く」という「色徳」などは、わしが是非読まねばならぬ作品か(笑)。
「古都旅情」「寂聴古寺巡礼」という、タイトルからして京都案内的著作もあり、この人のパワフルな著作(そして風貌と言動)に接すると、「う~~、とてもかなわへん」と、後進のモノ書きとしてはびびるのである。

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2006.10.12

京都と「作家」 その4 赤江瀑

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作家の中には、既存のジャンルに当てはまらない、その人にしか書けない独自の分野で読者を魅了しているオンリーワンの存在がいる。
京都に関わる作家のうち、赤江瀑(あかえ ばく)がそれに当たると思う。

わしが赤江作品を最初に読んだのは、前にも触れた「京都ミステリー傑作選」(河出文庫・昭和60年初版)というアンソロジーに入っていた、「京の毒・陶の変」という短編である。
ほかには山村美紗、阿刀田高、小林久三、和久峻三といった作家が書いている中、わしには赤江作品が最も濃密に京都の雰囲気を描いていると思われ、最高に魅力的であった。
この作品、ミステリー傑作選に入っていると言うても、トリックも推理もない。清水焼の家に生まれた若き陶芸家が、陶芸の道に苦悩する中で京都の魔的な部分に囚われ、ついに破滅していくのを描いた短編である。
陶芸に関する深い造詣、湿度さえ感じさせる濃密な京都の風物描写、華麗にして艶な文体、衝撃的な展開、もうまったく、「こういう京都の小説を探していたんだ!」と、わしは叫んで、赤江の虜になったのだった。

しかしながら、赤江は余りメジャーな存在とは言いがたい。熱狂的ファンがついているユニークな存在というところだろうか。
この人は、1933年に下関に生まれ、今もそこに住んでいるらしい。
シナリオライターとして活躍したのち、1970年に「ニジンスキーの手」で第15回小説現代新人賞を受賞したのが作家としてのデビューである。
その後、第1回角川小説賞、第12回泉鏡花賞を受賞し、2度にわたって直木賞候補となっている。
刊行された本は80冊以上に及ぶが、京都を舞台にした作品がかなりの比重を占める。京都出身でも在住でもないのが不思議なほどに、京都の真髄を抉り出し、京言葉を縦横に駆使し、まさに「京の毒と魅惑」を味わわせてくれるのだ。
立風書房発行の「京都小説集 その壱 風幻」と「京都小説集 その弐 夢跡」に、京都を舞台にした作品が集められているが、ここに収められた作品の題名を目にするだけでも、なんとなく作風がわかるであろう。

「禽獣の門 花夜叉殺し 虹色の翅の闇 花曝れ首 殺し蜜狂い蜜 獣林寺妖変 雪華葬刺し 夜の藤十郎 罪喰い 阿修羅花伝・・・」

耽美、幻妖、伝奇などと形容されるが、それだけでくくりきれない赤江作品の魅力は、こうした紹介ではなかなか伝えにくい。どうぞ一度読んでみてください。

ただし、現在も創作活動を続けている赤江だが、過去の作品を入手するのはなかなか困難である。「京都小説集」もわしは図書館で借りて読んでいるのだ(涙)。
新作歌舞伎の脚本も書いているほど、古典と伝統芸術に詳しく、絢爛たる文章の書ける赤江。彼のような作品を書きたいと思うわしの願いは、身の程知らずだろうか?だろうなあ(嘆息)。

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2006.10.06

京都と「作家」 その3 山村美紗

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京都を舞台に数多くの作品を書いたということでは、谷崎も川端も遠く及ばず、おそらくは空前絶後であろうと思われる作家がいる。

推理作家・山村美紗である。

彼女こそ、京都で活躍し、京都で生涯を終えた作家の代表と言うことも出来よう。多くの作品が映像化されて広範に鑑賞されたという点でも群を抜く存在だ。

しかし、彼女は最初のうち「京都」を売り物にしていなかったようである。「日本のアガサクリスティ」が彼女の初めのニックネームであり、「女流の本格推理」で勝負していたのだ。
わしの手元にある『京都殺人地図』(徳間書店)という初期の短編集では、舞台になるのは伏見桃山とか長岡京とか、観光スポットと縁のない土地であり、登場人物も主人公の女検視官を除けば地味な一般人ばかりだ。当時彼女は宇治に住んでいて、土地勘のあるところを地道に描いていたのであろう。

ところがやがて、彼女の作品の中では、祗園祭りの鉾が暴走して犯人をひき殺したり、和服美女が八坂神社で矢を突き立てられたりという、絢爛たる展開が売り物になっていく。まさにそれは絵になる場面を要求するテレビドラマにうってつけで、山村美紗ミステリー・サスペンスは2時間ドラマの定番となった。(これを書いている今日の夜も「赤い霊柩車シリーズ」の21作目がオンエアされるのだ。)
彼女自身も住処を東山の豪邸に移し、華やかなドレスを身にまとった姿で、「サスペンスの女王」としてマスコミの寵児となっていった。

夥しいその作品で、京都を殺人の舞台としてきた彼女であるが、その華麗なイメージと裏腹に、彼女の文章は実はちっとも絢爛としていない。抑制が効いているというか、素っ気無いというか、淡々と経過を綴る冷徹なタッチである。
やはり彼女の真髄は巧緻なトリックで読者を唸らせる「推理」にあって、京都の文物や魅力を語るのは添え物でしかなかったのだと思う。彼女の描く京都は紋切り型であり、薄っぺらい印象を抱かせるのだが、これは仕方のないことだろう。
彼女の作品は、あらかじめ読者の抱く「京都らしさ」に迎合して描かれた。改めて京都の魅力を日本中に宣伝した功績は多大であるが、極力血なまぐささ、陰惨さを排除して描かれた死体を京都中に転がしたことで、それらのスポットのイメージが安直になってしまったのは否めない。
恐らく本人もそれは気になっていたのだと思う。『京都ミステリー傑作選』(河出文庫)というアンソロジーの序文に彼女は
「観光客の多くは、ロマンチックな恋の物語で知られる嵯峨野の寺々や、桜、紅葉などの美しい風景、可愛い舞妓さんに代表される華やかな京都しか見て行かない。しかし、観光客の何気なく踏んでいく石の下には、歴史の流れの中で、無念の死を遂げた人たちの屍やどくろ、そして、血や怨念があるのだ。」
と書いている。
しかし、ついに彼女はそうした陰惨さや怨念を描くことはなかった。華やかな舞台と常識的な動機で語られる、安心して読める作品が膨大に残された。
超人的ペースで書き続け、急逝した彼女は、それをどう思っていただろうか。

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2006.10.05

京都と「作家」 その2 梶井基次郎

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セレブな文豪と対極的なアプローチで、京都を題材にした作家の代表は、「檸檬」の梶井基次郎だろう。
(念のためですが、「檸檬」は「レモン」と読みます。)

では、「檸檬」とはどんな小説か?とりあえずまとめると・・・

学業を放擲し、肺を病み、「見すぼらしくて美しいもの」に惹きつけられて京都の街を放浪する学生。寺町二条の果物屋の店先に輝いていたレモンに魅せられて一個買い、河原町の書店「丸善」に行って、画集を広げて積み重ね、ゴチャゴチャな色彩の上にレモンを置いて出てくる。
「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。」と夢想しながら。

なんというかまあ、生活が乱れきって、刹那的になってしまったお兄さんの独りよがりの妄想なのだけれど、テロが日常化した現代では、あんまりシャレにならんかもしれないなあ。(苦笑)
わしも二十代、いろいろ挫折しては引きこもりみたいになった時期があって、鬱屈した気分は体験した。また、うらぶれた裏通りの方に惹きつけられる感性は共感できる。しかし、「だからどうやちゅうねん?」という読後感ではある。

なのにどういうわけかこの作品は「青春の憂愁」を象徴する名作、みたいに讃えられていて、主人公がレモンを買ったと目される寺町二条の「八百卯」には、その説明を記したレモンが今に至るもずっと陳列販売されている。そして先頃店を閉じてしまった河原町蛸薬師の「丸善」も名作ゆかりの店として名を売り続けた。確か閉店のときも店内の本の上にはレモンがごろごろしてたはずである。

それでは、梶井はそんなに京都に深く関係しておったのか?

彼は、1901年(明治34)に大阪で生まれ、サラリーマンの父の転勤に伴い、東京、三重県鳥羽と引っ越しつつ育ち、1919年(大正8)に第三高等学校に入学。これは現在の京都大学教養課程にあたるもので、本来3年で卒業のはずが、彼は2回落第して、5年間過ごした。1924年(大正13)には東京帝国大学英吉利文学科に入学して、なんの未練もなく東京へ行くのだ。「檸檬」が発表されたのは東京で始めた同人雑誌「青空」の創刊号である。以後、この同人雑誌に次々と書き、これが休刊となっても他の同人雑誌に書き続けた梶井だが、京都時代から患っていた肺結核が悪化。1931年(昭和6)に創作集「檸檬」が発行されたものの、翌1932年(昭和7)に、31歳の若さで世を去る。

わしの手元にある梶井の本は、「檸檬」(新潮文庫 昭和56年発行 第28刷)であるが、これには20の短編小説が収められている。
京都を舞台にしている作品は、「檸檬」と「ある心の風景」の2作だけなのは、ちょっと驚いた。
「ある心の風景」のほうも、京都の街の描写がかなりあり、夜更けに四条通や新京極を、赤や青の七宝に飾られ、「美しく枯れた音」のする朝鮮の鈴を腰に下げて歩く主人公は印象的だ。でも「街では苦しい」と何度も呟く彼の憂愁の源は「娼婦に移された悪い病気」である。これではやはり、「京都が売り物にする名作」とはなり得まい(苦笑)

梶井の京都での生活は三高生としての5年間であるが、新潮文庫の解説によれば、実に乱暴で「頽廃的」だったということになる。
琵琶湖疏水で仲間と夜中に泳いで震えあがり、寒さしのぎに酒を飲んだ勢いで売春宿に行ったのが始まりで「甘栗屋の鍋に牛肉を投げ込んだり、中華蕎麦の屋台をひっくり返したり、借金の重なった下宿から逃亡したり、自殺を企てたり・・・」「京都で少しは顔の売れていた『兵隊竹』という無頼漢に左の頬をビール瓶でなぐられたり」したそうである。既に肺の病があったのに、そんなことを繰り返しておれば命を縮めるのは当然であろう。
しかし、誰しも青春の日々にはやりきれぬ憂悶があり、破壊、あるいは破戒の衝動を覚えるものである。それを正直に突っ走った梶井に、当時の読者たちには共感と憧憬があったのであろうか。

梶井が居た頃、寺町通りはけっしてみすぼらしい裏通りなどではなかった。むしろ華々しい表通りだったはずである。しかし今、寺町通りは明らかに「表」ではない静けさのなか、不思議に情緒溢れる雰囲気がある。その一端に、「檸檬」のイメージがあるのは、確かだろう。

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2006.10.04

京都と「作家」 その1 いわゆる文豪

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「京都在住 小説家 作家」
という検索ワードでググってみたら、わしんとこの、このblogが第1位で出てきて、思わず「げっ?!」とのけぞってしまった。(苦笑)

過去に名を残している作家で、京都に住み続け、京都で亡くなったという人は、わしの知る限り 吉井勇くらいである。祇園の白川のほとりに「かにかくに」の石碑があり、毎年11月8日には、祇園甲部の芸妓さん舞妓さんが花を手向けて舞を奉納する。祇園を愛し、祇園に愛されて昭和35年に肺ガンにより、京大病院で死去。
しかしこの人は歌人であり、都をどりの歌詞なども書き、また戯曲も手がけているようだが、小説は残されていないようである。

ほかに、京都に関わる著名な作家といえば、谷崎潤一郎と川端康成が双璧だろう。

谷崎は昭和20年に京都にやってきて、まず寺町今出川上ルに間借りし、続いて「永観堂の西二丁若王子みち白川の岸」に居を構え、さらに下鴨の糺の森東側にある邸宅に移る。この屋敷は今も谷崎が暮らしていた頃のままに残り、先頃、一般公開もされたというニュースをきいた。池泉回遊式庭園が美しく、御殿風の建物があるという豪邸である。
ここがとても気に入って、作家活動も旺盛だった谷崎であるが、夏の暑さ、冬の寒さに耐えかねて昭和31年に熱海に転居したそうだ。

川端は谷崎以上に京都の名所旧跡を作品の舞台に使っている印象があるが、京都に住んだことはない。中京の老舗旅館「柊屋」と、三条蹴上の「都ホテル」(現・ウェスティン都ホテル京都)が定宿であった。
ちなみに柊屋旅館は現在、1泊2食付で30000円から80000円と、HPに出ている。

これらを見る限り、京都は筆名を揚げた文豪が、セレブな楽しみを味わう街だった。
谷崎など「私は三日に一度は美食をしないと仕事が手に付かない」と言い、川端の書いた色紙や掛け軸は、市内の一流どころの料亭、割烹には山と残っているようである。
彼らの小説に、今熊野商店街をうろつき、タコヤキを子供と分け合って食うような描写は間違っても出てこない(笑)。
祇園の御茶屋で舞妓さんを揚げて遊び、超高級料亭で京料理の粋を味わい、柊屋だの俵屋だの都ホテルだのを定宿にする・・・それは素晴らしいことである。
しかし、望んでできることではない。このどれ一つとっても、自腹で出来ますか?

わしは、そんな特権階級とはほぼ、無縁である。
そんなわしが、ここでどんな小説を書けるのか。精一杯あがいてみようと思う。

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2006.10.01

京都人気取りのよそさん

京都にいると、どうでも、「よそさん」であることを思い知らされてびびって控えめに生活し続けているわしである。(嘘つけ・笑)
しかし、「よそさん」でありながら、京都人以上に京都らしい生活を謳歌満喫し、それをエッセイなどに書きながら華々しく活躍なさっているお方もいる。
わしなど、到底真似はできないので嫉妬するばかりだが、こういうお方を、京都原住民の方々はどう思っておられるのか、興味があった。
ただ、京都生まれ京都育ちの人の多くは、自分らの街を余り語りたがらないような気がする。考えてみれば、慣れ親しんだものよりも異風のもの、自分にとって目新しいもののほうが情熱を持って表現しやすいのではないだろうか。
だからこそ、わしなども熱意込めて京都のことを書き綴っているのだろう。
そして、そんな「よそさん」をどう思っているのか、本音を明かさぬ京都の人から聞くのは難しい。

そんな中で、入江敦彦さんという京都人は、英国に惹かれ、現在はかの国で生活しておられるが、同時に「京都人だけが知っている」シリーズはじめ、本音の京都案内で、わしの目を大いに開いてくれている。
その著作を片っ端から読んでいるうち、今読んでいる「KYOのお言葉」(発行・マガジンハウス)のなかで、ついに痛快な一節に出くわした。

「京都で育った者はあまり他人を羨ましがらない。羨望は品のない行為だ、己(の利害)に関係ないことはドーでもいいことだと親に叩き込まれるからだ。よそさんが京都人気取りでキモノ着て町家に住んで自分の特別扱いをひけらかそうと歯牙にもかけない。

なるほど!わしが、かの「キモノ着て町家に住んで」活躍されておるよそさんに感じた反発は、嫉妬だけではなかったのだ。
「自分の特別扱いをひけらかしている」姿勢にあったんだなあ。

大阪に行ったりすると、こんなわしでも京都人扱いを受けたりする。「さすが京都人は、京都時間で、約束の時間にルーズやなあ」などと、大体はマイナスイメージなんだけどさ(大苦笑)
まあ、まちがってもわしは京都人気取りなどは出来ないが「自分だけが京都のこんな穴場を知ってるんだ」などと思いあがらぬように気をつけようっと。

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2006.09.28

比叡山

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延暦寺の所在地は、滋賀県大津市坂本本町であって、京都市ではない。
しかし日々仰ぐ比叡山は、京都の歴史に深く関わってきて、この街を語るのに欠かせないものであろう。
わしはしかし、2度ほど比叡山には登ったが、延暦寺にちゃんと参拝した事がないのである。

学生時代、それも就職前の最後の時期に「そういや、まだ登ってないなあ」と仲間の誰かが言い出して、修学院から、いにしえの登山道=雲母(きらら)坂を歩いて登るという暴挙を成し遂げたのである。
かつて、僧兵が神輿を担いで駆け下りたり戻ったりした頃には、ほどほどな道だっただろうが、ろくに歩くもののいなくなった時代、それは荒れ放題の、土と岩がむきだしになっている斜面で、雨が降ったら轟々と水が流れ下るであろう川底の道だった。それでもまあ、尾根に出ると見晴らしもよくて気持ち良かったのだが、汗だくで登りきった先には、いきなり広い駐車場がありやがって、排気ガスを浴び、とっても嫌になったものである(苦笑)。
帰路は確かバスに乗った。駐車場にも下っていく道にもたくさん猿が現れてびっくりした記憶がある。
それから10数年後、千種忠顕という、南北朝時代の公家にして武将だった男の小説を書きたくなり、彼が戦死した地まで登ってみようかと思い立ったが、すっかり身体がなまっていて簡単に挫折した(さらに苦笑)

あとは、車で「比叡山ドライブウェイ」を走った事は数回ある。料金が高いのでなかなか行けないが、山上からの景色はたしかに格別である。四月の終わりごろに走ると、遅い山上の桜が楽しめる。去年はカブトムシ展示館みたいなのが出来てたのでそれだけが目的だった。(苦笑ばっかだな)

御所から鬼門にあたる比叡山は、畏れ奉る存在であって、親しんで仰ぐものでなかったかもしれない。今はビルに隠れて見えないところも多い。(わしの住んでる山科などは、そもそも角度的に全く見えやしないのであるが)
ただ景色としては賞賛されていて、「額縁門」と銘打って、比叡山が門を透かして見えるのを自慢にしたり、この山の秀麗な姿を庭の借景にしているというお寺はある。
また、千日回峰行という、超人的な修行が比叡山にはあるのだが、その行者は七年間に分けて、比叡山の山道を通算1000回歩き通す。だがこれ、800回目から900回目までは雲母坂を下って京都市内の神社仏閣を巡るのだそうだ。これはなんと一日に84キロも歩くのだとか。それで、東山三条の古川町あたりの白川の流れに「行者橋」というのが架かっていて、これは欄干も何もない危なっかしいほど細い石橋なのだが、回峰の行者が渡るために作られているのだそうだ。
(続く)

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2006.07.24

「祇園祭」か「祗園祭」か?

ずっと、わし、「祇園祭」と打ち出していて、疑わなかったのだが、この「祇」という文字。
今日「京都民報」という週刊新聞に連載している「漢字の落し文」というコラムで、日本語教育研究所副所長の佐藤一男さんが書いているのを読んでびっくりした。

古くから使われてきたのは「示」(しめすへん)に、「氏」と書く字であり、これが常用漢字の正字体であるそうだ。

「祇」は簡易慣用字体というもので、これはJIS漢字による表記混乱の結果なのだという。
そして、ワープロで打ち出そうと思うと、正字体はJIS漢字に入ってないので打てないのである!(怒)

「祗園祭」とは打ち出せるのだが、この「祗」は、「シ」と読み、意味も違うのである。
ゆえに、「祇園祭」も「祗園祭」もともに間違っているのだ!

なんちゅうこっちゃ、悲しいがな、正しい文字も打てへんなんて・・・

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2006.07.17

随想・祇園祭 その六

祭囃子遠く

今年の祇園祭、わしは、宵山も行かなかったし、巡行も見に行かずに終わりそうである。
うねる人の波、揺れる駒形提灯、夢幻の音楽のように響く祇園囃子、あの熱気と高揚と、路地裏の闇の懐かしさを味わうのは、年に一度の大いなる喜びだから、本当に残念だ。

祭りの魂は変わることなく受け継がれていると思うけれど、
失われて戻ってこないものもあるのは確かだ。

山・鉾の立ち並ぶのは東は烏丸通、西は油小路通
北は姉小路から、南は高辻通。
それらの中で一番、山・鉾が多く建てられて並ぶのは、烏丸通の一本西側、室町通である。
「室町」と京都で言えば、呉服関係の旦那衆のまちである。
問屋が立ち並んで、長く京都経済の中心、栄華の象徴というべきお金持ちのまちであった。
政治を動かすのも、花街で散財するのも、文化を担うのも、ここの旦那衆だったのである。
宵山の屏風祭りに、秘蔵の屏風絵や陶磁器やらの美術品を飾るのも、そうだった。
その繁栄は、わしの聞く限り、衰退の一途である。

山や鉾や、幾多の神事は、必死の努力で伝えられてきている。
けれど、かつて、わしの目を楽しませてくれた屏風祭りの商家の幾軒が、あのままに生き残っているのだろう。

山科でも、今日は、宵山を楽しみに行く娘さんたちの浴衣姿が目に付いた。
素材も着こなしも、わしの目には珍奇に映る浴衣が多かった。
「室町」の流通ではないキモノなのかもしれない。
いや、おそらくほとんどが、そうなのにちがいない。
祭りは、「ハレ」の一瞬であるが、それを担うのは日々営々と生きている地元の人間である。
いまの祇園祭を担っている人々は、どんなだろう・・・と思う。

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2006.06.07

京都大仏殿跡で風に吹かれる

Suzukaze_0121
豊臣秀吉が築こうと試み、息子秀頼が完成させた、方広寺大仏殿。
今は歴史の記憶の彼方の、まぼろし。
巨石の石垣が残る豊国神社と方広寺を抜けて、東側に行くと、「大仏殿跡緑地」があった。

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大仏殿の礎石や石組みなど、今もこの地下には遺跡が眠っている。
そして地上は清々しい公園となっていて、三本のムクノキらしい巨樹が、青空に聳えていた。

Suzukaze_0151
誰もいないその緑地を散策し、巨樹の枝が天蓋のように覆う下に座る。
夕立の雨があがったばかりで、雫が落ちてくる。でも、なんと言う心地よさだ。
風が来る。草が揺れ、樹木の葉が鳴る。その音だけしかしない。
御影石のベンチの上で、知らずに結跏趺坐して、瞼を閉じていた。
ただ、風に吹かれていた。

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2006.04.12

秘めたる桜

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11日の京都は、断続的に突風と強い雨に見舞われ、とても花見日和ではなかった。
でも、押して観にいった桜がある。
今熊野から東山の谷筋へ登る道のひとつ、小さな川が渓谷をなしているところに、この白い枝垂桜が咲いている。

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谷間には棕櫚や観賞用の植物が植えられていて、秘密の花園じみており、小さな橋を覆ってこの桜が枝を垂らす。橋を渡り、坂道を登ると不思議な洋館のような建物があって、別世界のようである。

有名社寺でも名勝でもなんでもないところだが、京都にはこんな密やかなスポットが普遍的にあって、自分だけの思いを込めることが出来るのだ。

雨に打たれて、残念ながら枝垂桜は散りかけ、花は下を向いていた。それでも写真に撮ると不思議なほどに艶やかに映っている。雨を衝いて訪れた自分に、花が微笑みかけてくれたと思いたい。

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2006.04.04

京都府知事選挙

三日間ほど、息子を連れて長野県飯田市に帰省していた。
行き帰りの日は晴れていたが、肝腎の真ん中の日は、台風並みの低気圧に見舞われて土砂降りと大風。
今日の帰り道も、かなり横風に吹かれて、高速道路の運転は怖かった。

ふるさとはどんどん変わって行っている。
郊外の大型ショッピングセンターの隆盛(?)と、旧市街地の凋落。

京都はどやろ?
4月9日は京都府知事選挙の投票日である。
なんか、公職選挙法に抵触するらしく、インターネットでは選挙運動したらあかんらしい。
そんなアホな話があるかいな?と愕然とするんやけど。
法律作ってる方々は、よほど選挙をこそこそとやりたいのかいな?

京都府は、この間の市町村合併の嵐で、町名などどうなっとるのか、わしなどにはようわからん状態である。
京都の街も、どんどん変わって行ってるのは言うまでもあらへん。
わしは何の力も影響力もない、市井のおっさんやから
選挙でしか、政治にモノを言えへんのや。
この一票でな。

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2006.03.07

岡部伊都子先生の本

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岡部伊都子先生には、その著作を読んで以来、ずっと私淑してきた。
一度もお会いしたことはないが、わしの「京都」と、「モノの考え方」についての師のお一人である。
先生の最新の著作「遺言のつもりで 伊都子一生語り下ろし」という本が、昨日の朝日新聞の書評に載っていたので、今日、四条通のジュンク堂で買ってきた。
先生のプロフィールについて、この本のカバーに書かれているものを下に引用する。

岡部伊都子(おかべ・いつこ)
一九二三年、大阪に生まれる。随筆家。相愛高等女学校を病気のため中途退学した。結婚・離婚を経て、一九五四年から執筆生活。伝統や美術、自然、歴史などにこまやかな視線を注ぎながら、戦争や沖縄、差別、環境などの問題を鋭く追及する。

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わしが京都に来た19歳のとき、この本に出会った。
「観光バスの行かない・・・埋もれた古寺」新潮文庫 1975年初版
気取り屋で、余り人の行かない、京都の穴場を見つけたいと若造の身で思っていたわしは、タイトルに魅せられて買った。京都のお寺は、浄瑠璃寺、高山寺、曼殊院、泉涌寺、永観堂などくらいで、兵庫や奈良、大阪のお寺も多く紹介されていた。
繊細な感性溢れる文章にうたれるとともに、この本の中には、社会に対する鋭く切実な問いかけも含まれていたのに驚いた。曼殊院の黄不動画像に託して、当時日本を沸騰させていた日米安保条約改定への反対闘争に言及し、理不尽なものへの怒りを激しく書いていたのだ。

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以来、わしは岡部先生の著作を探しては読んだ。
これも新潮社の本で、1976年刊の「京の手みやげ」
京千代紙、京ろうそく、京焼、清水人形など、優れた京都の手仕事が紹介されている。寺や神社のことしか頭になかったわしに、京都の職人技、ものづくりに集約した歴史と文化というものへの目を開かせてくれた。

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そして、最新刊「遺言のつもりで 伊都子一生語り下ろし」藤原書店刊
生い立ちから、太平洋戦争のこと、筆一本で生きてきたこと、ハンセン病や沖縄、安保闘争などから社会への目を開いていったことなど、自身で語られた言葉をまとめた本である。
その言葉は、たとえば
「わたしは、先生と言われるのはいやや。『先生』という言葉を大事にしたいからな、学ばせてもろた人を先生と呼びたい。先生といわれるより、『いっちゃん』と言われるほうが好きや。 先生と呼ぶほうが無難やから、みなさん先生と言わはるけど、わたしはいやや。 本音が好きなんや。」

わしは、ほんまに岡部伊都子先生から、大事なことを学ばせてもろた。
だから、本音で先生と呼ぶ。
先生は今年83歳。この本は、先生の129冊目の著作である。

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2006.02.14

花に寄せる思い

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深山の奥に密やかに咲く蘭や
あるいは砂漠の真ん中で一瞬華麗に開くサボテンの花
それもおそらくは比類なく美しいのだろう

けれど俺が好きなのは京都の花だ

幾多の移ろいを経た街角の生垣や
由緒を秘めた古刹の庭に咲く花々
それがどうしてこんなにも魅力的なのか
俺は知っている

重ねられた歴史の中
有名無名の人々が
生きた証を滲みこませた花々だからだ
数え切れない喜怒哀楽と血と涙を吸って
京都の花は輝く
記憶の重層を花弁に畳み
永劫の空に馥郁と魂を放つのだ

さあ春よ来い
梅と椿と桜の蕾が
遥かな思い出とたぎり立つ若い命を混じり合わせて
待ちかねているぞ

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2006.02.10

忘れてしまう僕たちのために

時は過ぎて行き
僕たちはいろんなことを忘れてしまう
あの時、大切にしまいこんだ宝物も
いつか埃にまみれて色褪せていく
でも、捨てられない
春を待つ色のない季節に
そっと取り出して、光を当てよう

このblogの右側に、「特別企画」として並べてある中に、「祇園祭どす・トラックバックピープル」というのがある。
去年の夏、祇園祭をとりあげて大いに盛り上がったものだ。今はもう、ほとんどトラックバックもない。
それでも、消せずに置いていたのは、このトラックバックを通じて知り合った絆を忘れたくなかったからだ。

「コトモノBLOG」のモヨコさん、どこかでまだ、ここを見ていてくれるかな?
もう、「コトモノBLOG」は消えてしまって、トラックバックをたどることも出来ないけれど、あなたのblogと響きあった「随想・祇園祭」は、僕にとってかけがえのないものだ。
その随想の一番目に取り上げた、亡き俳優・市川雷蔵の文章。
それをこの間、本として見つけることができたよ。

paizo_002
「雷蔵、雷蔵を語る」
朝日新聞社刊 朝日文庫

雷蔵が彼自身で書いたエッセイをまとめた唯一の本だ。
僕が「祇園祭の宵山について書かれた、おそらく最も美しい文章」と言った言葉は
この本の242ページにある。
そしてその前のページには

 京の町には日本人の心のふるさとのような、
 懐かしい雰囲気のただよっていること

という言葉もあったのだ。
そして、雷蔵の気取らないプライベートの写真が、おしげなくちりばめられていて、
そこには、なんともいえず懐かしい、日本や京都の雰囲気が滲んでいるんだ。
それを知らせたかった。

そして、大切なものも、どんどん忘れてしまう僕のためにも

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2006.02.02

京都検定1級受験結果

昨日・2月1日に、京都・観光文化検定試験の結果が郵送されてきました。
わしが受けた1級の受験結果は
「合格まであと29点です。」とのこと(泣)。

参考データとして
受験者数:803名
合格者数:36名
合格率:4,5%
平均点:85,9

とのことでした。
わしの得点は91点で、まあ、平均より上だったのは良しとしましょうか(^^;)
とりあえず、ご報告まで。

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2005.11.06

色づく京都そして渋滞

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入院中に時代祭も終り、気がつけば11月。京都の木々も、色づき始めています。
「また紅葉、遅いみたいやなあ」と言われつつも、鮮やかな色彩も既にちらほら。
しかし!それと同時に、京都の道は人と車で溢れ始めるのでありました(;;)
わしが毎日通っている東福寺界隈は、そろそろ、車で通行するのが困難な状況になりつつあります。

nyuinzengo_0181
「秋の京都は大渋滞」
これは決して誇張ではありません。甘く見るとえらい目に遭います。
そして、注目はこのポスターにも書かれている、二つの交通規制です。

①嵐山等観光地交通対策
11月1箇月間の土・日・祝日
・長辻通北行一方通行
 10時~18時
・嵯峨街道南行一方通行
 10時~16時(土は12時~16時)

②東山交通社会実験
11月19日(土)20日(日)
    26日(土)27日(日)
・五条坂車両通行禁止
 10時~17時
・東大路通駐停車抑制
 13時~17時 

近年の京都の、観光シーズンの混み具合は尋常ではありません。それを前提に、雑誌やメディアでも
「あまり人の来ない穴場」情報を競っておりますが、なにしろそこへ行くまでに渋滞に(^^;)
有名な場所、土日祝日、この二つは避けるのが無難かと。

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2005.07.26

随想・祇園祭 その五

祇園守(ぎおんまもり)
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 炎暑の中に出かけるとき、首に手ぬぐいを掛けるとなにかと助かる。汗が拭けるし、首筋の日焼けを防げる。
タオルよりも軽くて暑苦しさがないので、とてもいい。
 この間、東京在住の妹から貰ったこの手ぬぐい、洒落た紋様が付いているが、これ、「祇園守」というそうだ。

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 歌舞伎の名門・成駒屋の家紋として有名で、江戸時代、歌舞伎役者関係の図柄は「粋」の極みとしていろいろなものに使われ、手ぬぐいの柄としても定番となったらしい。
 祇園守というからには無論、「祇園社のお守り」という意味なのだが、起源はあまりはっきりせず、巻物がクロスしている柄から、キリシタン信仰との関連も考察されている。
 祇園社=八坂神社の祭神は恐怖の疫病神「牛頭天王」であり、異国の神であったのを、日本のあらぶる神・スサノオノミコトと習合。以来、様々な神や仏を取り入れて複雑な信仰を形作っているので、想像力が掻きたてられるのだろう。中には祇園祭は古代イスラエルのシオン祭が伝播してきたもの、という説まである。
 そうした幾多の考察や想像を呼ぶのも、祇園祭の持つ豊穣な力のなせるものに違いない。

 ところで、祇園守は、槿(むくげ)の花の品種名にもなっている。
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          大仙祇園守
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           赤祇園守 

 槿の咲く中、7月31日の疫神社夏越祭をもって、祇園祭の行事は終わる。疫病や災いから免れて、楽しい夏を過ごせますようにと、祈ろう。

☆ 槿の祇園守については、
 yumeさんの「yume_cafe」「目疾地蔵さん・祇園守のむくげ」
 piitaさんの「京都あちらこちら」「祇園守」
で紹介されています。

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2005.07.22

随想・祇園祭 その四

宵山追慕

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 宵山も山鉾巡行も過ぎてしまったけれど、僕の胸の中にはまだ、祇園囃子が鳴り続けている。
 そして、忘れられない歌声が響いている。
 七月のあいだ中、祇園囃子とあの歌声は、僕の胸をうずかせるのだ。

 「・・・常は出ません、今晩限り
 ご信心の、おん方さまは・・・
 ろうそく一本献じられましょう
 ろうそく一本、どうですか~」

 宵山に、粽やお守りを売る、鉾町の子供たちが歌う歌だ。
 けれど、僕の耳に残るその歌は、乙女の声なのである。
 可憐な容姿に、強い意志を秘めて、なおかつ優しかった人だ。

 京都で学生生活を始めたばかりの僕に、あの人は「京おんな」の理想と映った。手もなく心惹かれ、憧れた。あの人が主催していたサークルに入り、文学を論じた。コンパに繰り出し、酒を飲んだ。酔ってあの人にからむ奴には鉄拳で応じた。いつもあの人を見ていた。あの人に認められたいと、背伸びして沢山の本を読んだ。
 そして、あの人が活動していたから、学生運動にも身を投じたのである。

 ささやかなる疾風怒濤の時代。
 高揚もあれば挫折も経験した。友情も培ったが裏切りもあり、傷もいっぱい残る。
 その、どちらかといえば苦かった「青春」の只中で
 蒸し暑い夏の夜に、あの人がこう言った。
「そういえば、今日は宵山やなあ・・・うちも、子供の頃、浴衣着て粽売ったことあるんよ」
 そして、あの人の唇から流れた、あの歌。
 細く、透き通った声が、どんなにか甘く、僕の心に染み透って行っただろう。
 その頃、僕は知っていた。
 あの人に恋人がいることを。

 やがて、あの人は卒業し、数年して僕も社会に出た。
 消息を知るすべはあったけれど、特に連絡などもしなかった。
 歳月は流れて、ある春の日の円山公園野外音楽堂。
 人込みの中に、あの人の姿があった。
 生き生きした目の光も、小鹿のような容姿も変わっていなかった。
 僕はその頃、結婚したばかりだった。
 そう伝えるとあの人は笑顔を見せて、屈託なく話した。

 それから、どれほど経っているだろう。
 宵山を彷徨い、子供たちの歌声を耳にするたび
 僕の胸は甘美にも痛い。おそらく、いつまでもそうだと思う。

 ☆今、本で調べるとあの歌は「占出山」の町内に伝わる歌のようだ。

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2005.07.07

随想・祇園祭 その参

幻の映画「祇園祭」
kodaiji77_0231 先に紹介した小説「祇園祭」は、映画化され、1968年11月に公開された。
 しかし、企画からそこに至るまで7年もかかり、様々な紆余曲折と困難が伴ったのである。
 詳しいことは、「猟さんのシネエッセイ」「数奇な運命に翻弄された『祇園祭』」で知ることが出来た。
 東映の時代劇スターだった中村錦之助(後の萬屋錦之助)が主演し、また彼自身が、自主制作組織「日本映画復興協会」の陣頭に立って作り上げた力作である。わしはまだ見たことがないのだが、原作の力強いストーリーをほぼそのままに、超豪華な配役が揃っていて、「間違いなく傑作と呼べる作品」と綴る「猟さん」の言葉に頷ける。

 時代劇からやくざ映画路線に変わろうとする東映と役者魂をかけて戦っていた当時の錦之助は、この作品でそれまでのチャンバラ・アイドルから脱皮を遂げたと言われる。さらに共演は「七人の侍」で日本映画の金字塔たる演技を見せた三船敏郎、志村喬、物凄い美貌だったと聞く若き日の岩下志麻、もうそれだけでも、「見たい!」と思わせるのだが、ビデオにもDVDにもなっていないらしい。テレビで上映されたというのも聞いたことがない。幻の映画となってしまっているのは、痛恨の限りだ。
 しかし、唯一見れるのが、京都文化博物館の映像ホールで、毎年祇園祭の頃に上映されるのである
 残念ながら、今年もわしはそれを見に行けないのだが(;;)

 京都が「映画の都」と言われた時代もあった。「東映太秦映画村」や「大映通り」にその栄華の名残がある。市川雷蔵や、錦ちゃんと呼ばれて愛された中村錦之助が闊歩していた頃の京都は、どんな風だっただろうと、わしは思いを馳せるのである。

 早世した雷蔵はもちろん、西口克己も、萬屋錦之助も今は故人である。それでも、祇園囃子は彼らの聴いたものと同じ音色を奏でる。そして、残された小説には熱い情熱が脈打ち、フィルムに躍動するスターのきらめくオーラは、これからも沢山の人々を魅了し続けるだろう。

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2005.07.04

随想・祇園祭 その弐

小説「祇園祭」
 西口克己という、京都出身、在住だった小説家がいる。
 年譜によれば、1913年(大正2)に、伏見中書島の娼家に生まれ、京都三高(旧制第三高等学校)から東大文学部に進み、1946年(昭和21)に日本共産党入党。1950年の党分裂の際、「除名」され、義母名義の娼家の片隅に逼塞しながら書いた小説「郭」が、1956年(昭和31)にベストセラーとなり、小説家として認められる。
また、1955年(昭和30)には、日本共産党の統一と同時に党へも復帰。1959年(昭和34)に京都市会議員に当選し、四期勤めて、京都府会議員に当選。これも三期に渡って活躍した。
 小説の代表作は「郭」のほか、「文殊久助」「山宣」「祇園祭」「新幹線」「Q都物語」などがある。
 1986年3月15日永眠。

gionmaturito_0021 小説「祇園祭」は最初、1961年に中央公論社から出版されたが絶版となり、その後弘文堂からの再刊もまた絶版、わしが買ったのは1968年に東邦出版社から出されたもので、表紙の絵は滝平二郎の切り絵によるものである。
 内容は、室町末期、祇園祭復興に自らの誇りと平和に生きる権利を求めた京都町衆のたたかいを描いたもので、ラストの天文二年の祇園会山鉾巡行に至るまでのダイナミックな筆致は壮烈である。

 「・・・よいか、皆の衆、―ようく聴いてくれ―くりかえしいうが、将軍家の命令は神事停止じゃ。社殿での祈願や、神輿渡御など、つまり神官たちの執り行う儀式は取りやめよというのじゃ―よろしい、どうしても命令にそむけぬというのであれば、一切の神事は取り止めてもらおう―ただし―ただしじゃ―たとえ神事これなくとも、山鉾渡したし!―これば、わしらの決心じゃ!」
 「もともとこの鉾は、京町衆のものなのだ。洛中の数知れぬ人々のためのものなのだ。京都を捨ててかえりみぬ将軍の、一片の命令で左右されるものではないのだ。そんな命令に媚びへつらうような、腐りきった祇園社の神官どもに用はない。まがれ、鉾!八十尺の鉾頭を、堂々と南に向けるがいい!」
 「―山鉾は、―美しい祇園会の山鉾は、戦さぎらいの京町衆が、殺されても、殺されても、ついにその念力で動かしたのだということを、こいつらに見せてやるのじゃ―のう、頼む、―わしを、―わしをもう一度、あの鉾の上に乗せてくれ―笑いながら、鉾の上で死なせてくれぬか・・・・」

 戦乱の中で平和を希求する町衆は、支配階級の妨害をはね返し、平和の祭典たる祇園祭を復興する。その中心人物となった青年、笹屋新吉のロマンスをからめながら描かれる物語は、波乱に富んだ筋立てで、実に面白く読めるものでありつつ、「民衆こそ歴史の主人公」という作者の信念が貫かれているのである。文体も、作者の肉声のように熱情みなぎって、わしは読み返すたびに熱い感動の涙がこらえきれない。
 山鉾巡行の様子を「何千何万もの人波をかきわけてすすむ巨大な艦隊」と描いた西口克己の視点にわしは激しく共鳴する。あの巡行は、豪華絢爛なだけではない。町衆の心意気を高く掲げて進む、勇壮な戦列なのだ。

 そしてこの作品は、映画化されている。しかし、今やそれは「幻の映画」なのである。それについては次項で。

☆現在、小説「祇園祭」は、新日本出版社から出されている「西口克己小説集」の一冊として購入できます。 

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2005.07.02

随想・祇園祭 その壱

祇園祭と市川雷蔵
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 京都の七月を彩る祇園祭は、八坂神社の祭礼であると共に、京都の町衆が誇りとし、心から楽しむ祭りである。
その八坂神社の朱塗りの西楼門をくぐると、すぐ両側に石灯籠が立っている。
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 右側の石灯籠に刻まれている名前は
  三代 市川寿海
  八代 市川雷蔵
であるが、寿海は名門の歌舞伎役者であり、雷蔵はその養子で、歌舞伎役者でもあったが、大映のスターとして一世を風靡した俳優である。
 わしは、銀幕で眠狂四郎を演じた最高の役者であるこの人のファンであるが、彼は1969年、三十七歳の若さで逝った。命日は七月十七日。祇園祭、山鉾巡行の日だった。
 そんな彼の残した下の手記は、祇園祭の宵山について書かれた、おそらく最も美しい文章だと思うのだ。

「結婚して以来二人で京都の町へ出かけても、映画館であれ、百貨店であれ、私たちは絶えず周囲からの視線の集中攻撃にあって当惑するのが常でした。なにがそんなに珍しいのか、ジロジロと興味あり気な目で見られると、全く身体まですくむ思いでした。
 ところが数年ぶりで出かけた宵山では、私は全然期待もしていなかった快い気分に浸ることができました。鉾や露店や人出は年々歳々同じことで数年前と変わるものではなかったのですが、かつては一人で歩いたのにくらべて、今度は二人で手をつないで大勢の男女と入りまじって歩いた気分だけはまったく、予期もしない幸福感に溢れる思いでした。
 自分でもよく説明できない気持ちでした。たしかに老若男女さまざまな連れの中にもまれて、私たちの若さ、しあわせといったものをしみじみと感じるような、生まれて初めての宵山情緒だったのです」
(「市川雷蔵かげろうの死」田山力哉著・講談社刊より、引用 ☆下の写真の左の本である)

gionmaturito_0011 複雑な生い立ちを持ち、スターの孤独の中、夭折した彼が、ほんのつかの間味わった、新妻との幸福の象徴が、宵山見物だったのだ。
 祇園祭の宵山には、彼が語ったとおり、老若男女誰もが心華やぎ、生きる喜びを噛み締められるような、不思議な雰囲気があると思う。

☆祇園祭について書かれたblog記事でモヨコさんの「コトモノBLOG」の「祇園囃子が聞こえる」が、わしの書こうとした宵山への思いに近いと思いました。

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2005.07.01

水無月・みなづき・皆好き

kanmi3
6月30日は、夏越の祓いということで、あちこちの神社で茅の輪(ちのわ)をくぐったり、紙の人形(ひとがた)を川に流したりということを、京都ではするのだが、我が家で欠かさずやってるのは、この和菓子「みなづき」を食べることくらいである。
老舗はもとより、和菓子屋はどこでもこれを売り出してるが、今回うちのは生協の共同購入で求めたごく安価なもの。それでも十分美味しく、なんか猛暑を乗り越えるパワーを貰ったような気がするのが、年中行事の威力かな。

kanmi2
みなづきだけでは淋しいので、6月に口にした甘味を並べてみる。これは、京都駅伊勢丹デパート内の「茶寮・都路里」で食べた、「鞍馬」と名づけられた黒糖蜜のカキ氷。適度にコクのある甘さが暑さにバテ気味だった身に嬉しかった。

kanmi
都路里はもちろん、パフェをはじめとした抹茶メニューがずらりと揃えられて、平日でも行列が絶えないのである。祇園にある本店は言わずもがなだろう。

kanmi5
混雑していたといえば、紫陽花を見に行った宇治の三室戸寺もそうだったが、ここの庭園内にある「花の茶屋」で味わったのは「冷やし飴」。
京都に来るまで知らなかった夏の飲み物である。生姜入りの水飴をお湯に溶かし、氷で冷やしたものといえばいいだろうか。三室戸寺門前の土産物のテントで「飴の素」というのを買ってきて楽しんでいる。宇治市にある「岩井製菓」製で、米飴・中双糖・土生姜が原材料だそうだ。ちなみに「花の茶屋」も、この岩井製菓さんが営業していたのだと、たった今HPを見て知った。

いよいよ七月、祇園祭のこの季節はとにかく蒸し暑い。
浴衣・・・いや、おじさんとしては、ステテコで冷やし飴を飲み、さらには梅肉和えのハモを肴に生ビールでもあおって、のらくらとやり過ごしたいものだ(^^;)

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2005.05.30

階級社会・京都

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 通り名の歌に歌われる地域を「聖域」と感じるわしには、手の届かない京都のモノが多々有る。そして日々、ひしひしと感じるのである。「この街に住む人間は、みんなあからさまに格付けがされていて、歴然たる階級社会に生きているなあ」と。
 写真は祇園のお茶屋である。まず、わしには生涯縁のない店だ。
「そんなことあらしまへんえ。一見さんお断り言うても、ちゃんと手順を踏んだら遊ぶことが出来ます。どうぞ気楽におこしやす」と、公式には言うてくれるであろう。
 大嘘である。社交辞令である。建前である。

 お茶屋遊びの平均的料金。
 三人で出かけ、舞妓さん一人、芸妓さん一人付いてもらって、懐石料理などを取り寄せ、飲み食いし、踊りなど見せてもらって午後6時か8時まで遊び、一人あたま、4万8千円。(参考・文春新書「京都 舞妓と芸妓の奥座敷」相原恭子著)・・・今は不況でだいぶ値が下がっただろうか?
 そのくらいなら払えるぞ、という人もおられるだろう。だが、一見さんお断りの壁を突破するのは並大抵ではない。名前を言えば誰も知っている大会社の社長でも、祇園のお茶屋には入れてもらえず、腹いせに宮川町で何億とばらまいた、という話がある。お店のほうが、客を選ぶのである。その基準は何一つ明らかにはされぬ。そして、花街にも格の差がある。
 そんなことは誰でも知っているので、京都では改めて話題にもならない、のだろうが。

 これもまた、名前を言えば、ある年齢以上の京都の人なら大概知っていた有名な飲食店。よくガイドブックにも載っていたのだが、いつからか店を閉めてしまい「幻の名店」となってしまった。その主人が最近漏らしたという閉店の理由。
「京都では、食い物屋は、どこまで行っても低くみられるねん。ある人にそう言われて、なんやもう、やる気がのうなっても