2005.02.12

小説「残光」あとがき

sankakusu
この小説はもとよりすべてフィクションであって、登場人物・団体などの名称は架空のものである。

最終回に添付する写真を撮りに、出町の三角州に行った日、前日からの雪がまだ京都には残っていた。雪景色の京都を舞台にするつもりはなくて、とまどっていたのだが、白く浮き上がる大文字の火床を見て、「これでいい」と思った。
雪を踏んで三角州の突端へ行こうとしていると、突然、二人の少女が立ちふさがった。
「○○小学校の生徒ですけど、アンケートに答えてもらえますか?」
校外学習でやってきているらしい二人は、それぞれに名前を名乗った。一人は明らかに外国人の子女でエキゾチックな容貌をイスラム風にスカーフで包んでいる。幾つかの簡単な質問。
「ここには良く来ますか?」「ここに来るとどんな気分になりますか?」etc
そして最後の質問「30年前と比べて、鴨川はきれいですか?」
僕は破願した。「30年前は知らないけど、20年前なら知っている」
そう言ったら不意に、胸が詰まったが、僕は笑って答えた。
「きれいになってるよ、たしかに、きれいになった・・・」

礼を言って少女たちは、三角州から対岸に続く飛び石を元気に跳ねていった。20年前にはなかった飛び石。
20年前には、あまり見ることもなかった組み合わせの少女たち。
そして、あの日、僕と肩を並べてこの川を見ていた親友の一人は、もう、この世にいない。

この小説は、その亡き友に捧げる、ささやかな供物として、書き始めたことを、ここに書き添えておく。

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2005.02.10

小説「残光」最終回

saishukai

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 健二は、彩夏と肩を並べて、流れる川を見つめた。
 やがて、彩夏はポケットに突っ込んでいた手を動かし、握り締めていたものを取り出す。
 茶色の小さなガラス瓶。
 健二も同じように、右手をポケットから出し、緑の小瓶をかざす。
 どちらからともなく頷いた二人は、小さく言葉を交わした。
「どっちの川を選ぶ?」
「じゃ、うちは賀茂川」「それじゃ、おれは、高野川」
 二人は左右に分かれて、彩夏は三角州の西側を流れる賀茂川に、健二は反対の高野川に歩み寄り、少しだけ流れを遡って、しゃがみこんだ。
 緑の小瓶の蓋をひねり、健二は中身を左の掌にあける。白い粒と細かな灰が掌からこぼれ、川面に散る。沈むことなく浮かんで流れていく、詩織とはるかの遺骨。
 茶色のガラス瓶から、さらさらした白い灰を右の掌に受けた彩夏は、そのまま手を水に漬けた。細く白い手から、雲のように水中に広がっていく、駿の遺灰。
 ひたむきに、壜の中身を掌にあけ、全部を流しきった健二は立ち上がり、流れを追った。彩夏もまた、必死の面持ちで雪のように流れていく灰を追いかけた。
 三角州の先端で、二人はからだをぶつけそうになり、とっさに健二はよろめいた彩夏を抱える。彩夏も健二の胴に、しっかりと腕を回しながら、視線は川面から離れない。
「あ・・・混じり合ってく・・・」
 本当に、そう見えたのだろうか・・・彩夏は泣き笑いの顔でそう呟いているが、健二には、上り行く朝日にきらめく水面で、二つの遺灰がどうなったのか、はっきりは見えなかった。けれども、滔々と流れる鴨川の瀬音と、遥かに続く水脈の豊かさを前に、こみ上げる思いがあった。

 やがて、静かに腕を離し、優しい笑顔で別れを告げる彩夏の顔・・・詩織そっくりだと思っていた彼女の顔は、健二の目にもう、そうは見えない。消えない痛みと、いとおしい思い出を刻んで成長した、他の誰でもない一人の女性の顔である。
 健二も大きく手を振り、雪を踏んで歩き出した。賀茂大橋の上を、雪を蹴散らして市バスが走っていく。
(パンを買って帰ろう、美咲と朝食を食べよう)空になった小瓶をポケットの中で転がしながら、健二はそう思った。最後に鴨川の流れに目をやると、ユリカモメの大群が舞い上がって、流れの果てを隠した。
                                                        (完)

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小説・「残光」第八十八回

yukinodaimonji

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 その朝、京都の街はうっすらと雪に覆われていた。
 (約束の日が来た)と、健二は胸の中で呟くと、まどろむ美咲を起こさないように、そっとワークブーツを履いた。
 その場所まで、かなりの距離があるが、歩いていくつもりだった。
 僅かの雪でも道は、まばゆく輝き、清浄な世界が現れたように感じる。つかの間の幻想に過ぎなくても、この朝はそうあってほしかった。
 約束したもう一人も、きっと、歩いて向かっていると、健二は確信していた。

 鴨川のほとりに出て、ひたすらにその左岸を北上する。右手に、白く火床を浮き上がらせた大文字が見えてくると、目的地は目の前にあった。
 今出川通りの賀茂大橋をくぐり、出町柳駅前で川端通に上がると、河合橋を西へ渡る。右手には下鴨神社の糺の森、そして、左に続く公園は、通称出町の三角州。
 高野川と賀茂川が賀茂大橋の直前で合流すると、鴨川となる。その流れをはるか南に望みながら、鋭く尖る三角の突端に、健二は歩いていった。まだ、誰も踏んでいない白い雪・・・しかし、ひとつだけ小さな足跡が続いていて、渚には、孤影がたたずんでいる。
「待ったか?」
健二が声を掛けると、人影は軽く肩をゆすって振り向き、明るく応えた。
「ううん、うちもさっき来たトコや」
コートの衿に埋まった少女の頬は赤く染まり、白い息を弾ませる。彩夏だった。
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☆思いのほか長く連載してきましたが、次回は最終回です。

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2005.02.04

小説・「残光」第八十七回

tadorituku

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  木枯らしの中、健二はコートのポケットに手を突っ込んで家路を急ぐ。やがて見えてきた家の明かりに、健二の顔がほころぶ。
「目立つなあ、タンタの影は」
 町家というには安っぽい造りの長屋の一軒。玄関の脇の小窓に、でかでかと映し出された猫の影が、みぎゃあ、と健二を迎えた。上りがまちにスーパーの買い物袋を置くと、足にまとわりつくオス猫・タンタを抱き上げて、健二は苦笑する。
「おまえもおれも、美咲に拾ってもらった同志だ、しゃんと頑張ろうぜ、愛想つかされないようにな」
部屋の奥から、美咲の声が呼ぶ。
「ねえ、はよ見て、こたつ、出したんよ」
 もうそんな季節になったかと、健二は感慨を覚える。

 駿の葬儀を終えた夜、健二は美咲の家に来た。
 朝まで、美咲を抱きしめていた。
 その日から、美咲の家が健二の住処になった。

 炬燵の上に乗せた携帯コンロで湯豆腐を食べながら、美咲は健二に葉書を差し出した。塩澤真那からの転居通知だった。
「そうか・・・引っ越すのか?」
 駿の遺骨を抱えて東京に戻った真那は、駿と暮らしたマンションを売って、郊外の小さな家を買ったと告げてきた。
「結局、彩夏と真那さん、二人で駿さんをみとらはったねえ・・・喧嘩もせんと、不思議に仲良う・・・」
「不思議、に見えたか?でもな、彩夏は、駿にとっちゃ、娘みたいなもんだったからな」
「そやろか?ほんまのとこは、本人たちにしかわからへんと思うよ」
そういって、少し寂しげに微笑した美咲は、違う話を思い出したらしく表情を改める。
「そういや、彩夏に昼間会うたとき、伝言頼まれてたんや」
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2005.02.03

小説・「残光」第八十六回

gannkeiji_003

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 車窓を流れていく景色を、駿はいとおしんで眺め、懐かしい場所に通りかかると必ず声を上げた。
「あそこの喫茶店、オープンカフェに改装したんだね!よく漫画読んで何時間もだべったんだ・・・」
「あの古本屋は・・・百円パーキングになってしまったのか」
「日仏会館!張り切ってフランス映画見に行ったけど、字幕がついてなくて全然筋がわからなかったよ」
 相槌を打つ竜生の頬に、涙が流れているのを、健二はバックミラーで見つける。
 熟睡している真那の肩を支えてやりながら、健二は精一杯明るく、乱暴に駿に応えた。
「なんだ、京都で暮らしてるのに、出歩きもせずにいたのか?今度、おれが引っ張りまわしてやるよ。うん、へたばるまで、懐かしい店を案内してやる!」
 楠本蝶類研究所の跡地に近づいたとき、駿は、変わらぬ朗らかな声で告げた。
「わるいな、竜生、あそこ行くの、次にとっておきたくなった・・・僕が退院して・・・・そうだよ、景子も真那もちゃんと起きているときに、みんなで、明るい日差しの下で、行きたい」
「そうだな!」「そやな!」
竜生と健二が同時に答え、車は夜の都大路を走りぬけた。

 二週間後、塩澤駿は、入院先の病院で死んだ。

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2005.02.02

小説・「残光」第八十五回

seibo

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 彩夏に肩を抱えられ、車に乗り込むとき、駿は一瞬、建物を振り返った。市街の明かりに照らされ、木立を背に浮かび上がる、幻影の楠本蝶類研究所、青春の碑を。
 竜生は、景子を支えて、助手席に乗せ、ハンドルを握る。シートベルトをすると、景子は幼子のように頭を竜生に寄せて、寝息を立て始めた。健二は、すでに眠りについた真那を抱きかかえて、二列目に乗った。最後尾の席で、駿が深い疲労の表情でシートにもたれている。、その肩に腕を回し、駿の頭を胸に抱く彩夏の顔が、健二の目には聖母のように見える。
 
 疾走する車の中で、語るのは健二と竜生だけだ。
「その子は・・・詩織じゃないんやな」
「ああ・・・駿は詩織の娘だと思った。でも、そうじゃなかった。それでも、駿にはかけがえのない子だ」
「そやけど、こうしてると、六人揃ってるみたいや」
「もう、決して揃うことはないんだ」
「駿は京都で、その子と生きていくんか・・・健二、じゃあ、お前は、真那と」
「いや、そうはならない。おれは、あの夏を終わらせることにしたんだ。おれは、おれの秋や冬を、生きていくよ」
「おれは・・・どないしたらええんかな・・・」
「竜生の人生を全うするしかないさ。その人生に、景子が必要だったら、手を離さずに、つかまえていればいい。でも・・・景子には竜生が必要のように、思えるがな」
 そのとき、駿が身じろぎし、起き上がって言った。
「竜生・・・頼みがある。ちょっとだけ寄り道してくれないか?」
「あかんよ、駿・・・熱があるみたいや」
気づかう彩夏に、駿は拝むように手を挙げ、続けた。
「そんなに回り道にはならないよ・・・竜生の大学の南キャンパスだ・・・楠本蝶類研究所の跡地を、見て行きたいんだよ」
 健二と竜生は息を飲み、頷いた。
「そうだ、あれきり・・・行ってないな、二十年の間、一度も」
「おれかて、そうや・・・」
 寄り添う三組の男女を乗せて、車は鴨川のほとりを下って行った。
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2005.02.01

小説・「残光」第八十四回

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「さあ、今なら・・・詩織に、言葉は届くさ」
 景子は、詩織に近づこうとしてふらつき、床に跪いた。見上げて、声を絞り出す。
「うちは、詩織が好きやった。なのに、あんなひどいことをした・・・ごめん!それが、言いたかったんや・・・ずうっと、言いたかったんや」
 少女が頷くのを見届けると、景子は床に倒れ臥した。
 竜生が景子の側にしゃがみ、やはり少女を見上げて呟く。
「信じて、くれるかな・・・おれも、あの夏と、みんなが、宝物やったんや。あの想い出を守ろう思うて、かえって、こんなメチャクチャをやらかしてもうた・・・。おれ、まちごうてたわ」
 竜生は鍵とジッポーを部屋の隅へ投げ捨てた。ゆっくりとそれに近づいて拾い上げ、ポケットにしまった健二は、緑の小瓶をかざした。
「ありがとう、詩織。お前が、みんなを、助けてくれたんだな・・・」
 そして、立ち尽くす少女に視線を移し、健二は、はっと顔色を変える。
「君が・・・ここへ来たのは!駿の病気が・・・」
 閃くように顔を向けた健二に、駿はさざなみのように微笑して、頷き、少女に言った。
「この前の検査の結果が、届いたんだね」
「うん・・・。GPSで駿の場所探して、ここに」
少女=彩夏は、震える声で言うと、駿に駆け寄り、手を握る。
「大丈夫や、きっと、きっと治る。いこ!今から、入院や」
 健二が彩夏に訊ねる。
「車はあるのか?美咲は?」
彩夏はかぶりを振る。
「タクシー拾って、この近くまで来て捨てたから」
 健二は、竜生に駆け寄り、引きずり起こす。
「竜生、すぐに車を出せ!駿を乗せて、病院にいく!」
戸惑った竜生は、説明を求めて駿を見る。駿は微笑を崩さず、告げた。
「僕は、治癒する可能性の低い病気に掛かっててさ。悪い兆候が出たらしい。でも、負けやしないよ」
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小説・「残光」第八十三回

ikari

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 竜生の背中に飛び掛り、床に薙ぎ倒し、ねじ伏せた健二は、しかし、相手がまるで抵抗しないのに気付いて不審な表情になる。
 倒れた竜生は目を一杯に見開き、恐怖の叫びを発した。
「嘘や・・・詩織が、死んだはずの詩織が、なんでここに!」
 景子が、よろめきながらテーブルを離れ、ドアに向かって歩み寄る。畏怖と同時に、歓喜の表情が景子の顔にあった。
「詩織!・・・会いたかった!うちを・・・許してとは言えへんけど・・・」
 真那が、朦朧とした表情で呟く。
「これは、きっと、夢なんだよね」
 戸口には、ハイティーンの少女が立っていた。長い髪を肩に垂らし、うす青いTシャツとスカートを着て、サンダル履きで、電灯に照らされるその顔は悲しみに満ちている。その唇が震えて、小さな声がつむぎだされる。
「あかんよ・・・だあれも、死んだらあかんよ・・・」
 その言葉に、駿が深く頷いた。倒れている竜生にかがみこみ、抱き起こし、その耳元に駿は呟く。
「もっと早く、僕たちは、会って話をしなくちゃいけなかったな・・・詩織のことも、景子のことも、相談しあえば、こんなことにならなかったんだ・・・でもね、遅すぎることはないんだ。まだ、なんとかなる!生きてさえいれば!」
 だんだんに力強く話し、駿は竜生を立たせた。振り向いて、健二に泣き笑いの顔を向ける。
「健二も、ひとりで突っ走りすぎだったよ。いつも、そうだったけどさ」
 健二は、詩織の面影を持つ少女を見つめながら、深く息をつき、テーブルの上の小瓶を握った。
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2005.01.30

小説・「残光」第八十二回

saigosinpan

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 異様な緊張が走り、健二が竜生に向かって足を踏み出す。竜生が激しく叫んだ。
「健二、動くんやないで!一階にな、仕掛けがしてあるんや。おれが、この部屋の鍵を掛けて、下へ降りたら、ガソリンのポリタンク、蹴倒して、このライターで火を点ける。よう乾燥しとるしな、火の手が回るんは、あっちゅう間や」
 竜生の手には、真鍮の鍵とジッポーが握られていた。景子が静かに言った。
「みんなを眠らせておいて・・・うちも一緒にして、全部焼いてしまうつもりやったん?一人だけ、逃げて・・・」
竜生は汗のしずくにまみれた顔を、横に振る。
「おれらが書き直した遺書を、健二や駿や真那がそのまんま、納得したら、おれもワイン飲んで、みんなで一晩過ごして、そのまんま、明日を迎えるつもりやった・・・けど、あかんかったな。景子・・・お前が、お芝居につきあいきれへんで、ほんまのことを、ばらしてしもうて、わやになってしもたら、全部終りにするつもりやった。そんときは、おれも一緒に火の中に消えよ、おもてた。」
 竜生は言葉を切り、微かに笑った。
「そやけど、それもあかんかったな・・・おれは景子のために全部やってきたのに、景子がほんまに好きやったんは、詩織やったなんて、もう、おれには何にもあらへん。死ぬ理由さえもあらへんわ!ほんま・・・二十年も、なにをあほなことやってきたんやろ!もう、ええわ、なんもかも!」
 竜生の全身が震え、一気に振り向いてドアに走った。健二がダッシュした。蒼白な顔で、駿が何かを叫ぼうとした。竜生の手がドアに掛かり、力いっぱい開く。健二は、間に合いそうもない。
 だがその瞬間、竜生が凍りついた。言葉にならない絶叫が竜生の口から噴き上がり、彼の身体はよろめいて後退し、部屋の中にあとじさってきた。
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2005.01.29

小説・「残光」第八十一回

kaitaigo

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 景子は、竜生の声を無視して、真那の肩を揺さぶる。
「辛かったんは真那かて一緒やろ!みんなが、真那が健二を好きやいう事、わかってた。けど健二は、真那とつきおうてるように見せながら、詩織とくっついてたんやで!そやのに、あのあとも、真那は健二のことずっと好きで、それを無理して忘れようおもうて、駿と結婚したんやんか!」
 竜生が茫然とドアにもたれて、呻いている。
「ほな・・・景子も、詩織のことを忘れようおもうて、おれと婚約、したんか?」
「そうじゃないわ・・・それは、違うよ、景子も、竜生も!」
真那が、力を振り絞って、悲痛に叫ぶ。
「ちごうてへんよ・・・」
真那の髪を撫でながら浮かべた景子の笑いが壮絶で、竜生も健二も金縛りにあったように動けない。
「うちとパパは、竜生を地獄に巻き込んだんや。京都の人間やのに、裏表のない竜生を、利用したんや。いくらうちらが悪党でも、少しは竜生に、ええ目見せたらな、可哀想やん・・・そうおもて、婚約した。けど、うちは、どんどん駄目になっていくばっかで、竜生も怯んだやろ。婚約破棄したんは・・・だから、お慈悲や。それがわかってたから、すぐに竜生も、今の奥さんもろうて、家庭を持って、京都から逃げたんやろ」
 景子の言葉に、竜生がヒステリックに笑い声を上げる。
「あはは・・・景子が言うてる通りや、いう気がする。けど、それが全部やあらへん!なにがほんまもんやったか、もう・・・わからんようになってしもた!もう、どうでもええわ!」
 竜生は仁王立ちになり、狂的に輝くまなざしで、部屋の中の全員を見据えた。
「あの夏の終り、蝶類研究所を、とうとう潰したあの日・・・おれはものすごく、寂しかった。ほんで、みんなを、このうえのう、いとおしく思うた。あの日に、帰りたいと何度思うたか・・・そやし、こうするしかないんや!」
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2005.01.23

小説・「残光」第八十回

moeruhana

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 景子がテーブルの端を掴んで、無理やり立ち上がる。目は怒りに吊り上がり、凄絶な表情である。
「こんなクスリ・・・うちにはよう効かへんわ・・・言うとかなあかんことがあるんや」
 必死に、健二を振り返る景子の瞳に、涙が溢れた。
「うちは、ナイフで詩織を刺した。それは、間違いのないことや。さっきの遺書には、パパを刺すつもりで、間違って詩織を傷つけたって、書いてあったけど・・・うちは、あんとき、パパなんてどうでもよかった!」
「景子、もうええ、やめえや」
竜生が口を挟むが、景子は聞く耳を持たない。
「うちは、みんなが好きやった。竜生も、健二も、駿も、真那も、詩織も、愛してた!六人で過ごす学生時代が、多分、一生の宝物になると思うて、大事にしてた。それが、あの瞬間に壊れた!うちは、悲しかったんや・・・あの時、うちは、詩織とパパに、メロンを出してあげよ、おもて、皮剥いてた・・・でも、話の中身を聞いてしもうて、夢中で二人のところへ走った。ナイフ持ったままやった・・・あん時うちは、詩織と心中、したかった!」
 涙を流しながら、天井を仰ぐ景子の顔は、凄艶に美しい。
「うちは・・・ずっと、恋したことない女の子やった・・・、別に恋愛なんか必要なかった・・・六人の仲間でいるのが何より楽しかった・・・でも、詩織には、なんか、特別な気持ちがあった・・・あんなん、生まれて初めてやった・・・綺麗な詩織と、時々、黙って見詰め合うことがあると・・・うちは、どきどきした。ふざけて、詩織の肩を抱いたりすると、胸が苦しくなった・・・でも、それだけで幸せやった・・・一生、そんな気持ちを持ちながら、詩織と友だちでいるつもりやったのに・・・」
 竜生すら、景子の言葉に愕然としている。だが、真那は、眠気と戦いながら頷いている。
「知ってたよ、景子。だから、景子は・・・辛かったんだね・・・」
「じゃあ・・・おれと婚約したんは、そんで、それを、破棄したんは・・・」
竜生の声がかぼそく、震えた。
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2005.01.21

小説・「残光」第七十九回

honoo

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「先生は、詩織とおれのくそ兄貴に、罪を全部押し付けて、あの場はほっとしてた。けど、それから、ちっとも研究に身が入らへんと、大学での出世も滞った。それを、あの横流し事件のせいや思うて、おれに当たりよる。かと思えば、詩織への罪悪感になやまはって、おれに泣き付く。景子かて似たようなもんやったやろ。フランスに留学に行ったものの、何にも成果はあらへん。遊びに逃避して、あげくに麻薬漬け。困ったときだけ、おれに電話して来よったな」
 景子が、歯を食いしばって呻き声を上げ、竜生を睨む。
「今になって・・・そないなこと、言うやなんて・・・あんたを、見損のうてたわ。」
「おれがどんだけ、破滅を食い止めようおもて、努力してたか、わかるんか?くそ兄貴の悪業をしょわされて、それでも何とか罪滅ぼししよ、おもて、おれは、先生を支え、景子を助けて、自分の家庭を放ってきたんやで。」
 健二が吐き捨てるように口を挟む。
「奇麗事を言うな。でっちあげた遺言書と同じような台詞になってきてるぞ。春川教授も、景子も、竜生も、みんなぐるになって、詩織を傷つけ、神戸に追いやった。震災の起きるあの場所へ行かせたんだ。おれから、ずっと隠し続けて・・・死ぬ前から、葬り去ってしまっていたんだ!」
 真那が、朦朧とした目を必死に見開きながら、叫ぶ。
「みんな、やめて!こんなこと・・・こんなの、詩織だって望んでいないよ!悲しんでるよ!」
 倒れそうな真那の肩を、駿が抱えて、竜生に向かって目を据える。
「そうだよ、竜生・・・いくら言葉を重ねてもね、態度が裏切ってるよ。ワインに睡眠薬入れたなんてね・・・まず、その理由を聞かせて欲しいよ」
 竜生は沈黙した。部屋のレトロな照明が、真夏の夜の熱い空気に点火しそうに赤い。
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2005.01.20

小説・「残光」第七十八回

rakujitu

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 竜生の顔は、泣き笑いの表情である。乾いた目が瞬きもせず、強い光を放っている。
「これやから、京都なんいう土地は、狭苦しくて、うっとおしい縁が絡みまくってて、かなわへんのや!会うたこともあらへん兄貴のけつを、おれがなんで拭かなあかん・・・そやのに、春川先生は、おれをさんざん、下僕みたいにあつこうた挙句、景子と結婚させてくれへんかった!」
 景子が立ち上がろうとしてよろめく。テーブルに手を突いた拍子に、ワイングラスが倒れて砕ける。
「・・・景子?」
支えようとした真那の顔が歪む。激しく瞬きをし、自分の目をこする。
「どうしたんだろ、なんだか、とても・・・眠い・・・」
 景子と真那は、肩を抱き合うようにして、お互いを支えあう。駿がその様子を見て、鋭く竜生に叫ぶ。
「竜生、お前、ワインに、睡眠薬、入れてたのか!」
 健二は深くため息をつき、竜生に一歩、歩み寄る。
「やっぱりな・・・。何のつもりなんだ?」
「わかるやろ・・・おれらのことを、犬みたいにかぎまわったんやろ?」
開き直って笑う竜生に、眉をひそめ、健二は沈痛に言う。
「メフィストフェレスのことを、お前があの頃は知らなかった・・・というのは、本当みたいだな。だがな、春川先生に知らされてから、お前は、なにをした?それからも、お前は春川先生の下僕だったんじゃないか!」
 竜生は鼻で笑い、言葉を続ける。
「ああ・・・おれは、大学から追い出されたら行くトコなかったしな。先生に言われて、詩織の様子を見に行ったりしたで。先生は、はるかが自分の娘やと思いたがってたしな・・・。それに、景子のことを放ってはおけへんかった・・・どんな気持ちで、おれが、春川先生と景子に尽くしてきたか、わからへんやろ・・・沈んでいく夕日を、止める方法もなく見守ってるような、気分やったな・・・」
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2005.01.18

小説・「残光」第七十七回

ranun

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 竜生が立ち上がり、部屋のドアの前まで歩いて、こちらに向き直る。無表情だった景子が顔色を変えて、健二に叫んだ。
「あほなこと言わんといて! あの男は、名字かて竜生と違うたし、年かて、二十くらいも上やったで!兄弟やなんて、嘘や!」
 健二は、景子と竜生を交互に見ながら、上着のポケットから分厚い書類の束を抜き出し、テーブルに投げる。
「DNA鑑定書と、竜生の身辺調査報告書だよ。詩織がいなくなってすぐに、こういうことをやってなきゃいけなかったんだ、俺は。なんて馬鹿だったのかな」
 駿が書類を拾い上げ、ページをめくる。素早く書面に目を走らせ、愕然とした表情になる。景子は座ったまま、テーブルを拳で叩いた。
「竜生、うちにも、隠してたんか!なんで、なんでやの?!」
 ドアに寄りかかり、天井を仰いでいた竜生が、ゆっくりと視線をおろし、景子に微笑した。
「マジで、好きやったからや・・・景子を」
 明らかに変化した竜生の口調に、部屋は静まり返る。
「しょうもない親父やってん・・・おれの父親はなあ・・・西陣の帯問屋の三代目、遊び倒して店潰しよってん。そうや、メフィストフェレスは、おれの腹違いの兄貴や、十八も年上や。上七軒の芸妓に、まだ二十歳くらいの親父が産ませたんや」
竜生は、拳を握り締め、仁王立ちになって叫んだ。
「おれ、知らへんかってん!なんにも、知らへんかったんや!あの兄貴には、会った事もなかったんや!おれは、ただの学生で、春川先生を尊敬してた。健二が、何にも知らんと、詩織を好きになったみたいに、おれは、景子を好きになったんや!」
竜生は口から唾を飛ばし、目を据えて咆える。
「詩織のことかて、健二と同じで裏の事情なんて、全然知らずにいたんや。ずっと、春川先生の下で院生やって、景子とつきおうて、婚約した。けど、先生は、結婚を許してくれへんかった。おれは、土下座して結婚させてくださいて、頼んだのやで!」
嵐のように喚いていた竜生の顔が歪み、唇を噛む。
「そのとき、春川先生が、冷たく言うたんや。『汚らわしいメフィストフェレスの弟と、縁を結びたない』ってな」
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2005.01.12

小説・「残光」第七十六回

dna

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 テーブルの上に置かれたのは、小さな薄緑色の壜である。健二はその蓋を開けた。中には白い粒状の物が半分ほど詰まっていた。
「俺は神戸に行ったよ、真夜中にな。詩織の墓をこじあけて、骨を取り出した」
 真那が小さく悲鳴を上げ、腰を浮かせた。全員の目が、壜に張り付いている。
「詩織と、娘のはるかは、焼け跡で見つかったって、その文にも書いてあったな。多分抱き合っていたんだろう。そして、焼けて・・・骨は砕けて混じり合って・・・しかも、完全には焼けていなかった。そうさ、墓の中にあったのは骨壷じゃなかった。棺さ。焼け死んだ二人をもう一度焼きなおすのはむごいと・・・葬儀をした近所の人・・・近所の人たちだったんだぞ!」
健二は絶句し、壜を握り締める。
「その親切な人たちは思ったんだ。だから、そのままに、混じり合った骨を棺に納めて、葬ったんだ。俺は、その一部を取り出して・・・DNA鑑定をしてもらった!」
 畏怖の表情で真那は凍りつき、駿も目を見張って脂汗を額に浮かべている。景子はまったくの無表情になり、そして竜生は、唇を引き結んで健二を睨みつけている。
「完全に焼けていない骨だったから、結果は明瞭に出た。その骨の中から、二人のDNAが見つかって、一人は」
努めて冷静に喋ろうとしていた健二だが、激情で声が詰まった。
「一人は・・・俺と98,7パーセントの確率で親子関係だ!」
 駿が、唾を飲み込む音が大きく響き、真那の目から、涙が流れ落ちた。
「この骨は・・・詩織と、俺の娘の骨なんだ!一度も会えなかった、俺の娘の」
 壜を突きつけられた竜生は、歯を食いしばりながら、反論する。
「健二のことだから、そのDNA鑑定とやらは確かなところでしてもろたんやろな。ほんま、気の毒や。けどな・・・それと、春川先生の遺書がでっちあげやいうことが、どう関係するんや?」
 健二は壮絶に笑った。
「とぼけるなよ、竜生・・・全部、メフィストフェレスを黒幕だったことにして、自分は春川教授の遺産を手に入れる。見え透いた筋書きじゃないか。」
健二の表情が怒りに燃える。
「なにが、メフィストフェレスだ!そいつは、お前の兄貴じゃないか!竜生、ええ、ばれないと思っていたのか!おまえはメフィストフェレスの弟なんだよ!」

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2005.01.11

小説・「残光」第七十五回

mefist

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 沈黙が部屋を支配していた。どこからか舞い込んだ蛾が、電球の周囲を飛び回り、小さな身体に不似合いな巨大な影を部屋中に撒き散らす。やがて蛾が荒壁に止まったとき、低い笑い声が湧いた。
「・・・奇麗事に、書き直したな、まったく、下手な作文を!」
笑いながら、吐き捨てるように言ったのは、健二だ。
 竜生が胸を反らし、細めた目で健二を見下すようにする。
「書き直した?作文?なにを根拠に、そないなこと・・・」
 健二はゆっくり立ち上がり、壁に片手を突いて寄りかかると、深く嘆息する。
「景子と竜生だけさ、春川教授の文章を読んだり、書いた文字を見たことがあるやつは・・・。二人ででっち上げればなんとでも書ける。そうする時間も十分あっただろうさ」
「健二・・・そんな・・・」
真那が、遺書をテーブルに落とし、悲痛に顔を歪める。駿も蒼白になっている。だが、景子は変わらず平然とした表情で、竜生もまた、傲然としていた。
「健二、おまえ、なんでそんなにひねくれてもうたんや。俺ら、友だちやろ。黄金の六人やったやんか」
竜生の言葉に、健二は壁に拳を叩きつけ、咆えた。
「ああ!黄金だと信じていたさ!けど、メッキだったんだ!俺は、そいつを剥がしちまったんだよ!」
 振動した壁から、蛾が再び飛び立ち、狂ったように舞う。健二はポケットから何かを取り出し、テーブルに音高く置いた。
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2004.12.27

小説・「残光」第七十四回

akaihi

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 真那の朗読が途切れ、彼女を含めて全員が、景子に視線を向けた。景子は静かな表情をしていた。
「続けて、真那。最後までパパの遺書を、読んで。それから、言うべきこと言うし」
 健二が口を挟む。
「景子が、この前の宵山に俺に言った事と、遺書の内容に違いが出てきたぞ。どっちが、ほんとうなんだ、景子?」
「だからそれ、あとで言うし、今は待ってや」
あくまで平然としている景子に促され、真那は再び、遺書に向かう。

「詩織は産んだ子に、はるか、と名づけた。私は、その成長した姿を観る事が出来なかった。一九九五年一月十七日、詩織とはるかは大震災の犠牲者となった。倒壊した家の下敷きとなり、そして火災によって焼かれて、遺骨となって発見されたそうだ。
はるかが、私の子であったかどうか、確かめることのないままに、彼女たちは短い生を終えてしまった。二人に、そんな人生を強いた責任の大部分は、私にある。
その罪の報いというべきだろうか・・・フランスやイタリアで暮らし続ける景子の生活が無軌道になっていったのは。詩織のことを、景子とまともに語り合ったことはない。お互いに避けてきた。あまりに衝撃が強かったからか、景子は私に切りかかったことを覚えていないようだ。だが、深層の記憶に、詩織を刺したことが刻まれていて、景子を苦悩させているようだと、やがて私は気付いた。
景子は薬物に溺れて、どうにもならなくなっている。
私が出来ることは、詩織とはるかに対する、我が罪を認めてひれ伏し、景子の更生のために、君たちに力を貸して欲しいと、希うことしかない。
とりわけて、柳田君。
君には、取り返しの付かないことをしたと思う。君が若者らしい純な愛情を詩織に注いだことは、知っていた。詩織もまた、君を愛していた。言葉少ない彼女だったが、君と過ごす時間こそ、彼女にとって何ものにも代えることの出来ない、青春、だったと思う。
そんな君たちを、無残に引き裂いたのは私だ。傷ついた詩織を、君から引き離し、神戸に送った。実行したのはメフィストフェレスたちであり、彼等の提言に、私が頷いた形だったが、まぎれもなくそれが、私の保身のための悪行だったのは、言い逃れできない。

これがすべての真相である。
重ねて言う。私の罪は許されることはないだろう。
だが、伏して乞いねがう。景子を救ってくれたまえ。
そのために、私の遺産はすべて使ってくれてかまわない。
既に、溝口君に、財産譲渡の手続きを済ませている。
汚れた私の財産だが、それをもってしか、誠意を表すすべを知らないのである。」

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2004.12.26

小説・「残光」第七十三回

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 真那は、駿に見向きもせず、執り憑かれたように読み続ける。
「事は、汚れた思惑の通りに進んだ。純朴だった学生の君たちは、詩織の身分詐称の衝撃から、たやすく彼女の犯行を認めていった。その間、詩織には、代償として私もメフィストフェレスも様々な甘言を囁いた。
 だが、予想外のことに、彼女はそれに従わなかったのだ。
 あの、祇園祭の宵山に、詩織は私の家にやってきた。アルバイト仲間に真実を告げると言った。私は驚愕し、彼女を責め、脅し、ついに懇願した。そんなことをしたら、私は破滅し、留学の決まった景子の将来も暗黒になると。
 そのときだ、景子が果物ナイフを手に、突然部屋に入ってきたのは。
 話の断片を立ち聞きし、景子は錯乱していた。

 景子は、怒りのあまり、私を刺そうとしたのだ。
 
 混乱の中で、そのナイフが、詩織の浴衣の背中に突き立った。
 私は、救急車を呼ばなかった。応急処置をして、幼馴染の経営する個人病院に、詩織を運んだのだ。
 詩織は重症だったが、命はとりとめ、二ヵ月後には退院した。
 だが・・・病院で、彼女が妊娠していることがわかった。
 その子供の父親の名前を、詩織はついに、言わなかった。
 私は、せめてもの責任を果たそうと、彼女の言うがまま、神戸に彼女の家を借り、住まわせた。
 傷が癒え、やがて翌年、詩織は女の子を産んだ。
 そして、彼女は私の送金を拒んだ。一人で、子供を育て、生活していった。
 私は・・・以来、なにもしなかった。
 メフィストフェレスは、詩織のことを知っているようだったが、やはり何も言わず、やがて彼との交際も立ち消えた。
 消せない傷だけが、詩織と、私と、景子に残った」

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2004.12.18

小説・「残光」第七十二回

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「一体どこから話を聞きつけたのか、メフィストフェレスが私に、悪魔の取引を持ちかけてきた。解体作業の一切を、ある業者に落札させること、そして、研究所の所蔵物のうち、金目のものの横流しをさせよと。それと引き換えに、『S』の付けを帳消しにすると。断れば、未成年である詩織とのことを、スキャンダルとして大学に通報すると脅したのだ。
私は、巨大な蜘蛛の巣に絡み獲られた哀れな獲物に過ぎなかった。メフィストフェレスの言いなりに、あの研究所の貴重なコレクションを隠蔽し、ブラックマーケットに売ったのは私だ。」
 真那が震える声でそこまで読んだとき、景子が首をかしげて尋ねた。
「その、メフィスト、とかいうの、どんな意味やったやろ?」
健二が腕を組み、視線をテーブルに落としたまま、答えた。
「ゲーテの書いた『ファウスト』って小説、知ってるだろ?主人公ファウスト博士が快楽を求めて魂を売った悪魔の名前さ。博士の悪行の手引きもした」
「ああ、なんとのう、思い出したわ。パパをよう連れまわしてたあん人が、たぶん、そやったんやな」
 景子は微笑し、真那のグラスの隣にあった、自分のワインに口を付ける。そのしぐさを見つめる竜生の表情が異様に強張っている。
 真那は息をつき、再び朗読を始めた。
「私の大学とあまり関係のないところから、実務のアルバイトを採用したのは、横流しをやりやすくするためだった。そして景子や君たちが集まった。その中に、詩織を見つけたとき、私は息も詰まるくらいに驚いた。『S』やメフィストフェレスの差し金だと思った。
 だが、違っていたのだ。詩織は何も知らず、自らの意思であのアルバイトに参加したのだ。彼女もまた、私を見て驚愕した。私がそのことをメフィストフェレスに告げると、あの男は詩織を利用する方策を考え付いた。
 そうだ。私は、あの男にそそのかされ、詩織を生贄にした。すべての罪を彼女にかぶせて、スケープゴートにしたてたのだ。」
 駿が椅子を鳴らして立ち上がり、窓から外を見て、呻くように言った。
「なんてことだ!初めから、そのために、僕たちは、あの夏を過ごしたのか・・・」
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2004.12.17

小説・「残光」第七十一回

genei

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「私が詩織と出会ったのは、今はない会員制クラブだった。お茶屋などに代表される、花街の表からかけ離れた、夜の底とも言うべき、暗い裏の世界。店の名は『S』としておこう。清楚な装いをした魔窟とでも言えばよかっただろうか。そこにいたホステスたちはあまりに若く、稚く、純潔であり、そして、店は背徳に染まっていた。客は飲んで騒いだ果てに、ゲームで彼女たちの『水揚げ』権を競うのだった。今にして思えば、私があの店に連れて行かれたときのゲームは、仕組まれた罠で、まだ悪に染まっていない私と、処女だった詩織を、もろともに地獄に引きずり込むための出来レースだったのである。
 小心な私は、逃げようと思った。だが、私をあの店に連れて行ったメフィストフェレスとも言うべき、あの男はそれを許さず、私は、詩織とホテルに行ったのである。」
 真那は、脂汗を浮かべ、絶句した。テーブルに置いたワイングラスをつかんで一口のどに流し込んだ。そして、歯を食いしばると、遺書の続きに戻る。
「詩織は寡黙な少女で、ほとんど会話を交わさなかった。私は、酔った挙句の一夜の夢にしたつもりだった。メフィストフェレスはその後も私に付きまとい、私も夜の遊びを続けたが、もう『S』へは行くまいと思った。けれど、月に一度は、顔を出すのが『水揚げ』をした者のルールだと言うのである。私はそのたびに詩織と会い、店の者からは彼女の『旦那』と呼ばれた。詩織との逢瀬に、ときめきがなかったといえば嘘になる。だが、『S』からの請求書は次第に過大な額になり、私は奈落に堕ちていく気分になった。そんなときだ、楠本蝶類研究所の解体が決定し、私がその責任者になったのは」

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2004.12.08

小説「残光」第七十回

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 封書から引き出された紙は、鳩居堂製の和紙の便箋であった。分厚い束を手に取り、真那は緊張のまなざしで唾を飲み込む。やがて、意を決して朗読を始めた。
「この文章が、君たちの目に触れるとき、私は幽明境を異にしている。このような卑怯な形でしか真実を告げられなかった私を、許してくれたまえ。
 すべてを冥界に持っていこうと考えたこともあった。しかし、景子が苦しみ、今のような事態に至ったことは、すべて私の因果の報いだろうか。私が真実を伝えれば、景子を闇から引き出してやれるかもしれない。
 そして、とりわけ、柳田君には、取り返しの付かないことをしてしまった。その責任を取らないままに、私は逝く。せめて、謝罪の言葉を伝えたい。」
 それが、前置きだったらしく、真那はいったん言葉を切り、目を上げて景子と健二を見つめた。景子が凛と胸を張り、促す。
「続けて読んでよ、真那」
「・・・あの夏の日、君たちが楠本蝶類研究所に集まった。私は景子と溝口君を除いて、初対面のように接した。けれど、詩織とは、その一年ほど前に出会っていたのだ。私は、あの頃、教授に昇進して、意気軒昂としていた。交際範囲が劇的に広がり、憧れていた祇園の花街にも踏み入れることが出来るようになった。君たちにとって青春であったあの頃、私もまた、遅すぎる青春を味わっていたのかもしれない。
しかし、私の踏み入れた道は汚れ、まがまがしいものであった。向日葵の咲く研究所で笑う君たちが、どんなにかまぶしく見えたことか。そして、その輪に必死に溶け込もうとする詩織の痛ましさに、私はおのれの罪を意識したのだった・・・」
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2004.12.05

小説「残光」第六十九回

yoruhiei.JPG

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 健二は、景子の瞳を見据えながら、持っていたグラスをゆっくりテーブルに置く。
「無粋は承知で言うんだが、酒を飲む前に、やるべきことをやって欲しいんだよ、竜生」
 ワインに口を付けかけていた竜生は唇を曲げて健二を見る。
「なんで、そないに、急(せ)くねん?」
「うちの用意したお酒やから、信用でけへん、いうわけ?」
景子の顔に、興奮した色が現れ、その眼光は健二を貫かんばかりだ。
 健二は、深く息をつき、首を横に振る。
「いや、景子がせっかくフランスから持ってきた、いい酒なんだろ?気持ちよく飲みたいんだ。俺はまだ、春川先生にも、詩織にも、心の底から鎮魂の挨拶が出来ない。本当のことを知ってから、杯を捧げたいんだよ」
 竜生は、頷いてグラスをテーブルに戻した。
「健二の言うことはもっともや。ほな、春川先生の遺書を、公表するで。みんな、座ってくれや」

 窓はすべて開け放たれていて、かなり涼やかな風が入ってくる。エアコンはなく、天井でゆるやかに大きな扇風機が回っている。そのモーターの微かな音が聞こえるほど、室内は静まり返っていた。
 景子の隣に竜生が座して、提げてきた革の鞄から、封書を取り出す。竜生の反対側に真那が、竜生に並んで駿が座り、景子の正面に健二がいる。
 遺書に蝋で封印がしてあるのを、竜生は示した。真鍮のペーパーナイフを使って封筒を開いた。
「さて、どないしよ。回し読み、いうのも、かったるいしな」
竜生が呟くと、景子がきっぱりと言った。
「真那、あんたが読んでくれへん?学生の頃、サークルで子供に絵本の読み聞かせ、やってたやん」
真那は少したじろいだが、健二が強く頷いたのを見て、遺書を手に取った。
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2004.12.02

小説「残光」第六十八回

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 竜生も、先の二人も二階に行ったようである。オレンジ色の電燈の光の下、健二はきしむ階段を登り始めた。ワックスと朽ちた木の混じったような、それでいて不快ではない懐かしい匂いが身体を包んで、健二は眩暈を覚える。
 女性の声が二階の部屋から漏れてきた。
「・・・じゃあ、もう身体の方は、大丈夫なのね」
「心配掛けてごめんなあ。真那は、ちょっとも、あの頃と変わらへんねえ、うらやましいわ、ほんまに」
 健二の脳裏に、二十年前の光景がフラッシュバックした。暑く埃っぽい部屋の中で、生き生きと会話する真那と景子。古い木の建物の中で、交わしていた若い声が耳にかぶさってきて、思わず健二は階段を一気に駆け上がっていた。
 真鍮のドアノブに手を伸ばして、引き開ける。室内はやはり、オレンジ色の光に満たされていて、楕円形の木のテーブルには、ワイングラスが並んで光っていた。テーブルの周りには背もたれの付いた椅子が囲み、その一つに、黒く長いスカートの裾を曳いて、景子が座っている。彼女の肩に手を回し、頬をすり寄せんばかりにしているのは真那だ。
「これで、みんな、揃うたね」
健二の顔を見た景子は、テーブルの中央に置いてあった赤ワインのボトルを掴んだ。そして重いビンをしっかりと持って、赤い酒をグラスに注いでいく。ワイングラスは六個あり、そのすべてに、景子は酒を満たした。白い手はいささかも震えなかった。
「亡き人のために・・・」
静かにそう言って、景子の横に立つ竜生がグラスを掲げると、景子が腰掛けたままそれに合わせてグラスを高く差し上げる。駿と景子も、グラスを手にして立っている。
 最後にグラスをとった健二は、残った六個目のグラスに目を落としながら言った。
「亡き人・・・景子のお父さん、そして、詩織のために!」
きっぱりとそう、口にして、健二は景子に視線を向ける。
 景子の顔は、やつれて細くなっていたが、美しさを取り戻していた。黒目勝ちの大きな瞳は、強い光を湛えて魅力的な輝きを放っていた。
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2004.11.25

小説「残光」第六十七回

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 微かな残光を浴びて、山塊の前に浮かび上がるのは、板を外壁に張った、古い小学校の校舎に似たシルエット。健二と駿、真那は、言葉もなく立ちすくむ。あの夏、六人で過ごし、夏の終わりと共に潰え去った、忘れることの出来ないかたちが、突如眼前に蘇ったのである。
「ふふ、驚いたやろ。これ、あの研究所とほぼ同時期に建てられたんやそうな。多分、設計・施工した業者は一緒やと思う。双子の建物の生き残り、言うところやろな」
いたずらっぽく笑う竜生の言葉に、興奮した駿の声が重なる。
「すごい!よく、よく残ってたね。よく見つけたね!ああ、窓の形も、玄関も、まるで同じだ。幻を見ているようだよ」
 我を忘れ、駿は建物の玄関に駆け寄っていく。戸惑い気味に、真那が続いた。扉のガラスに滲むオレンジ色の灯に吸い寄せられるように、駿は迷うことなくその光の中に踏み込んでいった。
「これは、何のつもりなんだ?」
 真那のスーツケースを下げて歩いていく竜生の背中に、健二は鋭く問いかける。振り向いた竜生の顔は逆光で表情が読めない。
「とにかく、入れや、健二。ゆっくり喋ろうや」
竜生は少し笑ったようだったが、そのまま建物に踏み込んでいく。舌打ちして、健二は三人の後を追って、低い石垣に刻まれている石段を駆け上がった。
(そっくりだ、気味が悪いくらい、同じだ)
 うそ寒い感覚を覚えた健二だが、扉の形、玄関から階段に続く石造りの床、漆喰塗りの内壁と黒ずんだ腰板などに目を移していくに連れ、圧倒的な郷愁が沸き起こってくるのを押さえ切れなかった。
(あの、磨り減った階段の手すりにもたれて、詩織がこっちに笑いかけて来そうだ)
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2004.11.24

小説「残光」第六十六回

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 やがて車は、東鞍馬口通りとの交差点に差し掛かり、瓜生山の斜面に建つ京都造形芸術大学の、神殿のような校舎の下を過ぎる。
「ここも、変わったなあ・・・」
駿が、見上げながら嘆息する。すると、車は右にウインカーを出し、細い道を山に向かって登り始める。
「なに?そろそろ着くの?」
揺れる車内で、真那がやや顔をこわばらせて竜生に訊く。
「ああ、一応、山荘なんや。趣味でこさえたやつやねん。こういうときに使わな、思うて。掃除しといたさかい」
 街灯もない坂道はすっかり闇に閉ざされ、つい今までの白川通りの賑わいが嘘のようだ。四輪駆動の力強さで車はやすやすと走っていくが、道は狭くなる一方である。側溝の上にかぶせた鉄板がガタガタと鳴る。道端に伸びた木の枝や笹が、車の窓を擦る。
 強引だが自信に満ちた運転で、車は曲がりくねった坂を登りきった。眼下に京都の夜景を見下ろす、比叡山に続く山肌の中腹である。砂利を踏みしだいてオフロード車は停止した。窓から見える景色に真那が嘆声を漏らす。
「すごい、こんなとこに、学生時代に来たかったな!」
 健二は、夜景と反対側を見て、愕然としていた。そこには、木造二階の小さな建物があり、ガラス窓から灯りが漏れている。そのたたずまいは・・・
「おい、これは・・・なんだ?あの、楠本蝶類研究所、そのまんまじゃないか!」
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2004.11.22

小説「残光」第六十五回

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 残光はひと時もとどまることなく変化していく。雲は流れ、光は薄れ、輝きははかない。
 竜生の運転するオフロード車は、神宮道を北上し、疏水を渡って平安神宮をかすめ、丸太町通りに出ると、右折して天王町に向かい、その角からまた北へ折れて、白川通りを疾走する。
「どこまで行くの?」
昔話に和んでいた真那が、ふと真顔に戻って訊ねた。
「すぐそこや。それにしても、みんなでこうやって喋ると、ほんま、あの頃に戻ったみたいな気分や。真那もちっとも変わってへんなあ」
竜生の嘆声に、真那はまた顔をほころばせる。
「あのスキーのとき、板持って行ったの、景子だけだったでしょ。ウェアも、彼女は新品、私は友達に借りたのよ。ずっと景子はお嬢様だったのよね」
駿も笑う。
「まだバブル景気の前だったからね。だから、あんなアルバイトに僕ら、とびついたんだ。3Kなんてものじゃない労働だった」
 景子の名前が出たとき、竜生の表情が僅かに動いたように、健二は感じた。
「ずっと、気になってたんだけど、景子の具合はどうなんだ?」
健二の問いかけに、竜生は間髪をいれずに答える。
「ずいぶん良うなったで。けど、大勢の人前に出れるにはしばらくかかるやろな。でも、大丈夫や」
 真那が遠慮がちに、竜生に聞く。
「景子は・・・もう、クスリに頼らずにやっていけそうなの?」
「当たり前や、あの景子やで。俺らの誰より強かったあいつや。ほら、明石の海に泳ぎに行って、鮨に全員あたったことがあったやんか」
「あったあった!みんなひどい目にあったのに、景子だけぴんぴんしてたね。鋼鉄の胃腸だって呆れたんだよ」
はしゃぐ駿から、顔をそむけて、健二は消えていく残光を追っている。
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小説「残光」第六十四回

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 電話を掛けてきたのは竜生である。
「今、春川先生の家や。ご親戚はついさっき、帰らはった。健二たちは、どこや?」
 健二がホテルの名前を告げると、竜生は少し沈黙したが、すぐに指示する。
「ほな、俺の車で迎えに行くさかい、あと十五分したら玄関に出てくれるか?」
「わかった。で、どこで話をするんだ?春川先生のところか?」
「いや、ちょっと別に場所をとったんや。なに、時間はかからへん。けど、真那には、そこチェックアウトしてもろうたほうがええな」
「え?どういうことだ?泊りがけで喋るってことか?」
「みんなが集まったんは、随分久しぶりや。ゆっくりしよやないか。」

 残光に照らされる玄関に、オフロード車の無骨な車体が横付けになる。身軽に運転席から降りてきた竜生は、真那のスーツケースを荷室に手早く積み込んだ。
「今は、こんな車に乗ってるんだね。あの頃は、竜生の親父さんのセドリックをこっそり借りて、みんなで琵琶湖やら舞鶴やら、ドライブに行ったっけ」
 二列目の座席に収まった駿が、八人乗りのゆったりした車内を見回しながら嬉しそうに言う。
「一編だけやけど、スキーにも行ったで。誰も滑り方知らんと、最高のドタバタ道中やったなあ」
竜生も朗らかに白い歯を見せて笑う。助手席に座った真那も、懐かしそうに微笑んだ。
「ナイターで滑った帰り道に、健二が迷子になって、ホテルに帰ってこなかったわね」
「大騒ぎして、みんなで探しにでようとしたら、健二、雪まみれになって裏庭からスキー履いて食堂に突っ込んできたんだよ」
駿が、腹を抱えて、横に座る健二を指差す。
「笑うな。そのあと、飲めない酒飲んで、風呂場でひっくりかえってたのは駿だぜ」
仏頂面で健二が言葉を返すと、車内はさらに笑い声で満ちた。 
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2004.11.19

小説「残光」第六十三回

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 夕雲を染める残光が、何かを予兆するかのように壮烈である。
「すごい夕焼けだな・・・」
ガラス越しに眺めながら、健二が呟くと、駿と真那も視線を空に上げた。
 数週間前、美咲が仕事で寄っていた東山のホテルである。景子が定宿にしていたここに、今は真那が部屋を取っているのだ。ノースリーブの白いワンピースに着替えてきた真那と、そのままホテルのレストランで夕食を摂っている。駿も真那もあまり食欲はない様子だが、健二は健啖にステーキを食べ、珈琲をお代わりした。
「春川先生の遺書って、なんだかそんなの聞かされるの、気が重いわ」
 ピラフの皿にほとんど手をつけず、真那が口を尖らせる。アイスティーばかり飲みながら、駿も頷いた。
「僕が教えたとおり、神戸に詩織の墓はちゃんとあったんだろ?確認してきたそうじゃないか」
「ああ」
「だったら、別に何もショッキングな内容じゃないよ。大体はもう、予想がつくさ」
「どんな中身だと、駿は思うんだ?」
残光から目を離さすに、健二は問いかける。
「蝶類研究所コレクションの横流しのことだと思うよ。あれは、自分に罪があった、許して欲しい、そんなことが書いてあるんだと思う」
 その時、健二の携帯電話が鳴った。パッヘルベルのカノンは、凄絶な残照のなか、弔鍾のように聞こえる、と健二は思った。
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2004.11.16

小説「残光」第六十二回

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 春川教授が臨終を迎えたのは、お盆の少し前だった。
 教授の夫人は数年前に逝き、一人娘の景子は「入院中」。日ごろはほとんど縁遠いらしい親族が少数集まって看取るなか、葬儀の手筈などを中心になって進めているのは竜生である。
 健二と駿は、廊下に出て、窓の外を眺めた。無残なくらい古ぼけた旧病棟と、新築されたばかりの病棟との間に、焼却炉らしい巨大な煙突が立ち、気のめいるだけの風景だ。
「真那に連絡したか?」
健二が訊ねると、駿はかぶりを振る。
「君がしたほうがいいよ」
 顔をしかめ、健二は公衆電話に歩いていく。ふと振り返って駿に言う。
「真那とは、きちんと話した方がいいぞ。おまえが、病気とまともに向かい合うつもりならな」
駿は口をつぐんだままだが、かすかに、頷いたようだった。

 その晩の通夜、翌日の葬儀ともに、街中の葬儀会社の建物で行われて、形どおりに進行した。大学関係者、教え子たちもかなり参列したが、式が済むと未練もなく人々は散った。
 遺骨を教授の自宅に運ぼうとしている竜生に、健二は歩み寄る。
「さあ、教授の遺言の公表は、どこでするんだ?俺たちも教授の家に行けばいいのか?」
「ご親族がまだいはるさかい、そないなこと、大声で言うたらあかんがな」
叱責する竜生は、しかしすぐに小声で伝える。
「後始末が終わったら、連絡するし、携帯の通じるトコにいてくれや。今、午後四時やし・・・六時には電話する」
 黒塗りのハイヤーに乗って去った竜生を見送ると、健二は駿と真那を振り返る。着替えて軽く食事しながら連絡を待とうと相談が決まった。
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2004.11.13

小説「残光」第六十一回

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 祇園を流れる白川には、緑の柳が枝を垂れ、水底には小魚が群れて、暑熱の中も涼やかである。
 巽橋の欄干に寄りかかり、健二はしばし、憩った。いつも、時が止まっているように感じられるこの界隈・・・お茶屋遊びなどには縁のなかった健二にも、仲間と飲み歩いたり、そして、詩織と寄り添って散策したりした想い出が蘇る。
 これまでは、できるだけ、振り返らないようにしていた、と健二は思う。ことさらに、目の前の些細な事にだけ集中して、あの頃のこと、詩織のことを、まともに思い出さないようにしていた、と。
 今は、甘美な記憶でなく、非情な真実をあばくため、健二は突き進んでいる。
(けど、苦しいな。・・・美咲の声が、聞きたくなる)
 何度か、携帯電話を取り出し、掌でもてあそびながら、健二はかけることなく、またポケットに戻す。
 日傘を差して、普段着の和服を着た舞妓が通り過ぎた。
(あの頃の詩織や、今の彩夏と同じくらいの歳だな・・・)
 素顔に近い舞妓は、幼ささえ感じる顔立ちで、健二にはその足取りもどこか危なっかしく思えた。
(あの子や、彩夏は、精一杯背伸びして頑張ってるのだろうな・・・詩織は、どんな気持ちであの日々を送っていたんだろうか)
 石畳の上に陽炎が立つ。その中に揺らめいて遠ざかっていく舞妓の後姿を、健二はしばし見送った。橋下の水面に魚が跳ねて、小さな音が響く。
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2004.11.12

小説「残光」第六十回

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 梅雨は明けたかに思われて、炎熱の下で京都の町はあえいでいる。
 健二は、駿が彩夏と暮らす家を訪ねる。石畳に水が打たれて、路地(ろうじ)は辛うじて息がつける。
「そうか、彼女が詩織の娘じゃないことも、お前の病気のことも、お互い話したのか・・・」
駿が注いでくれた麦茶を啜り、健二は頷く。
「なんかね・・・日常の生活を、ずっと続けていくには、かっこつけていては、いられないね」
駿は、色白の顔にうぶな笑いを浮かべた。
「怖くなったんだよね。春川先生の姿を見ていたら・・・」
 健二は部屋を見回し、箪笥の上に置かれた薬袋や、カレンダーに書き込まれた「検査」という文字を見ながら、訊ねた。
「彩夏ちゃんは、今は仕事か?」
「ああ、あのスーパー、24時間営業になってね。シフトがコロコロ変わって、かなりきつそうなんだ」
 健二は、麦茶のコップをテーブルに置き、無表情に一気に喋る。
「春川先生は、昨日から危篤だ。竜生から連絡は来たか?」
 驚いた表情になり、駿は眼鏡の奥でまじまじと目を見張る。
「いや、何も言ってこないよ」
「そうか・・・それともうひとつ、気になることがある。景子がこっそり退院してる」
「ええ?・・・麻薬中毒、そんなに早く治るのかい?」
 健二は苦笑し、すぐにシニカルな表情になる。
「治るわけないさ。竜生が、身元を引き受けて、表向きは個人病院に転院させたことになってる。でも景子は、ホテル暮らしに戻ってるよ」
 駿は、汗で顔から滑る眼鏡をつかみ、激しく瞬きをする。
「健二、君は・・・」
「竜生は、春川先生の遺言を、もう、読んでいるはずだ。俺があいつだったら、ぜったいそうするさ。あいつに出し抜かれちゃならない。竜生から連絡があったら、すぐに俺に知らせてくれよ」
 駿は、やりきれないような表情になって呟いた。
「いったい、どうなってしまうんだ、僕たちは・・・黄金の六人、だったのに!」
「終わらせるんだよ。俺たちの青春に、けりをつけるんだよ」
 きっぱり言い放ち、健二は駿の家を出る。油蝉の鳴き声が、陽光の中に満ちている。
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2004.11.10

小説「残光」第五十九回

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 ことさらに無機的なビルのロビーで、その人物は待っていた。
「約束の時間通りだすな。ほな、お渡ししまひょか」
物柔らかな言葉を紡ぎだす男は、細身の体躯にアルマーニのスーツを着て、喋り方にふさわしい優しい容貌をした四十歳くらいの年恰好である。
「今、ここで開けていいですか?」
手渡された大判の封筒を手に、健二は鋭い目つきで訊ねた。男は軽く笑って、ロビーの隅のソファを示す。
「そらもう、よろしいで。どうぞ、ごゆっくり検分しとくれやす」
革のソファに腰を落とし、貪るように健二は封筒の中の書類を読んだ。読み終えて、歯を食いしばり、しばらく耐える。
 男は少し離れて、煙草をふかしながら、ガラス越しに宵闇の空を見上げている。
「結構です。これだけきちんと結果を出してくれたら、十分です」
健二は懐から、茶封筒を取り出し、男に差し出す。男は真面目な顔で受け取り、上目遣いに言う。
「領収書、いりまっか?」
健二は首を横に振った。男は頷くと、握手を求めた。戸惑う健二に、男は笑う。
「わての、流儀でんねん。依頼人とは最後に、心込めて握手して、それで全部忘れます」
健二は立って、男の手を握った。白い歯を見せて爽やかな笑みを浮かべ、男は立ち去った。

 京都に戻る新快速電車の中で、健二は目を閉じ、呪文のように胸の中で唱える。
(検体をDNA鑑定した結果、サンプルAとは、98.7パーセントの確率で親子と認める)
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2004.11.06

小説「残光」第五十八回

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「確かに、あの頃のうっとこのお客はんに、その先生はいはりましたえ。祇園の遊びを覚えて間もない、いう感じのお人やった」
「それで、その頃、お店に、この女の子はいましたか?」
 健二は、一枚の古い写真を差し出した。老女はバッグから眼鏡を取り出し、しげしげと見つめた。
「うちも、もうええ歳やし。ようけ女の子は出たり入ったりしましたしなあ・・・」
「十八歳未満だったんですよね、その当時、この子は。それを承知で・・・というより、あなたのお店は、密かにそれを売り物にしていたんじゃないですか。まあ、そんなことはもう、とっくに時効ですけどね」
 老女は黙りこくり、写真を卓の上に投げ捨てるように置いた。
「俺はね、その子がどこへ消えたか、知りたいだけなんです。その子と、春川教授の繋がりがないか探したら、あなたが昔経営していた店が出てきた」
「はん、えらいご執心だったんどすな」
からかうように、老女は目を逸らしてうそぶく。
「お願いしますよ、この子と春川教授は、面識があったんですね?」
「そないなこと、いまさら聞かはってもなんにもならしまへんやろに」
へらへらした口調で喋る老女に、健二はぐい、と顔を突き出した。
「水揚げ、という言葉がありますよね。舞妓が、一本立ちして芸妓になるとき、旦那が付くことだ。でももっと直截には、舞妓が初めて男に抱かれること。ねえ、俺は『よそさん』だから、回りくどい話は苦手だ。あんたの店は、十代の女の子に、水揚げさせることで、稼ぎをあげてた」
健二は写真を拾い上げ、老女に突きつけた。
「この子を水揚げしたのは、春川先生だった・・・違いますか?」
老女は、不意にニタリ、と笑った。般若のように凄惨な笑みだった。

 京都駅前の雑踏のなか、健二は夕空の京都タワーを見上げる。幻想的にそそりたつ姿に、唾を吐きかけたくなる気分を覚えて、挑むようにしばし立ち尽くした。
 やがて、荒々しく肩をゆすって横断歩道を渡った健二は、駅構内に踏み込んでいく。そして大阪行き新快速電車の切符を買った。
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2004.11.05

小説「残光」第五十七回

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 雲の向こうの太陽の、猛烈な熱を感じさせる不透明な空の下、湿気と暑さに健二は汗を拭きながら、坂道を登る。八坂の塔に近い、車の行き来できない狭い道である。すれ違った観光客を乗せた人力車、その車夫の首筋に、汗が滝のように流れている。
 一軒の民家の格子戸を開き、健二は玄関の戸を叩いた。「へえ、どちらさん?」と年配の女性の声が応え、「柳田です。小西さんから呼ばれて、来ました」と告げると、やがて戸は開かれた。
 五十歳前後かと思われる和服の女性が、腰を低くして健二を案内した。典型的な京の町屋である。入って右側に三畳ほどの玄関間があり、左には台所に続く土間がある。脱いだTimberlandのワークブーツを揃え、健二は玄関間から、奥の部屋へと踏み込む。
「お久しぶりどすな、こないなとこにお呼び立てして、えろう、すんまへんどした」
 座敷の真ん中に据えられた紫檀の卓の向こうで、丁寧にお辞儀をするのは、御幸町錦の民宿の女あるじだ。
「いえ、こちらこそ、不躾なことをお願いしまして、恐縮です」
ジーンズで正座する健二に、膝を崩すよう勧めながら、老女は坪庭を見やる。
「うっとおしい暑さどすなあ、はよ、雷さんがピシャピシャ!と落ちて、梅雨があけてしまいよし、思いますわ」
「そうですね。京都に来てまず、参ったのはこの時期の暑さでしたよ」
健二は、この女性の名前を「小西のおばあちゃん」としか知らない。粘り強く、話に相槌を打ちつつ、相手が用件を切り出すまで待つ。
「柳田さん、あんたも、ええかげん、真那ちゃんの想いに応えてあげな、あきまへんえ」
いかにもそれが、主要な用件といわんばかりに、老女は器用にウインクする。
「小西のおばあちゃん、それは、出来ない相談ですよ」
「真那ちゃんは、そらもう、潔い女子どすわ。さばさばした関東の気質で、そやさかい、思いのたけを正直に言えへん。ここはもう、男はんのほうから・・・」
健二は苦笑して片手を挙げ、老女の饒舌をさえぎった。
「勘弁してくださいよ。私の依頼したことが、花街(かがい)の仁義破りだということは、よくわかってます。それを押してお話を聞きたいんですから、それなりのものは、用意してます」
 話の腰を折られて不機嫌な顔を見せていた老女は、やんわりと笑顔になった。
「うちが、昔祇園でクラブやってたいうこと、よう聞き出しはりましたな。ほんで、その頃のお得意さんのことを知りたいやなんて、とても、うちの店やご近所じゃよう話せまへん。ほんで、こないなとこへご足労願いましたんどす」
「感謝してます。私もまさか、線をたどっていったら、小西のおばあちゃんに行き着くなんて、想像もしてませんでしたから」
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2004.11.04

小説「残光」第五十六回

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 健二は目を上げて、美咲の視線をまっすぐに受け止めた。
「待ってて、くれるか?」
「うん」
「終わらせるまで、待っててくれるか?」
「うん!」
 健二は手にしていたロックグラスを置き、立ち上がって手を差し出した。
「出ようか」
「うん!」
美咲は舞い立つように立ち、健二と手を繋いだ。

 七月の熱い夜気の中を、二人は歩く。握り締めた掌の温かさが、健二にはこの上なく大切なものに思える。
「美咲の家は、どこだ?そこまで、歩いて送って行きたい」
健二の昂ぶった声に、美咲は小さく笑う。
「だめ。うっとこまで連れて行ったら、うち、きっと、健二に上がるように言うてしまうから。終わるまで、待たなあかんやろ」
「そうだったな」
健二は苦笑し、強く握った手を、軽く握りなおす。曇り空で星は見えない。街路の明かりが火照った二人の頬を照らす。
「けど、まだわからない。なんでおれなんかを・・・」
「理屈やあらへん。でも、説明してみよかな・・・健二は、ナウシカって、知ってる?」
「宮崎駿の、アニメだろ。好きだよ、封切りのときに見たさ」
「その宮崎さんが、漫画でもナウシカ、書いてはって、その単行本のあとがきに、書いてあってん。
ナウシカは、もともとギリシャ神話に出てくる王女で、海辺にぼろぼろになってたどり着いたオデュッセウスいう、英雄を助けたんや。彼女は、不吉な血まみれの男の中に、光りかがやくなにかを見い出した・・・って」☆注
 美咲は歌うように語り続ける。
「うちは、そんなナウシカになりたい、思うた。合コンで、相手に職業と年収を聞いて回るような女には絶対なりとうなかった。たとえ、一生オデュッセウスにめぐり合えなくてもええ。ナウシカでいたいと思ってきた」
 健二は驚いて美咲を見返す。美咲は微笑している。
「二十年も一人の人を想い続けて、その人が死んだことを知って、ぐしゃぐしゃに泣いてた男が、うちのオデュッセウスや。不吉な血まみれの男、やのうて、不細工な涙まみれの男、やったけど」
「光りかがやくなにか・・・を見い出したってか」
 途方にくれたように首をかしげた健二に、美咲は明るく笑って、強く手を握った。
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☆注・・・徳間書店刊 アニメージュ増刊「風の谷のナウシカ」第一巻 宮崎駿著 あとがき「ナウシカのこと」より

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2004.11.03

小説「残光」第五十五回

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「どういうこと?詩織さん、生きてはるってことなん?」
「それは、たぶん、ない。ただ、死んだ理由と場所が、はっきりしないんだ」
「はっきりさせる、つもりなの?」
「そうしないと、終わらないよ」
ビールを焼酎のロックに替えて、健二はグラスをあおる。美咲は、強い視線で健二を見た。
「今までずっと、はっきりさせずにきたんやろ?終わらせへんために」
 健二はごくり、と唾を飲んで美咲を見返した。
「そう、かもしれないな・・・いや、きっとそうなんだろうな」
 美咲は、じっと健二を見詰めたまま、低く呟いた。
「終わらせて。きっと、終わらせるって約束してくれへん?」
「約束・・・?」
戸惑う健二に、美咲ははっきりと頷いた。
「うちと、約束してもらえへんやろか?」
 なぜ、と問いかけようとして、健二は口をつぐんだ。胸の動悸が高まっていた。
 からだの芯で凍り付いていた何か大きな塊が、一気に溶けていくような感覚に、健二は痺れている。
「俺なんかに、そんな資格があるのかな?」
呻き声で漏らした健二の言葉に、美咲の囁きがかぶさる。
「あんたを縛ってたものから、楽になって欲しいねん。二十年も同じ人を想ってたあんたは、もう、十分に尽くしたんや。でもそのせいで、あんたは抜け殻みたいになってる。ほんまのあんたになって欲しい」
そして、美咲は、緊張で声を震わせながら言った。
「うちの、ために、約束して」
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2004.11.02

小説「残光」第五十四回

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 よく冷房の効いた地下の小料理屋で、刺身や佃煮を肴に、美咲は旨そうにビールジョッキを空けた。花屋の駐車場に車を置き、店に帰って着替えて、徒歩で健二をここまで連れてきたのである。小気味良い飲みっぷりに釣られて、健二もジョッキを傾けた。酔いが、からだの深いところから疲れをほぐしてくれるのを感じる。
「彩夏・・・宵山は楽しかったみたいやな。あんたが、写真撮ってくれたって、言うてた」
「ああ、引っ張りまわしてくれたよ。元気だなあの子は。駿は・・・そういや、さっきもかなり疲れた顔だったな」
「それは・・・お見舞いに行った人って、重い病気やったん?」
「まあな。ここ一ヶ月くらい意識がないって聞いた」
健二の言葉に、美咲は眉をしかめ、口をへの字に曲げた。
「駿さんも、病気やんか。自分が重態になったときのことを想像して、気分重うなってたんちがう?」
 健二はちょっと驚いて、美咲の顔を見つめた。
「しまったな・・・俺は、自分の思いにかまけてて、そんなことに気が回らなかったよ」
「あかんやん、親友なんやろ?なんかまたあったん?こないだみたいに、思いつめた顔してはったから、一杯やったほうがええ思うて、誘ったんやけど」
 健二は美咲の言葉が、胸に沁みるように思った。
「・・・彩夏に、詩織のことを聞いて、もう、全部終わったと思ったんだがな・・・」
カウンターに肘を突いて、掌にあごを乗せ、健二は呟く。
「わけがわからなくなってきたんだ」
 小首をかしげ、健二の声に耳を傾ける美咲の顔。健二の目に、店の間接照明に浮かぶ美咲の顔が、菩薩のように清楚で慈愛に満ちて映っている。
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2004.10.31

小説「残光」第五十三回

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 美咲は手にした大量の花束を、無造作に地面に置くと、健二に駆け寄ってきた。
「あんた・・・どっか悪いの?」
 健二は苦笑して、首を横に振る。
「知り合いの見舞いに来たんだよ。駿も一緒だった」
「そうなん・・・でも、顔色ようないね」
健二は、美咲の視線が照れくさくて、顔をごしごしこする。
「昨夜、寝てないからな・・・あ、花、ほっといていいのか?」
 美咲は、ちらっと地面の花束を振り向き、苦笑する。
「あれ、全部ほかすやつやねん。この病院のあっちこっちに飾ってあったやつを、取り替えてきたんや」
「花屋さんだったのか?」
 美咲は笑って頷き、花束を拾って、駐車場の中に入っていく。軽のワンボックス車の荷台を開き、花束を置く。
「肉体労働もええとこやけどな。こんで、まだ一軒、いかなあかん。くたびれるわ」
くたびれる、と言いながらきびきび動いて花を積み込む美咲の様子が小気味良くて、健二はなんとなく見惚れていた。
「なあ、最後の配達に付き合ってくれへん?それ済んだら、ビール飲みたいんや。一人じゃつまらんし」
美咲がかけてきた言葉に、健二は思いもかけない喜びを覚えながら、頷いていた。

 最後の配達先は、東山の斜面に建つホテルだった。建て替えを繰り返し、今は名前も昔と少し変わったが、豪奢な雰囲気は、老舗の意地を感じさせる。
 地下の業者用駐車場に留めたワンボックス車の中で健二が待っていると、美咲はエプロンを外しながら乗り込んできた。
「お待たせ。今日も汗だくやったわ。はよ、車置いて飲みにいこ!」
地上に出ると、ホテルのロビーの明かりが映える。車窓に流れるまばゆい光を見ながら、健二は思いだす。
(そう言えば、このホテルは、よく景子が使ってたかな)
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2004.10.29

小説「残光」第五十二回

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 竜生の気迫は、健二のそれと拮抗した。息を飲んでいた駿が、不意に、ふっと笑う。
「君たち、変わらないなあ・・・すぐむきになって、張り合ってたじゃないか、あの頃もさ」
 絶妙の間合いで、緊張をほぐすのが、あの頃の駿の役割だった・・・と、健二は思い出す。同じことを竜生も感じたらしく、苦笑いが浮かんだ。
「竜生、ちゃんと食べてるのかい?ひどい顔してるぞ・・・先生の容態は安定してるようだし・・・ちょっと出て食事しないか」
 駿の提案に、竜生も健二も、肩の力を抜いて頷いた。

 三人は病院近くの大衆食堂に入った。夕食というには早すぎたが、健二にはその日初めてのまともな食事だったし、竜生も似たようなものらしい。
「景子は、一体何を飲んだんや?」
「錠剤のLSD。もろ、致死量だったそうだけど、カプセルが丈夫で溶け切る前に胃洗浄したから」
健二の説明に、竜生はため息をつく。
「まさか、まさか景子がなあ・・・あいつ、タフで、俺なんかよりよっぽど男らしいやつで・・・」
顔をしかめてうどんをすすりこむ竜生に、駿が同意する。
「景子も真那も、強かったよ。健二なんか、よく真那に蹴飛ばされてたからな」
「真那は元気なんだろ?駿はそう言えば、なんで京都にいるんや?」
竜生の質問に、駿は困ってざるそばを箸でつまむ。唐揚げ定食にかぶりつきながら、健二が笑いをこらえる。
「駿はちょっとこっちに家を借りてね。仕事してるのさ、なあ?」
「なんや、みんな今、京都におるんかいな。星のめぐり合わせ、ちゅうやつかな」

 食事を終えると、竜生は一旦実家に戻って眠ると言って、病院の玄関でタクシーに乗った。見送りながら、駿が呟いた。
「竜生は、京都人らしくない・・・良いやつだよな」
「京都人全部が、底意地の悪い人種だなんてことが、あるわけないだろ。でも、あいつは、ほんと、良いやつだな」
 市バスに乗るために、駿が歩み去ったあと、健二はふと西の空を見た。夏の宵にしては澄み渡った夕空に、沈みゆく太陽の光が美しく照り映えている。
 見とれていると、その景色の端に、見覚えのある、どこか暖かな色が横切った。目を凝らす。
 明るい栗色の髪で、紺色のエプロンをして、大きな花束をいくつも抱えた女性が、びっくりしたように目を見張って、病院の駐車場出口で歩を停めていた。美咲だった。
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2004.10.27

小説・残光・第五十一回

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 竜生は、信じられないといった顔で首を横に振る。
「健二、おまえまで、景子の妄想に浮き足立つことあらへんやろ。やさがし、やて?先生の家に、詩織の死体が埋まってるとでも言うんか?頭冷やせや」
「鍵を持ってるのか、持ってないのか、答えろよ」
 健二は、竜生の言葉を聞き流して迫る。竜生は椅子に腰を落とし、顔を下に向けて口をつぐむ。健二は足音荒く、病室の出口に向かう。
「鍵がないのなら、かまわないさ。戸をぶち破って入らせてもらう」
決然とドアを開けた健二の背中に、竜生の呻くような声が響く。
「待ちいや・・・待て、言うねん。俺は、先生の遺言を、預かってる」
「なんだと?」
健二は振り返り、駿と顔を見合わせる。竜生は顔を伏せたまま、喋り続ける。
「ふた月くらい、前のことや。景子の麻薬中毒のことが伝わってきて、先生は俺を呼んだんや。もう、よう喋れへんようになってたけど、意識はしっかりしてた。で、遺言や言うて、俺に渡した。死んだら・・・健二や駿や、真那も呼んで、開け、てな」
 健二は竜生に歩み寄り、肩をつかむ。
「その遺言、今、持ってるのか?」
竜生は、健二の腕をつかみ返し、鋭い目で睨む。
「先生は、まだ生きてはる。まだ、見せるわけにはいかへん。俺かて、中身は見てへんのや」
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2004.10.26

小説・残光(仮)第五十回

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 健二は病室のカーテンの隙間から空を仰いだ。積乱雲が立ち上がって、雷雨を呼びそうな雲行きである。
「ちょっと前まで俺も、今の竜生みたいな気分でいたけどな。駿にも甘ったれのロマンチストとか言われたっけな。だけど、もう、そんな気持ちじゃいられない」
顔を上げた竜生と、振り向いた駿の不審そうな表情に、健二は言葉を叩きつける。
「景子はクスリを飲む前になんて言ったと思う?俺が詩織と会う約束をしていた、あの宵山の日に、景子は、詩織を刺したんだってよ!」
竜生が、ごくりと唾を飲み込んで口ごもる。
「そんなのは・・・景子の妄想や。ヤクにやられて・・・」
「駿にも訊きたい。お前が確かめたっていう、神戸の震災で死んだ詩織、本名はわかったのか?墓は確かめたのか?」
健二の鋭い視線に、駿は激しく瞬きをする。
「あ、ああ・・・本名や本籍は、教えてもらったさ。墓は・・・墓はわからない」
健二は首を振り、歩きながら喋る。
「今になって、俺は、俺のバカさ加減がよくわかったよ。一番大事な詩織のことを、何にも知ろうとしないで、この二十年、まったく、無駄な時間をすごしただけじゃない。あの時、詩織を救う努力を、何一つしなかった!俺は、恋に酔ってただけの、大間抜けさ!」
 ベッドの上に手を付き、健二は老人の耳もとに語りかける。
「春川先生、俺は、あんたにどうしても聞きたいんだ。あんたと、詩織と、景子に何があったのかを」
「無茶言うたら、あかんがな・・・」
竜生が顔色を変えて立ち上がるのに、健二は鋭く指を突きつける。
「おまえ、先生の家の鍵、持ってるだろう。よこせ!今から、家捜ししに行くから!」
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2004.10.25

小説・残光(仮)第四十九回

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 健二は、東山区にある病院で駿と待ち合わせた。やがて、眼鏡の奥の目を緊張に光らせて、駿がタクシーを降りてくる。
 病室に向かう二人は、足取り重く進みながら、短く言葉を交わす。
「まさか、そんなことになっているとはね」
「景子は、中京(なかぎょう)の病院にいる。彼女はとりあえず心配はないんだが」
「こっちの春川教授は重態なんだね」
「うん、景子のことを連絡しようとして、ここに入院してるって知ったんだ」
「あれから、ずっと会っていなかったね、春川先生」
「ああ、俺は・・・会うのを避けていたのかもな」
 廊下をたどり、個室病棟に着き、その部屋のドアをノックする。男の声で返事があった。
 扉から覗いた顔は、健二や駿と同年齢である。健二はしばし、その長身の男を見つめて、軽く会釈した。
「久しぶりだな、竜生」
「まず、入りや。今、椅子を出すから」
 秀麗な容貌に白髪の目立つ竜生は、二人を招き入れると折りたたみ椅子を用意した。
 個室の中央には、小さな老人が仰臥して、鼻にチューブを繋いで眠っている。心電図などのセンサーも付けられているようだ。
「もう、意識をなくして一ヶ月以上経つんだ。景子は、ずっとホテルに泊まっていて、こっちに通っていたらしい。俺はここ二年ほど、一月に一回くらい、先生の見舞いに来てたんやけどな」
 竜生は、伸びた無精髯をなぜながら、ぼそぼそと喋る。
「先生、回復は・・・難しいのかい?」
駿がひきつった表情で苦しそうに尋ねる。竜生は頷いた。
「たぶん、もう、意識は戻らへんと思う。景子が臨終に間に合うといいんやが・・・」
 健二は、土気色の肌で横たわる老人を、唇を噛んで見つめる。
(春川先生、あなたに、聞かなければいけないことがいくつもあったんだ。もっと早くに、あなたを訪ねなきゃいけなかった)
「景子は、フランスやイタリアでずっと暮らしていたけど、マリファナや大麻と手が切れなくなっててん。俺が知ってたら、力づくでもやめさせにいったのにな」
悔恨に満ちた声で、竜生は呻き、椅子にうずくまって頭を抱える。
「みんなも知ってるように、俺は景子と一度婚約した。でも、景子が俺を必要としてへんことを知って、俺は京都を離れて結婚したよ」
「もう、娘が高校生になるって、年賀状に書いてあったな」
駿がいたわるように言うと、竜生は自虐的に笑う。
「だけどな、いつまで経っても、あの頃を夢に見るんや。あんな幸せな時代は、なかった。目が覚めて、女房や娘の顔を見ると、なんか不思議やねん。なんで俺は、ここにいるんや?って。なんで、あのままに居られなかったんやろう。なんで、こんなことになっちまったんや!」
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小説・残光(仮)第四十八回

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 救急車で景子は病院に運ばれ、付き添っていった健二は、警察で事情を訊かれる羽目になった。
 解放されたのは翌日の昼過ぎで、街に出ると、祇園祭の山鉾巡行の見物客でごった返していた。
 小路に人波を避けて、健二は携帯電話を取り出す。疲れた表情で空を仰ぐ。
「真那?仕事中に済まないな。詳しいことは後で話すけど、とりあえず、駿の携帯の番号、聞いてないか?連絡したいことが起きた」
 真那はすぐに、駿の携帯番号を知らせてくれ、健二はそれをメモリーする。
「ありがと。で、手短に言うとな。昨夜、景子に八坂神社で出くわした。そう、あの景子さ。
それから一緒に飲んでいたら、俺の目の前で景子は薬物を飲んで自殺を図ったんだ。ああ、命に別状はない。でもな、あいつ、フランスにいた頃から麻薬の常習者で、何度も捕まっていたらしいんだ。からだも精神もかなりやられていて、病院から出てこれるめども、立たないってさ」
真那は絶句したらしく、会話は続かない。健二は大きくため息をついた。
「とにかく、俺から駿にも話しておくよ。そうだな・・・竜生にも言っておくか」
 電話を切り、裏道をたどって健二は歩いた。祭の巡行コースと交わった時には、船鉾が通過するのを目にした。何か、すべてが非現実の景色に見えた。
(何が真実なのか、まるで、わからなくなってきた。詩織は、いつ、どこで死んだんだ・・・それとも・・・)
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2004.10.22

小説・残光(仮)第四十七回

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 奇妙に虚脱した口調で、景子は語り続ける。
「あの宵山の夕方、詩織は、浴衣着てうっとこへ来はったわ。きつい目えして、おとうはん相手に、ゆすりに来たんや。あの研究所の標本や蔵書を横流ししたんを、みんなおとうはんの命令や言うてばらすて・・・もちろん、そんなんデマに決まってた。でも、あん時のうちは、頭ん中が真っ白になった。おとうはんが大学に居れんようになる、うちの留学もあかんようになる・・・そう思たら、もう、わけわからんようになって・・・うちは、詩織を・・・」
 健二は、手の中に脂汗が滲んできたのを感じた。
「うちは・・・気いついたら・・・包丁握って立ってたわ。手首のトコまで、ぬるぬるした血が垂れてきてた・・・詩織の浴衣が・・・赤いいうより、真っ黒になってて・・・おとうはんが、真っ青な顔でうちを抱きすくめて・・・」
 健二が息を飲んだとき、景子は、激しく瞬きした。
「あれは、夢の中のことやったんかな・・・でも、詩織が最後に言うたのを覚えてる・・・八坂神社の、石段に、いかなあかん、健二が、待ってる・・・って」
 胸の中で、熱い塊が回転しているように感じ、健二はグラスを握り締めて立ち上がった。歯を食いしばる健二の顔を見上げて、景子が、不思議に透明な笑みを浮かべた。
「もう、何がほんまやったんか、わからへんのよ、あの頃のこと・・・もう、うちは、疲れた」
そう言うと、景子は胸に下げていたロケットをかちりと開いた。中に入っていた何かを取り出すと、震える指で、景子はそれを口に含み、カクテルを流し込む。
「何をした!」
健二が叫んだとき、景子はカクテルグラスをカウンターに叩きつけ、突っ伏した。
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2004.10.21

小説・残光(仮)第四十六回

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「フローズンダイキリ」
慣れた様子でカクテルを注文し、景子は貪るように飲んだ。それを冷静に観察しながら、健二はバーボンの水割りを舐める。
「健二だけやね、ずっと京都に居はったんは。・・・あんたは、ほんま、あの頃と変わらへんのね」
「進歩がないだけさ・・・竜生は、まだ鹿児島で助教授だったかな」
「さあ・・・真那と駿は、東京でうまくいってるん?」
「ついこの間、京都に来てたぜ。三人で飲んだばかりだ」
「そやったんか・・・うちも声かけてほしかったわ」
数語を交わすうちに、景子はカクテルを飲み干してしまい、お代わりを要求する。早くも目の光がどんよりしてきている。健二は、決意して口調を変えた。
「その花束は、なんのためなんだ?詩織に、捧げるつもりなのかい?」
低く囁くように言った健二の言葉に、景子はごくっと唾を飲み込んだ。
「捧げる・・・って、詩織なんて、どこにいるのかもわからへんし・・・」
「詩織は、死んだよ。知ってるんだろ」
わざと微笑して、健二は景子に告げる。景子はのけぞるように健二から身を離し、無理に笑顔を作った。
「なんや・・・あんた、やっぱり詩織とあれからも付きおうてたんかいな・・・亡くならはったんか、可哀想やなあ」
「笑って口にする言葉かよ」
 冷笑して言った健二に、景子のまなじりが吊りあがり、カクテルグラスを持った手が震えた。
「なんやの・・・詩織なんて、うちらの青春の汚点やんか!おとうはんも、詩織のせいでどんだけ迷惑を・・・」
「その詩織に、恨みを買ってるって、さっき、言ってたんじゃなかったかな、景子」
問い詰めていく健二に、景子は一瞬凄まじい眼光を向け、すぐに、魂の抜けたような虚ろな目になる。
「あんなあ・・・あんたは知らへんやろけど、詩織は・・・どんだけえげつないことしとったか!それを穏便に済まそうとしたおとうはんや、うちを、あの子は逆恨みしてるんや」
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2004.10.18

小説・残光(仮)第四十五回

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 見物客に突きあたり、よろけ、ぶざまに逃げていく景子の後姿に、健二は怒りが湧いてきた。
(なぜ逃げる?そして、あの頃、あんなにも毅然と美しかったお前の、その有様は一体なんだ?)
 獰猛なまでの衝動に駆られて、健二は猛然と追跡した。高張提灯が揺れ、祇園囃子がうねる中を、夜叉のように走った。

 八坂神社の境内を北に抜け、地下駐車場出入り口辺りから、東へ向かって、強引に祇園会館前の東大路を渡り、飲食店街をジグザグに迷走した挙句、白川通り沿いに、景子は鴨川のほとりに出た。黒のブラウスは汗で貼り付き、乱れた髪の中から、絶望的なまなざしが健二を振り返る。もはや走る力はなく、立ち止まった景子は、まだ手にしていた花束を、刀のように健二に突きつけた。
「あんたが、今夜あそこにいるやなんて!詩織が呼んだんやな!やっぱり、うちを恨んでるんやな、詩織は!」
「落ち着けよ、景子。大丈夫か?おまえ、何か勘違いしてるぞ。詩織がどうしたって?」
冷徹に言葉を選びながら、健二は低い声で景子を諭すように言う。
「おれは、あれからずっと詩織に会ってない。今、どうしているかも知らないんだ。何か知ってるのなら、教えてくれないか?」
 景子の緊張しきっていた全身から、力が抜けていく。へたり込みそうによろめく。とっさに健二が腕を伸ばすと、景子は健二の肘をつかんで立ち直った。憑き物の落ちたように、その顔から怯えが消えている。上目遣いに見上げたその瞳に、意志の強い輝きが戻っていた。
「ごめんね、取り乱してもうて。息が切れてしもた。その辺でちょっと喉湿したいわ。つきおうてくれへん?」
 背筋を伸ばして健二をまっすぐに見る景子は、驚くほど昔の雰囲気に戻っている。健二は内心、舌を巻きながら、頷いて景子と並んで歩き始める。
 四条通の喧騒から、ほんの百メートルほど離れただけで、嘘のようにひっそりと落ち着いた一角があり、その古いビルの階段を登って、景子はオーク材の扉を開けた。カウンター席に座ると、目の前に鴨川の景色が見える、ちいさなバーだった。
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2004.10.15

小説・残光(仮)第四十四回

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 健二は痺れたようになって、ぎこちなく振り向いた。門の中の石畳に、女性の影があった。
 詩織がやってきたのか?という歓喜と疑惑と驚愕が混ざり合い、健二は言葉が出ない。しかし、目が暗がりに慣れると、その人影が詩織でないことは即座にわかった。
 女性は、黒っぽいブラウスに、やはり黒のスラックスを履いている。詩織よりも大柄で、体型も太り気味である。後手に何かを持ち、健二を怖れたようにじりじりと後ろに下がる。やがてその顔に八坂神社内の燈が当たった。四十代とおぼしき女性で、長い黒髪を真ん中でわけて垂らし、真紅の口紅が青ざめた顔に浮いている。顔立ちからは健二には名前が浮かんでこない。
 そのとき、香りが健二の鼻腔に届いた。瞬時に記憶が蘇った。
「この香水は・・・景子?春川景子かい!」
目を見張って健二は足を踏み出した。女性は、とってつけたような愛想笑いを浮かべた。
「久しぶりやね、まさかと思ったけど、やっぱり健二やったんね」
 景子の容貌には、歳月の跡が濃く滲んでいた。あまり学生時代と変わっていない真那と会った後だけに、かつては誰にも負けない美貌を誇っていた景子の変容は、痛々しくさえ思えるほどだ。だが、それはおそらく、景子がぶざまなほどに慌て、おびえているせいかも知れないと健二は感じた。
「相変わらず、シャネルをつけてるんだ。香りでわかったよ」
「そ、そやったの」
「ずっと、ヨーロッパ暮らしが続いてるって聞いてるけど、祇園祭だから帰って来たのかい?」
「ううん、えと、おとうはんの具合がようなくて、先月から戻ってきてん」
 そわそわと落ち着かない景子の様子に、どうしても不審を抑えきれず、健二は訊ねた。
「どうかしたのか?手に持ってるもの、なに?」
「よ、寄らんとって!」
悲鳴に近い叫びを上げた景子に、周囲の視線が集中した。
「どうしたっていうんだよ?」
困惑する健二に、景子は耐えられなくなった様子で背中を向けて走り出す。手に持っているのは、花束だ。まるで、墓に供えるような・・・
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2004.10.14

小説・残光(仮)第四十三回

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 祇園囃子の音色がいつまでも響く中、疲れ果てるまで、三人は賑わいに揉まれた。渡されたデジカメのメモリーが一杯になるまで撮り、健二はカメラを駿に返した。
 囃子方が鉾を離れ、高張提灯を掲げた移動式の台に鉦をぶら下げ、それぞれに独特の祇園囃子を奏しながら、八坂神社へと向かっていく。明日の山鉾巡行の好天を祈る「日和神楽」である。
 なんとなく、健二はそれを追いかけて四条通を東へ歩く。駿が手を挙げて、人込みの向こうから叫ぶ。
「もう、帰るのかい?健二!」
「ああ、駿も、気をつけて帰れよ」
「サンキュ、またな!」
 背を向けかけた健二に、見物客を掻き分けてやってきたのは彩夏だ。
「健二さん、今夜はおおきに!これ、あんたの分ももろといた」
渡されたのは、長刀鉾の名の記された厄除け粽(やくよけちまき)である。そして、今夜初めて彩夏は健二をまっすぐに見つめ、顔をほころばせた。その笑顔に、健二は見とれた。
 瞬時に身を翻して、彩夏は下駄を鳴らし、駿の元へ戻っていく。結い上げた髪が、すぐに見えなくなった。
 健二は、粽を握って、日和神楽の後を追い、四条通の混雑を縫う。車道が歩行者に解放されている区間を抜けだし、四条大橋を渡ると、彼方に八坂神社の西楼門が見えた。
 何度か夜もその前を通ったが、視線を向けることのなかった、夜の門である。おびただしい参詣客が訪れながら、ただ一人の恋人はついにやってこなかった門である。
 ライトアップされたその朱塗りの楼閣を見つめながら歩んでいく健二の胸に、いつもの痛みはない。疑い、焦燥し、恨み、煩悶したあの一夜の痛みは、今やっと、溶けていくような気がしている。
 東大路を渡り、石段を上りきり、あの夜、そうしていたように、健二は門の北川の柱に背中をつけてもたれた。
(あの夜、どこにいたんだ?詩織・・・それだけが、知りたいぜ・・・)
 そのとき、かすかな呟きが、門の中の闇から響いた。
「そこにいるのは・・・健二?」
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2004.10.13

小説・残光(仮)第四十二回

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 祇園祭の宵山を、数年ぶりに健二は歩いている。湿気と熱気でたちまち服から汗が絞れるほどになる雑踏である。
 約束した南観音山の近くで、駿と彩夏が待っていた。二人とも下駄に浴衣で、駿は恥ずかしそうに健二にデジカメを差し出す。
「俺たちを、撮って欲しいんだよ」
 駿の赤らんだ顔を見て、健二も破願した。彩夏は健二から目をそらしつつ、腕を駿の肘に絡めている。まずは一枚、南観音山を背景に、健二はシャッターを押した。既に暗いので内蔵フラッシュが閃く。
「記念撮影みたいなのは、今の一枚だけにしてくれ。あとはスナップショットで」
「うるさいぞ、さっさと歩け、ちゃんと撮ってやるから」
心地悪そうな駿を手を振ってせかし、健二は二人の後ろに就いて歩いた。
 肩幅が広く、首の短い駿の浴衣姿は、お世辞にも粋とは程遠いが、寄り添う彩夏の白地に草花を散らした浴衣は瑞々しくも艶やかである。髪を結い上げたうなじの白さが健二の目に沁みる。
 彩夏が綿菓子をせがんだ。金魚すくいに駆け寄った。一本の焼きとうもろこしを、駿と分け合って齧った。
 旧家が戸を開け放って、秘蔵の絵や工芸品を見せている座敷を覗き込んだ。祭り提灯の灯かりに照らされる二人の横顔に、健二はフラッシュなしでスローシャッターを切る。
(俺と詩織は、ついにこうやって、宵山を歩くことはなかった)
感傷が健二の胸を焼く。彩夏の横顔に詩織の面影を重ねずにはいられない。
「それ、これが健二の宵山の定番だったね」
不意に、目の前に缶ビールと串に刺した焼きイカが突き出され、健二はのけぞった。差し出す駿の横で、彩夏が慌てた健二の様子に身体を折って笑った。健二も苦笑して、焼きイカにかぶりつき、缶ビールをのどを鳴らして飲んだ。
 詩織に会う前月の宵山を、駿と二人であてどなくうろついたことが思い出された。そして次の年の宵山、健二は八坂神社の石段で、詩織を待ち続けたのだった。
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2004.10.12

小説・残光(仮)第四十一回

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 夕日が最後の光を投げてきたとき、傍らの地面で、赤い炎が閃いたように見えた。健二と真那は同時に目を向けて、一緒に声を上げた。
「あの蝶は!」「ヒョウモンだ!」
 オレンジ色の翅に黒い斑点を散らした、野性的な美しさを持つ中型の蝶が、塔の前の雨ざらしの地面に留まり、翅を緩やかに開閉しながら息づいている。
「蝶類研究所の、標本箱の中にいっぱい、いたね」
「ああ、ヒョウモンはたくさん種類があって、どれもみんな似ていて、同定が難しいって、竜生が教えてくれたな」
「しっ!飛んで行っちゃうよ・・・」
 ひらり、とオレンジ色の火の塊のように、豹紋蝶は舞い上がった。
 その瞬間、健二の胸に想い出が溢れ出た。
 ギンボシヒョウモン、ウラギンヒョウモン、ツマグロヒョウモン、クモガタヒョウモン・・・・行方不明の昆虫学者が記したカードの上にピンで留められた、可憐な蝶たちの遺骸。
 見守る詩織の瞳に、夕日が映っていた。
 駿が図鑑を持ち出してきて、竜生と希少種だとかそうでないとか論議を始める。
 景子がラムネをラッパ飲みしながら、真那と肩を組んで標本箱を覗き込む。二人の首筋に流れる汗にも、夕日は美しく反射している。
 滅んでいく建物と、世界の終わりのような赤い夕日のなかで、朽ちることを免れた蝶たちは宝石のような光を放っていたが、それを観ている、若者たちこそ、何よりも輝いていたのだった。

 豹紋蝶は、旋回しながら塔の屋根にまで到達し、やがて落日の方角へ飛翔していく。
「詩織と生きたあの頃が、贋物の青春じゃなかったように、あたしと駿が結婚して暮らした月日だって、嘘に満ちていたわけじゃないんだよ」
 真那は、力強くそう言った。
「今日は東京に帰る。でも、また来るからね。それまで、駿をよろしくね」
 そして、真那は新幹線に乗って去った。
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2004.10.08

小説・残光(仮)第四十回

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 健二は、真那の手を引いて、東山の斜面を登った。木々に覆われた古径が、不意に開けると、そこに小さな三重の塔があった。そして、視界は遥かに京都市内すべてを見遥かしていた。
 塔の基壇に腰をかけ、真那を隣に座らせると、健二はいとおしむように、塔の苔むした基壇を撫でる。
「そんなに古くはないし、由緒ある寺でもないけど、ここは、俺が学生時代に見つけた秘密の場所でね。駿と来たことがある。それから・・・詩織とここで、キスした。俺は、幸福だったよ」
 真那は、まだ涙を流し続けている。その肩を抱き、健二は空を横切る飛行機雲を仰いだ。
「詩織だって、しあわせだったと、俺は信じる。俺たちと過ごしたあの日々は、詩織にとってもかけがえのないものだったんだ。詩織は、本当に、京都で学生をやりたかったんだ。あいつ、俺とのデートで、何を一番喜んだと思う?
 寺や神社巡りでもない、京料理やレストランの食事でもない。あいつ・・・学生食堂で定食を食べたり、名画座で三本立て観たり、俺の大学の生協で本を買ったり・・・そんなことを一番喜んだんだ。あいつは、心から、京都で学生したかったんだよ」
「でも、その夢は、叶わなかったじゃない。友だちだったあたしたちから、敵意とさげすみの目で見られて、京都を去ったんじゃない」
「ああ・・・あれから、竜生も景子も、詩織のことは一切口にしなかったな。でも、詩織を裏切者って言い続けた真那だって、今、詩織のために泣いている。詩織を悼んでる」
「当たり前じゃない、詩織は・・・あたしと、青春を一緒に歩いた、宝物の一人だった」
「そうだろ。俺たちが詩織と一緒に過ごした時間は、偽じゃない。あのときの詩織の笑顔は、贋物なんかじゃないんだ」
 長く、長く、真那は泣き続けた。その涙が、また健二の肩に沁みた。
(今日、青春が終わる。そんな気がする・・・)
真那の肩を抱いたまま、健二は暮れて行く空に、いつまでも視線を向けていた。
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2004.10.06

小説・残光(仮)第三十九回

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「そうとも、詩織は潔白じゃなかったよ。春川教授に言われて、結果的に横流しを実行したんだろう。そしてスケープゴートにされて、罪を一人で負わされた。春川教授からそれなりの報酬もあったかもしれない。俺は、調べたさ。春川教授が、あの年の十月、娘の景子の留学費用やら、かなりの額を一気に支払ったことなんかがわかったさ。それと同じ頃から、詩織は夜のバイトをかなり減らした。俺と過ごす時間が増えた。俺も、横流しの金の恩恵を受けてたかもしれないさ」
「全然・・・気がつかなかった。健二と詩織が、そんなに早くから・・・そうなの?あの夏休みの間から、もう付き合っていたの?」
真那は、そんなことに衝撃を受けたらしく、顔をゆがめている。
「駿も、真那も、俺と詩織のことは知らないさ。俺が、駿と真那の付き合いをほとんど知らないのと一緒だ。駿は、昨夜俺のことを、現実を見ないロマンチストみたいに馬鹿にしたよな。自分は詩織の足跡を猟犬みたいに嗅ぎまわったって。でも、あいつも肝心なところで現実を見てない」
 雨がやんだ空を見上げ、健二は水路閣の下から足を踏み出す。
「あいつが見つけた、彩夏って娘は、詩織の娘なんかじゃない。今朝、会ってわかったよ。彩夏自身が認めたよ。それに、彩夏は、駿の病気を知っている。ほとんど治る可能性がないことも知ってる」
 真那は唖然として立ちすくみ、言葉が出ない。
「確かに、見ていて危なっかしすぎるさ、駿と彩夏たちは。でもな、俺はあいつらを今は、そっとしてやろうかと思う。駿は、自分の命が燃え尽きるまでに、何をしたいのか知りたくてあがいてる。彩夏は、人を愛することがどういうことか、わかろうとして頑張ってる。そんな彩夏には・・・いい友達もいるしな」
 ゆっくり歩き出した健二に、真那もついてくる。雨でも賑わう方丈や金地院を避け、東山の古径をたどっていく。
「あの子が詩織の娘じゃないって、本当なの?」
「詩織の誕生日を、彩夏は知らなかったよ。あの子の両親が震災で亡くなったのは本当だけど、全然詩織のことは知らないようだ。だから俺に会って、詩織のことを聞こうと思ったらしいな」
「詩織が亡くなったのは・・・」
「それは、間違いないそうだ・・・」
「詩織は・・・震災まで、幸せに、生きたのかしら」
歩きながら、不意に真那は顔を覆い、嗚咽した。
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小説・残光(仮)第三十八回

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 真那は、たぎる思いを爆発させたように声を上げる。
「こんな土地に住んでいるから、健二はそんな風になっちゃったんだよ。京都は、綺麗な場所がいっぱいあって、それがずっと変わらない。凍りついた想い出のなかに閉じこもって毎日暮らすようなところだ。もう、こんなところから、出た方がいい。出て、あたしと・・・」
「今、それを言うのか、真那」
健二の視線が、真那を射抜くように鋭くなる。
「俺は、詩織と行く道を選んだんだ。真那は、詩織が裏切ったって、何度も言うけど、俺はそう思っちゃいない。昨夜の、駿の話を聞いてもそれは変わらないんだ。俺の中にしかない、もろくてはかない虚像に過ぎなくったって、詩織とのことは、俺の人生の真実なんだ」
 真那は立ち上がり、挑むように胸を張って健二に迫る。
「詩織は、あの夏の想い出を汚したのよ。あたしたち六人の青春に、消せない泥を塗ったのよ。なのに、どうして健二はそんなに詩織を美化できるの?」
 健二は怒りに燃える真那の瞳を正面から受け止めながら、深く頷き、静かに話し始めた。

「蝶類研究所にあった、図鑑や標本のコレクション、その他の資料、価値のあるものがかなりあって、まとめて俺たちは春川教授に渡したね。でもその中からかなりの量が闇の市場に流れて、教授が責任を問われた。そして俺たちが問い詰められた時、詩織が身分を偽ってたことが発覚した。最悪のタイミングだった。横流しは、詩織が全部責任をかぶせられた。詩織は、あの下宿にもいられなくなった。みんなの前からは、それきり詩織は姿を消した。でもそれからしばらく、詩織は俺の部屋で暮らしていたんだよ。」
健二は、曇り空を仰いで、大きく息をつく。真那は水路閣の橋脚に背中をつけて、腕を組む。
「もちろん俺は、詩織に尋ねたさ。本当に横流しをやったのかって。詩織はきっぱり否定したよ。俺は、それを信じた。偽の学生を名乗った理由も、話してくれたさ。でも、駿が言ったように、詩織はたくさんのことを隠していた。そうさ、本当の名前さえ、俺に知らせてくれなかった。横流しの真実だって、詩織には話せないことがいろいろあったんだ・・・。真那、あれは、春川教授が最初から仕組んでたことだったのさ」
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小説・残光(仮)第三十七回

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 勅使門近くまで、車を乗り入れて、美咲は停車した。もう、二度と会うことはないかもしれないと思いつつ、健二は美咲の車を降りた。美咲は軽く健二に向かって手を振ると、鋭くターンして車を走らせて行った。
 雨の中を、南禅寺の境内を突っ走る健二は、三門の下に、肩をすくめて立つ真那を見つける。すがりつくように、真那は跳びだしてきた。
「あいつ、この雨の中を、大丈夫なのか?」
「無理をしたら、やばいと思う。まだ、彼は症状が出てないけど、顔とか足にむくみが出たら、もう、かなり」
 傘も持たずに、真那は三門から、法堂、そして水路閣へと歩き回る。
「待てよ、駿のことだ、俺みたいに、当てもなく歩くようなことはしないよ」
健二は真那を引きとめ、水路閣の下で雨宿りする形になる。
「そうだよね、駿は、いつだって理性的で・・・でも、もう、信じられないよ。どうして、駿も・・・健二も、あの頃に、詩織に、そんなにこだわるの?」
真那は駄々っ子のように肩を振り、地面にしゃがみこむ。刺繍の入った白いTシャツに、スリムなコットンパンツ姿が、学生時代のように見せている。
「詩織は、あたしたちを裏切って・・・もう、いないのよ」
「ああ、もう、いないんだな」
健二は、真那の傍らで、水路閣の煉瓦壁にもたれ、呟く。
「そして、駿も、いなくなってしまうのか」
真那は、まなじりを吊り上げて、健二を見上げる。
「なんで、あたしじゃ、駄目なのよ!」
その叫びが、駿に向けられたのか、自分に向けられたのか、健二にはわからなかった。だが、真那は、駿を探すためというより、健二に会いたくて呼んだのだ、ということはわかっていた。
「俺たちは、かけがえのない、友だちだった。詩織は、俺の恋人だった。あの頃が、最高だった。それは、誰にも否定させない」
「理解できないよ。そんな思い出を抱えただけで、健二は生きてきたの?今や、未来のことを考えてくものでしょ」
「あの頃以上にいい時代なんて、なかった。これからだって、ないさ」
健二は乾いた声で言い放ち、壁の煉瓦をいとおしむように撫でた。
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2004.10.04

小説・残光(仮)第三十六回

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 健二は言葉に詰まった。車が停まった。寺の長い塀が続く小路で、車も人も少ない。境内に生えている樹から雨のしずくが落ちてきて、車の屋根に重い音を立てた。
 美咲が、健二に顔を向ける。返事をしなければいけない、と健二は思った。
 そのとき、健二のポケットで携帯電話が、パッヘルベルのカノンを奏でた。
「はい、柳田・・・」
「ごめん、あたし、真那。悪いけど、すぐに来て欲しいんだ」
「なんだ?ひょっとして、駿と会ってたのか?」
「ええ。明日にはあたし、仕事だから、今日の新幹線で駿を連れて帰ろうと思って。で、昼ごはん食べながら、話してたんだけど・・・」
真那の声は動揺している。
「話は・・・決裂か?」
「駿、どうしても帰らないって言うから、あたし、頭にきて、彩夏って子に、駿の病気を教えてやるって、言っちゃったんだ」
「ばかなことを・・・」
健二は唇を噛む。真那の声が後悔に滲んでいる。
「駿は、真っ青になって怒って、店を飛び出して、どこにいったかわからないの」
「今、どこにいるんだ?」
「南禅寺の近く・・・」
「じゃあ、南禅寺の三門のところで待ってろ。すぐに行くから」
 健二が電話を切って、美咲の方を向いたとき、車はゆっくりと発車した。驚く健二が言葉を発する前に、美咲は言った。
「送ったげるし、シートベルトしとき。南禅寺なんて、目と鼻の先や」
それきり、美咲は健二を一瞥もせず、運転を続けた。
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2004.10.02

小説・残光(仮)第三十五回

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「家族でもないのに、医者が駿の病状を教えてくれたのか?」
ぶしつけな健二の質問にも、美咲は素直に答える。
「普通やったらな、絶対無理やったと思うわ。駿さんに代わって薬を貰いにきた・・・とでも言うて、その薬から病気を調べよう、思た。でも、担当のお医者が、ほんまに偶然やけど、うちの幼馴染やってん。京都は、狭いわ・・・正直に全部話したら、教えてくれたんや」
「原発性肺高血圧症、って聞いたけど」
「うん・・・原因不明で、肺の血圧がたこうなって、心不全になって死んでまう病気やって。百万人に一人とか言う、珍しい病気で、発症したら、二年か、もって十年。そんでも、最近、よう効く薬が出来てるそうなんやけど、駿さんにはなんでか・・・効かへんのやて」

 車は琵琶湖を離れ、京都へと戻った。美咲は東山通りの裏道に乗り入れる。雨が再び降り始めて、道行く僧侶も傘を広げている。
「お昼ごはん、どないする?もう、二時近いけど」
美咲がそう口にして、健二は空腹に気付く。だがあまり、食欲は湧かない。
「適当に・・・そうだな、もうこの辺でいいよ、降ろしてくれ。すまなかったな」
「謝る事あらへんよ、うちが物好きに付き合っただけやし」
照れ笑いのようなものを浮かべると、美咲は前を向いたまま、少し早口に言った。
「良かったら、うちと一緒に食べへん?そのつもりで、こっちに来たんやけど」
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2004.09.29

小説・残光(仮)第三十四回

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「なんで、俺なんかを待っていてくれたんだ?」
 健二の問いかけに、美咲は困ったように眉を寄せ、運転しながら、買ったばかりのペットボトルの緑茶をがぶ飲みする。
「・・・うちな、ちっちゃい頃、子猫、拾てん。雨の朝、よろよろ道を歩いとったんや。引っかき傷だらけで、目もよう見えてへんようやった。でかい野良犬が、その周りをうろついて、ヨダレ垂らしてるやんか。たまらずに、拾って帰ってん」
「親に、叱られただろう」
「うん。そんで、ばあちゃんが言うたわ。きっと、この子は、おおきゅうなっても、しょもないもんばっか拾て、苦労するやろ、てな」
 何か、しみじみと温かいものが、隣に座る美咲から伝わってくるような気がして、健二は深く息を吸った。美咲は慌てて打ち消すように、話し続ける。
「ほんまの事言うとな。あんたのこと、また胡散臭いヤツが彩夏に関わってきよったなあて、見張ってたんや。彩夏は・・・あの子もな、うちに似てる。京都のおなごのくせに、情が濃くて、ほんま、しょもないもんにひっかかって、捨てられへんのや・・・それでも、愛さずにおれへんのや。あんたが、あの駿さんの友だちやいうて、彩夏に別れさせに来たのやったら、しばき倒してでも追い返したる・・・そない、思てたんにゃけどな」
「しばき倒されなくて、よかったぜ」
健二は小さく笑って、ペットボトルをつかみ、のどを鳴らして茶を飲む。美咲は安定したスピードで湖岸をクルージングする。
「・・・彩夏は、うちが十七・八やった頃と、そっくりや。なんや、忘れてたもんを、いっぱい思い出させられる。さっきも、大人ぶって、あんな秘密めかした喫茶店に、あんた連れてったやろ。目いっぱい背伸びして、もろくて、危なっかしくて、でも、一生懸命や。駿さんと、あとどのくらい一緒にいられるか、分かれへん、言うのにな」
「知ってるのか?駿の病気のこと」
「彩夏に頼まれて、駿さんが通うてる病院に調べに行ったんは、うちやった」
 美咲は唇を噛み締め、ハンドルを握りなおす。
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2004.09.25

小説・残光(仮)第三十三回

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 膝を抱え、どこまでも広がる水面を見ながら、健二は時間の感覚を喪った。

 詩織と真那が、笑顔で木造の研究所の階段を上がってくる。
「スイカ、買ってきたよ!おやつにしよ!」
真那の明るい声が弾み、詩織が埃まみれの健二に、絞ったタオルを手渡す。健二と詩織は、どちらからともなく微笑みあい、詩織が小さな声で言う。
「今夜、バイトの休み、オッケーやったよ」
健二はみんなにわからないように、瞬間的にガッツポーズをして喜ぶ。
「じゃあ、また、八坂神社の石段で」
 研究所整理の仕事を仕舞い、銭湯に行って夕食を終えると、健二はなんとか駿をごまかして、宵闇の中を八坂神社に急ぐ。夜のバイトが休めるとき、そこで詩織が待っている。
 四条通を並んで歩き、鴨川のほとりに座ったり、河原町の喫茶店で珈琲を飲んだり・・・僅かな時間だが二人だけで過ごすかけがえのないデートである。
「いつか、琵琶湖でシヨウボートに乗ったり、しようか」
健二は、そんなことを口にしている。詩織は口数少ないけれど、きらめく瞳で、健二の言葉に頷いている。

 湖からの風が、健二の汗と涙を乾かしていった。雲の切れ間から射す陽射しが、いつしか琵琶湖の向かい・・・西側に回っていた。ひどいのどの渇きを覚えて、健二は立ち上がる。振り向いて、目を見張る。
 スダジイの根方に腰を下ろし、太くねじくれた幹に背中をもたせかけて、みさきはまだそこにいた。軽く目を閉じ、樹と一体になったように、少しも無理なところを感じさせない姿勢で、静かに座っていた。
「まだ・・・いたのかい?」
健二のためらいがちな声に、みさきは目を開け、かすかに微笑んだ。
「暑いな・・・のどからからになってもうた・・・なんか、飲むもん買いに行かへん?」

 ハンドルを握ったみさきは、ゆっくりと湖岸の道を行く。対岸の、岬のように突き出た地形を見て、健二はふと訊ねた。
「みさきって名前、どんな字を書くんだい?」
「美しく、咲く、やけど」「そうか」
「灯台とかのある、岬とちゃうで」「そりゃあ、そうだろうさ」
 なぜか、気兼ねなく言葉を交わしていることに気付き、健二は自分に驚く。同時にみさき・・・美咲への疑問が湧きあがった。
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2004.09.22

小説・残光(仮)第三十二回

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 みさきは頷いて、さらにスピードを上げる。三条通を東に突き進み、蹴上から山科へ、そして逢坂を越えて、大津へと突っ走った。疾走する車の振動が、健二には揺りかごの様に思えた。
 近江大橋を渡り、琵琶湖の東岸に出て、湖周道路を北上した車は、やがて汀の公園の駐車場に停車した。

「せせこましい京都がいやんなると、うちは、いつも湖を見にくるんや」
 そう言って、みさきは車を降りた。健二も助手席のドアを開けて、湖岸の砂を踏んだ。
 湖が、あった。
 曇天の下、砂浜には誰も人影はなく、水面がきらめいていた。
 みさきは、砂地にたくましく根を張ったスダジイの樹に寄りかかって腰を下ろした。
「ここで、ええか?」
「ああ・・・ありがとう」
 健二は呟き、水際へ歩いていった。
 かすかな波が、石くれを洗っているのを見つめ、目を上げて湖面をながめた。固く締まった砂に座り、空を仰いだ。
 光が、あった。
 生きている自分がいた。
 待ち続けた恋人の死を知って、空っぽになってしまった自分がいた。
 恋人にそっくりな少女に会って、もはや、恋人がこの世にいないことを、思い知った。
 待ち続けた日々が雪崩を打って砕け散って、健二は、ただ、泣いた。

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2004.09.20

小説・残光(仮)第三十一回

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 京都タワーに、健二は一度も昇ったことがない。大学に入学して早々、同級生の一人がタワー展望室から飛び降りて自殺したという事件があったからかもしれない。
 詩織の死で脳裏が埋め尽くされながら、健二は無意識に京都タワーの見えない道を選んで、闇雲に歩き続けた。自分が、詩織が戻ってくるのを待つために、ずっと、京都から離れられなかったことを、強烈に思い知っていた。無論、表層の意識の上では、詩織が帰ってくる可能性などゼロに等しいと言い聞かせていた。いろいろな職業に就いては、どれも長続きせず、それでも他の土地、郷里などに引っ越すことをしなかった二十年の月日。
(すべては、虚しかったのだ)
 鴨川のほとりの、川端通で健二は足を止めた。向かいの西岸には、並ぶ料亭が川床の準備を始めている。駿や詩織といたあの頃には、そこで食事をすることなど及びも付かなかったが、下働きの「男衆」のアルバイトをしたこともあった。
(でも詩織は、俺の知らない世界にいた。幼稚で世間知らずだった俺の)
 果てしない虚しさに胸を蝕まれて、健二はただ、足を運ぶ。鴨川の流れを上へとたどって、ほとんど人の歩いていない、炎熱の川岸を。
 不意に、健二の耳もとで、短く自動車のクラクションが鳴った。さほどの音量ではなかったが、脳天を貫かれたように感じ、健二はおびえた獣のように振り向く。
 車道からわずかに舗道に乗り上げるようにして、見覚えのある小型乗用車が停まり、助手席のウインドーが開いている。運転席から助手席側に身を捻じ曲げ、若い女が叫んだ。
「なあ、あんた、ちょっと乗ってくれへん?彩夏に頼まれたんやけどさ!」
 みさき、という名前だったと、健二は思い出す。ブルージーンズに黒いTシャツを着て、首に赤いバンダナをしているみさきは、ひどく真面目な表情だ。その目が、なぜか暖かな光を放っているのに健二は驚き、吸い寄せられるようにその助手席に乗り込んだ。
「頼まれたって・・・なんのことだ?」
走り出す車の中で、健二は訊ねる。的確なハンドルさばきで、前を行く車を何台も追い抜きながら、みさきは困ったように笑みを浮かべる。
「彩夏を送っていくとき、あんたを追い越したんや。あんた、なんかヘンな歩き方してる・・・って、彩夏が心配しよんねん。ったく、うちも、なんでこないなことせんなんやろ、思うたけどさ・・・彩夏を仕事場に届けて、なんとのう川端通流してたら、あんたがふらふら歩いてるやない・・・見て見ぬ振りも、彩夏に寝覚め悪いさかいな」
「それで?」
「あんた、行きたいところ、ある?そこまでつきおうたるわ」
 行きたい所・・・そんなところがあるのだろうか?健二は目を閉じてヘッドレストにもたれながら、考えた。だが、ひどい疲労感が頭を痺れさせ、何も思いつかない。
「・・・俺みたいなおっさんが、泣いていても人目に付かないところがあったら、そこへほっぽりだしてくれよ」
そう言い捨て、健二はさらに強く目を閉じた。
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2004.09.18

小説・残光(仮)第三十回

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 言葉をなくした健二に、涙に濡れた瞳を向けた彩夏は、怒りを帯びた声で言った。
「うちが駿さんの病気を知ってるいうこと、絶対ばらしたらあかんで」
「ちょっと待ってくれ、君は、その病気がどんな病気か知っていて、駿とずっと暮らしていくつもりなのか?」
「そうや。それがなんか悪い言うん?」
 再び沈黙した健二から視線を逸らし、彩夏はバッグから携帯電話を取り出し、二つ折りのそれを開く。
「あ、みさきさん?話はじきに終わるさかい、来てくらはる?うん、今熊野まで送ってくれればええ」
そこで一旦、携帯電話を顔から離し、彩夏は感情を殺した声で、健二に訊ねる。
「あんさんは、どないしはります?ついででよかったら、一緒に乗らはりますか?」
 健二は首を横に振った。彩夏はもう、健二を見ることなくみさきと短く会話し、通話を終えた。
「もう一つ、訊いていいだろうか?」
健二が遠慮がちに口にすると、彩夏は敵意に満ちた瞳のまま、じっと健二を見返す。
「詩織が、震災で亡くなったというのは、確かなのかい?」
「駿さんがしっかりそれは、確かめたいいます」
「君のご両親は?」
「聞くのは一つだけやなかったの?・・・まあええわ。さっきうちがした話のなかで、嘘はひとつだけや。詩織さんとうちが親子、言うところだけや」
 不意に、健二の胸が苦しくなった。詩織が死んだ・・・そのことを、やっと現実のものと認識したらしい・・・健二はそう、自分を分析しながら、歯を食いしばり、うつむいた。
「先に、行かせてもらうよ」
やっとのことで、それだけの言葉を言うと、健二はレシートをつかんで立ち上がり、彩夏に顔を見せないように、出口に向かった。
 その後姿を、彩夏は憎悪とも哀れみともつかない表情で見送る

 坂道を歩いて下るうちに、溢れ出した涙を拭おうともせず、健二はただ乱暴に足を運んだ。祇園祭の頃の、ひどい蒸し暑さは今日も変わらず、汗がシャツを濡らすが、身体は震えて冷たい。やがて坂は緩やかになり、涙に歪む健二の視界の中に、京都タワーがそびえた。
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2004.09.17

小説・残光(仮)第二十九回

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 彩夏は、深く椅子に腰を落とし、卓上のウエッジウッドの珈琲カップを意味もなくいじった。健二もまた、黙って青い清水焼のカップをとり、珈琲を啜った。
「なにか・・・すごくもろい橋を渡ってるんじゃないか?駿も君も・・・」
健二がささやくと、彩夏は途切れ途切れに話し始めた。
「駿さんが来はったとき、うちは・・・もう、どないもならへんことになってて、お金を稼ぐために、キャバクラ嬢になれ言うて、無理強いされてた・・・駿さんは、うちを助けに神さんが遣わしてくれたみたいに思えたんや。・・・さんざんお金を勝手に持ち出したおばあちゃんのうちには、帰れへん。友だちんトコを渡り歩くうちに、やばい連中に目え付けられて・・・」
 健二は(詩織はホステスやってた)と言った駿の言葉を思い出す。
「そやさかい・・・駿さんが、詩織言う人の娘かって聞かはったとき、思わず、うん、言うてしもた・・・そうせな、駿さんはうちを放ってどこかへいんでしまう・・・そう、思た」
 彩夏の肩が震えているのに、健二は気がつく。
「駿さんは、すぐに、あのうちを借りてくれはった。学校へも行かせてくれる、言わはった。うちは、勉強嫌いやし、駿さんに恩返ししたくて、働き始めた。今は、今熊野のスーパーでレジ打ってるんや。駿さんは、ほんまのお父はん以上に、うちを大事にしてくれはる。うちは、うちに出来ることは・・・詩織さんの娘になりきることや、と思うた」
 彩夏の瞳から涙がこぼれた。健二の胸に、あの頃の痛みが蘇った。
(詩織も、一度だけ、俺に涙を見せた)
 その痛みを振り切るように、健二は奥歯を噛み締める。目の前にいる、詩織そっくりの美しい少女を、さらにいたぶりたいという残酷な感情を抑えきれない。
「君は、駿に嘘をついていた。だが、駿も君に嘘をついているんだ」
「え?奥さんのこと?そんなん、知ってるよ」
幼い表情で反論する彩夏に、健二は追い討ちをかけようとして、辛うじて踏みとどまる。
「そうじゃなくて、からだの・・・いや、いい」
 健二の背中に冷たい汗が流れる。酷薄な暴露をしようとした自分に愕然とする。
 だが、彩夏の表情に変化が起きていた。強く唇を噛み締め、思いつめた顔つきで、少女は呟いた。
「げんぱつせいはいこうけつあつしょう」
「なに?!」
健二は、驚いて聞きなおした。
「原発性肺高血圧症。駿さんの病気や」
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2004.09.16

小説・残光(仮)第二十八回

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 健二は目を窓の外に向けた。雲間から漏れた陽光が、煉瓦壁に這った蔦の葉を瑞々しく輝かせる。
「駿は、真面目で引っ込み思案だけど、頑固なとこがあって・・・でも驚いたよ。仕事も家庭も捨てて・・・青春の残り火に息を吹きかけるなんてな」
 呟いた健二の言葉に、彩夏は目を強く輝かせ、少し乗り出してくる。
「うち、おかあはんのこと、あんまり知らへんのです。子供やったし、若い頃の話とか、なんも聞かへんまんまで・・・健二さんも、おかあはんのこと、好きやったんでしょ?」
「それを聞きたくて、俺をここまで連れて来たのかい?」
 頷く彩夏に、健二は目を閉じて、沈黙した。小さく流れていたバロック音楽のBGMが、部屋の中に満ちた。
「・・・祇園の、八坂神社の石段で、初めて二人だけで待ち合わせてデートをした。最後の約束も、あそこだった。詩織を俺は・・・ずっと待っていたんだ」
 彩夏の唇から、ため息とも、喜びの声ともつかないものが漏れた。
「話しておくれやす。おかあはんが、どんなものが好きやったのか、どんな風に暮らしてはったのか、どんな風に、恋をしやはったのか」
 健二は、すっ・・・と身体を前に倒し、彩夏に顔を近づけて、目を開いた。怯んで少し身を引いた彩夏に、健二の低い声が届く。
「初めてデートしたのはね、詩織の誕生日だったんだ。何月何日だったか・・・知ってる?」
彩夏は笑って、頷く。健二は視線を彩夏の顔に据えたまま、畳み掛ける。
「何月何日か、言ってみてくれ」
 彩夏は笑顔のまま、早口で言った。
「バースデープレゼント、きっと神戸の家にもあったんやろけど、震災でなんもなくなってもうて・・・」
「答えてくれないか」
健二が重ねて尋ねると、彩夏は、曖昧に笑いながら、首を横に振る。
 健二はしばらく、ゆがんだ微笑をたたえて彩夏を見つめ、やがてうつむくと、珈琲カップを手に取った。
「駿はね、嘘をつくとすぐわかる。あいつは、君の事を、詩織の娘だと本当に信じている」
「あの・・・」
哀願の表情で、彩夏は腰を浮かしたが、健二は容赦なく言い放った。
「でも・・・違うな。君は、詩織の娘じゃない。」
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2004.09.13

小説・残光(仮)第二十七回

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「ほな、話が終わったら、電話しいや。迎えにきたるさかいな」
 みさきがそう言って、洋館の車回しから、軽快に発車して去っていく。
 玄関にはとても小さな看板で、「喫茶ラグナロク」と出ていた。半円筒形にガラスが張られた一階窓際のテーブルに、彩夏は勝手知った様子で座る。
 サンルームのように明るい窓からは、谷を隔てて寺院の塔が見えた。清水寺の三重塔だと、健二は気付いた。
「こんなところに、店があるなんて知らなかったな」
「なんも宣伝してないお店ですえ。知り合いはまず、来いへんし、落ち着いて話できる思て」
 彩夏も健二も、緊張を隠せずに景色を眺める。珈琲を運んできたウエイトレスが下がると、健二は口火を切った。
「奥宮詩織・・・さん、という人のことを、知っているね?」
彩夏はまっすぐに健二の眼を見て頷き、ゆっくりと答える。
「はい、うちの、おかあはん、です」
「俺は、学生時代、詩織さんと付き合っていた。駿とは、その頃からの親友なんだ」
「ええ、駿さんから、そう聞きました」
「駿と君は、どうやって知り合ったの?」
 彩夏は、うつむいて珈琲カップを見つめ、表情を殺して喋った。

「震災で、うちが潰れて、おとうはんもおかあはんも助からへんかった・・・うちだけ、あん時、京都のおばあちゃんちに来てたんです。それからずっと、京都にいました。でも、いろいろあって、友達の家に泊まるようになって、わやくちゃな暮らしをしとったとき・・・駿さんがうちを探してきたんです。昔、うちのおかあはんを好きだったんで、気になって調べて、うちを見つけたんやて。一年位前やったと思う」
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2004.09.11

小説・残光(仮)第二十六回

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 助手席に座る少女の、僅かに見えるうなじや頬の白さから、健二は目を離せない。気配を察したのか少女が振り返る。その瞳を、眩暈がするような思いで見つめながら、健二は問いかけた。
「君は、奥宮彩夏さん?」
「はい。柳田健二さんですよね?」
「ああ・・・どうやって俺の携帯番号を知ったの?」
「駿さんの携帯を覗きました。えろう疲れて帰って来はったし、うちが携帯いじっても起きはらしません。まだ駿さん、寝てはります」
 言葉を交わすうちに、車の窓を打つ雨脚が弱くなってきた。東山の山襞を分け入り、道幅は狭く、坂になっている。
「ええと、運転してるかたは・・・」
健二が戸惑いがちに聞くと、彩夏より先にハンドルを操る本人が答えた。
「うちは、彩夏の友だち。あんたらを送ってくだけやし、別に名のらへんでもええと思うけど・・・まあ、ええか。みさき、言うねん」
 髪を短く切り、ぶっきらぼうな物言いのみさきには、ボーイッシュな雰囲気がある。長い髪を背に垂らし、白い肌が光る彩夏は、姉を見るような感じでみさきに視線を送っている。
 健二は、その彩夏に、強い違和感を感じ始めていた。その理由にすぐに気がついた。
(この子には、詩織と違うところがある。それがひどく気になるんだ・・・)
 ほとんどそっくりな顔立ちだが、決定的に違うのは、耳のかたち。丸く、二枚貝の殻を思わせていた詩織の耳たぶだが、彩夏の耳は、細くて上端が尖り、全体に三角に近い。そして、一番健二に違和感を感じさせるのは、
(声が、全然似ていない・・・)
 健二は目を閉じ、詩織の声を思い出している。あまり抑揚がなく、静かに話すその声は、細く幼かった。彩夏の声は、もっと艶やかで成熟している。
「あ、見えてきたねえ。おおきに、みさきさん」
 彩夏の視線の先を追う、健二の目に、瀟洒な洋館が映った。ほとんど雨はやみ、青みを見せる空を背景に、それは清冽に立っていた。
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2004.09.10

小説・残光(仮)第二十五回

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 翌朝、健二は雨の音で目覚めた。時計は午前九時を過ぎている。頭もからだも重く、起き上がるのにひどく気力が要った。
 昨晩遅く、駿と別れてから、いきあたりばったりに居酒屋で一人で酒を飲み、部屋に戻ると崩れ落ちるように眠ったのである。
(夢の中に、詩織が何度もでてきたかな・・・)
 ぼんやりと考えながら、水を飲んでいると、携帯電話が鳴った。
「初めまして、うち、奥宮いいます」
若い娘の声には聞き覚えがない。戸惑う健二に、娘は緊張した声で続ける。
「駿さんと昨夜、会ってはった、けんじさんでしょ?うちは、駿さんと一緒に住んでます・・・」
えっ!と健二は驚き、携帯電話を握りなおした。
「彩夏さん、ですか」
「はい。うちと、これから会ってほしいんですけど、ご都合はよろしゅおすか?」
「・・・かまいませんが、いますぐですか?」
「ええ。車で行きますから、場所教えておくれやす」

 傘を差して、通りに立っている健二の前で、雨をはねて一台の小型乗用車が停車する。運転しているのは、二十台前半かと思われる見知らぬ女性だったが、助手席に、忘れることの出来ない顔があった。濡れたガラス越しに、健二は詩織にそっくりの少女を凝視する。少女は、窓を開け、髪を濡らしながら叫んだ。
「どうぞ、後ろに」
ドアを開けて乗り込んだ健二は、車内にこもった甘い香りに少し怯みながら、右側の席へと腰をずらした。車は激しくワイパーを動かしながら、土砂降りの雨の中に発進した。
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2004.09.06

小説・残光(仮)第二十四回

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 夜空にそびえる塔を見上げて、健二は噛み締めるように言う。
「覚えているか?あの頃・・・今では信じられないくらい、寺や神社に、夜も自由に出入りできた。この塔の扉をこっそり開けて、登った夜のことを」
「無茶をしたよね、本当に・・・あの頃は、何でも出来た。何でもやれる力があると、信じていた・・・」
「その病気と、たたかって勝つ力があるとは・・・信じられないのか?」
健二の問いかけに、駿は笑顔で首を横に振る。
「治療法は、まだないと言っただろう?奇跡でも起こらなければ、治癒はしない」
「そのことを、あの子、彩夏は、知っているのか?」
駿は、凍ったような笑いを浮かべ続ける。
「彼女は知らない。知らないから、一緒に暮らせるのさ・・・わかるか?真那は僕の病を知っている。僕をいたわり、励まし、望みのない闘病生活に最後まで付いていてくれるだろう。真那は、そういう女性だ」
「わかるさ、真那は、そういうやつだ」
「だから、一緒にはいられないんだ。苦しいんだよ、辛いんだよ、真那の目を見るのが」
健二は、唇を噛み締めて駿の顔を見つめ、何も言えずに右拳を左の掌にたたきつけた。駿は歌うように言葉を続ける。
「真那といると、四六時中病気のことを意識して、息が詰まるんだ。何も知らない彩夏と、そのときが来るまで、病気のことを忘れていたいと思って、僕は京都に来た。身勝手だろ?でも、それが正直な気持ちなんだから、しかたがない」
 しばらく沈黙して、月を見上げていた健二は、呻くように言った。
「畜生、なんで、おまえ、酒が飲めないんだよ。こんなときは、一緒に酔っ払って、二・三発殴り合って、鴨川を渡りでもしなきゃ、やってられないぜ・・・」
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2004.09.02

小説・残光(仮)第二十三回

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 くすっと、健二が小さく笑った。駿はぎくりとした様子で口をつぐんだ。
「お前、昔と変わらないよ・・・嘘をつくとき、決まって『ふん』って言ってからつく」
健二は立ち上がり、駿の肩をつかむ。
「何を隠してるんだ?俺の聞いたことに答えていないじゃないか?なあ、二年前に何があったんだ?」
健二の強い視線を避けて、駿は顔を捻じ曲げた。
「・・・つまらないことさ、専門家以外誰も読まない学術雑誌の編集長なんて仕事に嫌気が差したんだ。社長とこじれて・・・」
健二の腕は駿のポロシャツの胸倉にかかり、腰掛けている駿を引きずり起こす。
「おい!殴るぞ!あれだけ、詩織の真実をさらして、俺をぼろぼろにしておいて、自分のことは隠すのか?」
 唇を噛み締めて駿は健二を至近距離で見返す。健二の目に涙が滲んでいるのを見て、駿は大きく目を見開く。強張っていた駿の体から、力が抜けていく。
「君も・・・昔と変わらないんだな・・・すねて醒めてるような振りをして、実は誰より純情で一直線なんだ」
 健二が手を離すと、駿はよろけたが、立ち直り、月を見上げて一気に喋った。
「二年前にね、定期健診で異常が見つかったんだ。何回か検査を受けたけれど、医者は病名を教えてくれなかった。でも真那は聞いていた。僕は真那を問い詰めて聞き出した。日本で何人もいない、難病なんだってさ。治療法はまだない。余命は大体、五年くらいだって・・・」
 のどに痰が絡んだらしく、そこで駿は咳き込んでからだを折る。健二は言葉もなく駿を見つめた。
「な、わりと単純な話だろう?あと少ししか生きられないとわかったんで、心残りになってたことを、やろうと決意したのさ。そうでもなければ、僕みたいな気の小さい男が、こんなことできるかよ!」
無理やり笑う駿の顔が、月光を凄愴に映す。
 健二はしばらく沈黙していたが、やがてぽつりと訊ねた。
「駿・・・俺を追ってだいぶ歩いてきただろう?からだは大丈夫か?」
「ああ・・・まだ体力筋力はあるのさ。今は病人扱いしなくていいよ」
「なら、少し歩かないか?」「いいよ。月が綺麗だしね」
 琵琶湖疎水を渡り、南に向かい、円山公園を抜けて、二人は八坂の塔が見えるところまで、肩を並べて黙って歩いた。
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2004.09.01

小説・残光(仮)第二十二回

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 駿はさらに冷徹に言葉を継いで行く。
「詩織が行方をくらましたとき、健二、君はロマンチックな推測を言っていたな。南方の戦地で行方不明になった楠本教授と、詩織はなんらかの関係があったんじゃないかとか・・・年齢的には教授の孫娘あたりか・・・そうやって幻想を紡ぐことで、君は詩織を免罪し、永遠に自分のものにしていたのかな」
 親友の顔を、健二は仇を見つめるように睨み付ける。しかし駿はたじろがない。
「君はそうやって京都に残った。この街は不思議なところで、思い出だけとでも生きていける。けれど、僕と真那は、卒業して東京に行き、やがて結婚した。君も祝福してくれたね。でもすぐに僕は気がついたんだ。真那は、東京で生活はしているけれど、心は京都と君に向かっているって。そうさ、真那はずっと君が好きだった。今もそうさ」
 駿は微笑んだ。表情が崩れると、その顔には衰弱した色が濃くなる。
「真那は思い出の君が好きなんじゃない。常に現実の君を求めている。僕は、自分に素直になることで、真那の気持ちもわかったのさ。そして、こういう行動に出た。僕は詩織の娘と暮らし、真奈を君の元へ送ろうってね」
 健二は、大きく息を吸い、唇を噛み、何度も頭を振り、自分を落ち着かせようとしている。
「二年前に仕事を辞めて、詩織の行方を捜し始めたって、そう言ってたな?」
ようやく吐き出した健二の言葉に、駿は頷く。「そのとおりだ」
「なにがあったんだ?二年前に?」
健二の問いかけに、駿はふん、と鼻を鳴らして笑った。
「僕のことを、みっともないと思ってるだろう?年甲斐もなく若い娘に血迷ってるって。それはわかってるさ」
駿は背中を反らし、大きく伸びをしながら顔をしかめた。
「僕は、日本の淡水魚が好きでね。よく水族館に見に行く。地味な魚が多いんだが、婚姻色といって、繁殖を迎えた個体は、素晴らしく艶やかになるんだ。人間だってそうだ。あの頃の僕たち・・・そうさ、詩織といた君や僕は、きっと人生で一番輝いていたに違いないんだ・・・その輝きの残光を、僕も味わってはいけないのか?」
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2004.08.31

小説・残光(仮)第二十一回

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 駿の言葉の衝撃から、身を守るように拳を固めて、健二は反論する。
「それが・・・真実だったとしても、俺たちと詩織が過ごしたあの日々は、かけがえのないものだったさ」
 駿は嘆息して、言葉を続ける。
「そうさ、君は詩織に愛された。それは確かだろう。でも詩織は、僕たちの前から去っていった。汚名を晴らすこともなく、姿を消した。真那が言っていたとおり、それは、僕たちへの最大の裏切りだった」
 汚名、という言葉に、健二は思わず目をつぶる。

 あの夏、楠本蝶類研究所の整理・解体を終えても、六人の仲間は週末や休日によく集まり、映画のオールナイトを見に行ったり、琵琶湖にハイキングに行ったりしていた。竜生は露骨に景子に好意を見せていたが、お嬢様然とした容姿と裏腹に豪快な性格の景子に振り回されていた。真那と健二は喧嘩友だちのようにしながら、親しく付き合っているようにみんなから思われていた。駿は内気で、健二の跡を付いて歩いているようだった。詩織はなかなか付き合いに出てこなかったものの、たまに参加すると無垢な笑顔で健二と駿を魅了した。そして健二は、密かに駿を出し抜いて、詩織に愛を告げた・・・
 そんな日々に亀裂が入ったのは、翌年の三月末である。春川教授から、困った問題が生じていると六人に呼び出しが来た。
「『楠本コレクション』と称する蝶の標本や古書が、高価な値段でコレクターに売買されている、というのだよ。なんとも理解しがたい話だ。あの建物にあった資料はすべて君たちが整理し、うちの大学の倉庫に納めたはずだろう?」
春川教授の猜疑心に満ちた視線を浴び、健二たちは愕然とした。
 冗談で「この図鑑類、古本屋に持っていけばたいしたもんだぜ」などと言い合っていた覚えはあった。しかし、それを実行することは誰も考えてもいないと、健二は信じていたのである。

「僕たちは、断固潔白を主張したよな。詩織も、知らないと言い張った。みんな、大学の倉庫に入ってから誰かが持ち出したのだと思いたかった。でも、そんなときだ、詩織に貸した音楽テープが、ゼミで発表する民話蒐集のテープと間違ったと気付いた真那が、焦って聖園女子大学に連絡をした。そして、詩織が偽学生だとわかった」
 そのことを真那から知らされたとき、健二は輝く季節の終わったことを感じたのだ。怒りと悲しみの炎が景色を染めていくと。
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2004.08.28

小説・残光(仮)第二十回

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 健二も、駿の横に腰を下ろす。しかし、様々な感情がせめぎあって、言葉が出ない。それを知ってか知らずか、駿は眼鏡に月光を映しながら、静かに話し始める。
「僕も君も、詩織に惹かれていたね。寡黙だけれど、頭がよくて、どこか謎めいた雰囲気があった。わざと目立たないようにしているんだけれど、時々、はっとするくらい美しい表情をする。真那と同じ女子学生専門のアパートにいた。家主には、聖園女子大の二回生だって、学生証を見せていた。あのアパートに、聖園の子はいなかったな。真那も景子も違う学校だったし、誰も偽造学生証だなんて気がつくはずがない。どうして、そんなことをしていたか、わかるか?」
 健二は、うめくように答えた。
「それだけは、詩織が教えてくれたよ。養われていた家から逃げ出して、ひとりで生活したかったんだと」
「うん、そうだ。そして詩織の家というのは、神戸にあったんだ。僕も君も京都の人間じゃないからわからなかったんだが、彼女の言葉は、神戸なまりがあったそうだよ。で、その家というのは、詩織の叔父の貿易商だった。彼女の両親は交通事故で亡くなって、叔父夫婦に世話になっていたんだ。ところが、高校二年の春に、彼女は家出をして京都に来た。」
「どうやって、お前、それを知ったんだ?」
健二が、憎しみに近いまなざしで駿を見る。駿は顔色を変えない。
「アパートを借りるには、学生証だけじゃ足りない。保証人が要る。家主の竜生のおばさん、まだその頃の書類を持っていてね。その保証人のところへ行ってみてわかったのさ。詩織は保証人を金で買ったんだ。そういう商売がどの街にもある。偽造身分証、保証人、大金はいるが、買うことが出来るのさ」
「でもそんな金、詩織はどうやって・・・」
 健二が尋ねると、駿の顔に苦悩の表情が表れた。
「詩織は、バイトばっかりしてると言ってたよな。夜も忙しそうだった。僕たちは、せいぜい居酒屋あたりのバイトだろうと思っていた。大違いさ。詩織は、ホステスやってた。あの頃の僕たちが到底飲みに行けない高級な店でね。学生証や保証人の代金として、働かされていたんだよ」
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2004.08.26

小説・残光(仮)第十九回

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 健二は、何かが頭の中で炸裂したような気がした。
「もう、十年近くも前に、詩織は死んでいたのかよ・・・俺がただ間抜けに京都で生きている間に」
乱暴に椅子を鳴らして健二は立ち上がった。真那がその腕をつかもうとする。健二は反射的にそれを払いのけた。
「それで、それで彩夏というあの子は、詩織の・・・娘なのか?」
睨みつける健二の視線の先で、駿は小さく頷いた。
 健二は言葉にならないうめき声を上げて、よろめきながら店を飛び出した。真那の声と下駄の音が後を追ったが、駆ける健二にたちまち引き離された。

 どこをどう走ったのか、健二は、月光を浴びる京都市美術館の前にたどり着いていた。鴨川を渡ったことも覚えていない。ひと気のない広い前庭に入り込み、西洋建築に日本風の屋根をつけた不思議で巨大な建物を見上げ、そして月を仰いで、健二は歯を食いしばっていた。脳裏には、詩織の面影だけがあった。
 遠い車の喧騒にまぎれて、かすかに足音が近づいてくる。やがてそれは健二に近づき、ゆっくりとやんだ。月の影を引きずって、駿がやってきていた。
「追っかけるのに苦労したけど、ここにいるような気がしていたんだよ」
駿の呟きに、健二は月を見たまま言う。
「真那は・・・どうした?」
「タクシーに乗せて、宿に帰ってもらったよ。丁度良いさ、君と二人で喋りたかったんだ。話はまだ続くんだ」
駿は無表情にそう言うと、健二の傍らで、石造りの低い階段に腰を下ろした。
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2004.08.21

小説・残光(仮)第十八回

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 真那が憤然とテーブルを叩いた。
「なんなのそれ!最低だわ。詩織は・・・裏切ったのよ、私たちみんなを!それを、ずっと追いかけていた?」
 軽蔑の視線を投げる真那に、駿は昂然と背中を反らす。
「ああ、僕は自分の気持ちに正直になることにしたんだ。詩織が好きだった。悔いを残したくないと思った。君を裏切ることになっても、僕は詩織をもう一度つかまえようと思った」
「それで、詩織そっくりの若い女の子をつかまえたわけ?いい気なことね」
 唇を噛んで、健二が割って入る。
「待てよ、はっきりさせてくれ。彩夏という子は、何者なんだ?詩織と関係は、あるのか?」
「順序良く話そうと思っているのに、真那が邪魔するからさ」
澄ましてまた、アイスティーに口をつける駿に、真那は悔しそうに言葉をぶつける。
「いつからなのよ?私に黙って、こっそり詩織の探索なんて始めたのは?」
「仕事を辞めた時からさ」
さりげなく言った駿の言葉に、真那は沈黙した。
「なにせ、もう時間が経ちすぎてて、手がかりをつかむのにえらく苦労したよ。でも、糸は見つかった。たぐると、神戸に行きついた。詩織は、神戸で結婚し、家庭を持っていたよ・・・」
駿は、眼鏡の奥で目を伏せ、静かに語り続ける。
「夫はサラリーマンで、娘が一人生まれていた。詩織は専業主婦だったらしい。目立たない、静かな暮らしぶりだったみたいだな」
「だった、だったって・・・全部過去形なのね」
真那が顔を曇らせる。健二の顔色も変わった。
「ああ・・・詩織の家は、阪神淡路大震災で、燃えたんだよ。消えてしまったのさ。詩織はもう、いないんだ」
深い嘆息と共に呟かれた駿の言葉に、健二は茫然としていた。
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2004.08.20

小説・残光(仮)第十七回

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 狭い間口に比べてやたらと奥行きの長い、いわゆる「鰻の寝床」のような店で、いくつもの独立した個室の土間にテーブルが置かれていた。酒を飲まない駿はアイスティーを注文し、健二と真那はビールを頼んだ。
 飲み物が運ばれてきてから、駿が口火を切る。
「きっと、二人で来ると思っていたんだ。君たちは・・・似合いの二人だよ」
「なにを言い出すんだ?そんなことより、お前が一緒に暮らしてる女の子は・・・」
息せき切って話し出したが、健二の言葉は淀む。すかさず駿が笑いを見せた。
「彩夏っていうんだ。もうすぐ十八歳になる」
「どういう子なの?どうして、あんなに・・・詩織そっくりなの?」
恐れの色を目に浮かべて、真那が訊ねた。駿はアイスティーを口に運び、視線を遠くに向ける。
「君たちもやっぱり、詩織に似ていると思うんだね。僕もあの子を最初に見たときは、目を疑ったんだ。僕らの前から消えてしまったときのままで、詩織が時間を飛び越えてやってきたのかと震えたよ」
健二と真那は、固唾を呑んで次の言葉を待つ。焦らすように駿はまた、笑顔を見せる。
「もちろん、彩夏は詩織じゃない。でも、僕らが会ったときの詩織も、十七歳だったんだよ、覚えているか?」
「そうよ・・・誰も彼女がまだそんな歳だなんて思わなかった。年齢も戸籍も、嘘を言ってあの学生アパートにいたんだもの」
真那は、恨むように唇を噛む。
「詩織という名前さえ、本名だったかどうか、わからないんだ」
健二も重い口を開いた。駿がそんな健二に挑発的な視線を浴びせる。
「君は、何もかもあやふやなままにして、詩織を美しい偶像として守り続けているんだろう。詩織に愛されたことを宝物にして、詩織が愛したこの京都で」
「何が言いたいんだ?」
いぶかる健二に、駿は勝ち誇ったように唇を曲げる。
「僕は、詩織を追ったんだよ。彼女の足跡を猟犬みたいに嗅ぎまわり、本当の姿を知り、居場所に近づいていったのさ」
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2004.08.12

小説・残光(仮)第十六回

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 インターホンや呼び鈴など何もないので、健二は格子戸を拳で叩く。テレビの音のする家の中から、若い女の声が返ってくる。
「はい、どちらさん?」
 詩織の声ではない、と自分に言い聞かせながら、健二は声を絞り出す。
「柳田、といいます。こちらに、塩澤君は、おられますか?」
しばしの沈黙の中に、室内に立ち込める緊張が、健二には感じられる。狭い路地は風もなく、蒸し暑さに健二の首筋に汗が流れ落ちる。
 格子戸の向こうに、黒ふち眼鏡の白い顔が浮かんだ。角ばった顔の輪郭に、眼鏡の奥の理知的なまなざしは、少しも変わっていない、塩澤駿。しかし、その頭にはあまりに白髪が増え、目の翳りが深いのに、健二は息を飲む。
「駿、おまえ・・・」
健二の声をさえぎって、駿は低く、鋭く言った。
「健二が来るような気はしていたんだよ。真那は、一緒か?」
うなづく健二に、駿はため息をつきながら、格子戸を開け、踏み出す。その背中に、若い女の声が響く。
「どこいかはるんや?」
「大丈夫だ、学生時代の友達だよ。僕から連絡して、飲みに行こうかって言ってたんだ」
 迷いのない身ごなしで、駿はサンダルを突っかけて戸を開けた。そして、健二の先に立って歩き出した。

 祠の前に、真那は固い表情で待っていた。駿は眉間に深く皺を寄せつつ、歩みを止めずに言う。
「この先に、ゆっくりできる店があるから・・・行こう」
 無言で、駿のあとを歩きながら、健二は意外に思っていた。
(駿は、いつも、俺のあとについて行動する奴だった。俺が、駿の背中を見て歩くなんて・・・初めてだ)
 程なく、石畳の路上に行灯のような灯かりを置いた静かなたたずまいの店が見えてきて、駿はその暖簾をくぐる。
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2004.08.07

小説・残光(仮)第十五回

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 健二は駆けた。真那も、下駄を鳴らして必死に付いてくる。路地に踏み込むと、ほとんど軒を接するような狭い道は袋小路になっていて、両側には長屋じみた小さな二階屋が並ぶ。その一番奥の一軒の格子戸が、軽い音を立てて閉まった。健二は胸の動悸を抑えながら歩み寄り、表札を探す。暗くてなかなかわからなかったが、やがて、名刺大の紙片に、「奥宮」とサインペンで書いて、格子戸の枠に押しピンで刺してあるのを見つけた。
 立ち尽くす健二の脳裏に、詩織の面影が溢れるように蘇っていた。
(初めて彼女に会ったとき、俺は、弥勒菩薩や聖母マリアを連想した。華やかなところはなかったけれど、清らかで透き通るような面差しだった)
 詩織の写真は、ほとんど残っていない。あの時から何年もあとになって、街角に張ってあった語学講座のポスターに、彼女にとても似たマリア像の写真があった。数日経ち、雨風に打たれて路上に落ちていたそのポスターを、健二は拾って帰り、部屋の壁に貼っている・・・
 下駄の音を殺しながら、真那がやってきた。その張り詰めた表情を見て、健二はとっさに言った。
「真那は・・・さっきの祠の前で待っていてくれないか?俺が、駿を連れ出す。とりあえずは、三人で話した方がいいと思う」
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2004.08.04

小説・残光(仮)第十四回

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 車を降りた大通りから、裏小路に踏み入り、葉書の住所を目当てに歩く。どうしても真那の足取りは重く、遅れがちになる。見兼ねて健二は言った。
「真那は、その辺の喫茶店にでも入って待ってた方がいい。俺が見つけて駿を引っ張ってくるから」
「でも・・・」
言いよどむ真那は、ふとまなざしを上げた。その視線の先に小さな祠があり、明かりが灯っている。周りには木々が繁り、住宅地の真ん中でありながら、不思議な深山のような雰囲気があった。
 そして、その祠の前を、一組の男女が通りかかる。やや背の低い、がっちりした体躯の男に、すらりとした少女が寄り添って、腕をからめている。その二人の顔を見た真那の目が、大きく開かれた。同時に健二も我が目を疑っていた。
 ポロシャツを着て、白皙の顔に黒ふちの眼鏡を掛けた男は、塩澤駿に間違いない。そしてその傍らにいる少女は・・・
「そんな馬鹿な!詩織が、あの頃のままの詩織が!」
健二は驚愕に絶句し、真那は眩暈を起こしたようによろめいて、街路樹にすがりつく。祠の神燈に横顔を浮かび上がらせた少女は、健二たちに気付かず、駿の腕を引っ張って、横丁に姿を消した。
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2004.08.02

小説・残光(仮)第十三回

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 タクシーに乗り込んだ健二と真那は無言である。車の外には繁華街の灯りが流れていく。
 暑中見舞いに記されていた、奥宮彩夏という女性の住所は、健二一人だったら歩いていく位の近さにある。タクシーなら初乗り料金で間に合うだろう。
 沈黙の中、健二は駿のことを思った。健二とは同じ大学の同期生で、入学当初、寮で同室となった。駿が青森の出身で、健二は長野県。関西弁が圧倒的な環境の中、違うアクセントで喋る二人はすぐに親しくなった。冬になるとそれぞれの郷里から林檎が届き、お互いに相手の林檎をけなしあったりもしつつ、無二の親友となっていった。専攻は違っていたが同じ学部であり、二回生になってそれぞれ別の下宿に移っても毎日のように会っていた。三回生の夏休み、二人とも帰省しない夏は初めてだった。そして、あのアルバイトに向かった。
(集まった六人、みんながみんなを最高の友達だと思った・・・でも、俺と駿は、詩織に異性として惹かれていった)
 回想にふける間もなく、タクシーは目的地に近づく。健二は運転手に停まる場所を指示して、財布を取り出した。
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2004.07.31

小説・残光(仮)第十二回

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「あ、ほんとだ、鼻緒でこすれて水泡になってる・・・薬屋が確か開いてたから、バンドエイド買おう・・・」
うつむいて、真那の足を見ていた健二の肩に、しっとりした重さが加わった。それは最初、おずおずと、そして急によろめくほどの勢いで、健二にしがみついてきた、真那の重さだった。
「わたし・・・やっぱり、駿に会いたくないよ。頭の中が、ぐちゃぐちゃだよ。きっと、駿の顔を見たら爆発しちゃうよ」
 健二のシャツに、熱い涙が滲みて来た。健二は驚いて真那の顔を見る。その視線を避けるように、真那は健二の肩に顔を埋めて、しゃくりあげている。そんな真那を見るのは初めてで、健二は茫然としていた。
 だが、服を通して肌に滲み込んで来る涙の感触には、不思議な懐かしさがあった。
(そうだ・・・あれは、知恩院の山門の下だ・・・)

 あの少女、秦詩織(はた しおり)と、あてもなく東山界隈をうろついて、深夜、山門にたどり着いて、月を仰ぎながら語った夜。詩織も、健二の肩に顔を押し当てて泣いた。あの時、健二はただ甘美な喜びを味わっていただけだった。
なにもわかっていなかった自分を、その後、何度健二は悔やみ、罵倒し続けただろう。月光を浴びて浮かぶ巨大な山門を何度夢に見て、泣きながら目覚めたことか・・・

 真那は、声を殺して泣き続け、健二はただ、じっと真那を支えていた。やがて、真那の息が落ち着いてきて、涙の熱さが冷えてきたとき、健二は静かに言った。
「もう、大丈夫か?行けるか?駿のところへ」
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2004.07.30

小説・残光(仮)第十一回

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 健二の脳裏に、鮮やかに浮かび上がるのは、あの夏の鮮烈なまぶしさだ。獰猛なまでに繁茂していた研究所周りの草を引き抜き、埃まみれになって建物内部の掃除をした。最初の日は弁当や缶ジュースを買ってきて食べたが、二日目には駿が登山用の灯油コンロを持ってきて珈琲を淹れた。真那が張り切って炊き出しをするようになり、さながら研究所は合宿所のようになっていった。二階の一番風通しのよい部屋を真っ先に片付けて、休憩室にしたのだ。ついには健二や駿はそこに泊まるようになり・・・
「作業が終わると、みんなで銭湯に行って、それからよく鴨川まで涼みに行ったね」
「それで、酒買って帰って、そのまんま泊まったんだ。一ヶ月だけの、俺たちの城だったな」
「あの、汚くて臭いソファで、よく寝れたよね、健二。朝行った私が、足を蹴飛ばして起こすのが日課」
「あの研究所、おれたちにとっちゃ、お宝の山でさ、ランタンの明かりで夜更かししてたんだよ」
 業者を雇って一気に潰してしまえなかったのは、研究所の蔵書や標本の価値を無視できなかったせいだ。実際、埃を拭ったガラスケースの中に、まだきらめきを失っていない南国の蝶の翅が輝いたときには、健二は息を飲んだ。
竜生はドイツやフランスの生物学の古書・図鑑に夢中になっていた。駿は膨大な古写真のコレクション整理にこつこつ取り組んでいた。
「真那たちは、何が面白かったんだ?」
「私は・・・片付け魔だから、とにかく全部片付けないと気が済まなかったのよ」
 ともすると、資料にのめりこんでしまう男子たちを叱咤して、女の子たちは掃除と整理、廃棄に邁進した。
「よく駿が怒っただろ?真那や景子が大事な資料を捨てちまったって」
「これ捨てていい?って聞いた時には、彼はうんって言うのよ。でもそれ、上の空なの。あとから気がついて慌てるんだ」
 笑いながらそう言った真那が、不意につまづいてよろめく。痛みに顔をしかめてしゃがみこんだ。
「しくじったわ・・・慣れない下駄の鼻緒で、まめを作っちゃったみたい」
「ちょっと見せてみろよ」
かがんだ健二は、真那のうつむいたうなじの白さに、どきりとする。彼女の髪の香りを吸い込んで、さらに胸の動悸が高くなる。
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2004.07.29

小説・残光(仮)第十回

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 真那の下駄の音を聞きながら、健二はゆっくりと歩を進め、独り言のように喋る。
「俺たちが出会ったのも、夏だったよな・・・。まだ、誰の下宿にもエアコンがなくて、夏休みには、実家に帰るか涼しい避暑地で住み込みのバイトに行く奴が多くて、京都に残って、あんな割の悪いバイトに応募した俺たちは、みんな変わり者だった」
「楠本蝶類研究所の、解体整理、だったよね。たったの六人で、結局夏休み中かかって・・・」
 それは、国立大学の広大な敷地の片隅にあり、閉鎖されることが決まった一つの建物の、取り壊しと整理のアルバイトだった。研究所といっても、楠本という教授が、戦前から戦中にかけて、台湾や南洋諸島で蒐集した蝶類の標本が納められた、小さな博物館のようなものである、楠本教授は戦後ほどなく行方不明になり、ほとんど誰にも省みられずにいた建物を、その年、取り壊すことが決まり、責任者となった生物学の教授が、安上がりに学生を集めてやらせようとしたのである。
「直接関係あったのは、あの大学で生物学やってた竜生だけだったな。事情知ってる奴はみんな逃げたんだ。うちの大学の学生課に貼ってあったバイトの求人ビラ見て、俺と駿がのこのこ出かけ・・・」
「竜生のおばさんがやってた女子学生アパートにいた、私と・・・詩織が」
 その少女の名前を口にしたとき、真那は少し顔を曇らせ、健二もまた、唇を噛んだ。だが、すぐに何事もなかったかのように回想を続ける。
「そういや景子は、なんであのバイトに来たんだっけ?」
「やだ、忘れたの?景子はあの生物学の春川教授の娘で、あんたたちが逃げ出さないための”エサ”だったんじゃない」
「ひでーことを言うな。でも確かに、最初は逃げ出そうと思ったぜ」
健二は笑い出した。お嬢さん学校で知られる四年制女子大にいた景子は、あの最初の日に、華やかな美貌を不機嫌にゆがめてやって来た。 そして、錆付いた鍵を開けて、薄暗い木造の建物に足を踏み入れ、健二たちも茫然としたものだ。凄まじい埃、蜘蛛の巣、床にはネズミの糞、床板を突き破って天井まで伸びた竹、おびただしい標本箱のなかで朽ちかけた蝶の屍骸・・・
「竜生が結局、責任者みたいなものだったよね。春川教授や大学院生たち、最初の一日でへばっちゃってさ」
「ああ、俺たち六人で燃えたんだ。妙なくらいみんな気が合って、『黄金の六人』って、自分たちで言ってさ」
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2004.07.27

小説・残光(仮)第九回

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 健二は葉書のおもての方を見た。驚いたことに、差出人の住所が堂々と記してあった。
「・・・こりゃ、大胆だな」
「来るなら来いって、言ってるのよ。挑戦状だね」
 酒を飲み干すと、真那はカウンターに手を突いて立ち上がる。

 錦小路はひと気が失せて、石畳に撒かれた水が光っているばかりだ。かなり長身の真那は、下駄を履くと肩が健二と同じ高さに並ぶ。酔いの気配も見せず、しっかりした足取りである。
「歩いていくには、ちょっと遠すぎるな、タクシーを」
「ちょっと待って。もう少し錦小路を、歩いていかない?」
 真那は低い声で言う。横顔が緊張している。駿に会うのを、まだ先延ばしにしたい気持ちがあるようだと、健二は察した。
「浴衣姿なんて、初めて見るけど、馬子にも衣装だな」
「失礼しちゃうな。まあ、学生時代はジーンズばっかりだったしね。宵山だって、そんな格好で来てたし」
 祭礼の提灯の掲げられた下を、ゆっくりと歩く。鮮魚店の軒下から、黒猫が走って通りを横切った。
「よく歩いたよな、あの頃はみんなで。オールナイトの映画見て、下宿までとかさ」
「祇園から、金閣の近くまで歩きとおしたこともあったよね。無茶苦茶やってたんだなあ」
真那が懐かしそうに微笑む。
 健二も思い出す。自分と駿が同じ大学の三回生で、真那が女子短大の一回生だった。そしてあの少女は、真那の下宿に一緒にいた。それから・・・
「竜生や景子は、元気にしてるのかな」
「年賀状は来るもんね・・・」
「確かにな。でも、ほんとに元気かどうか・・・駿だって年賀状じゃ、仕事辞めたなんて一言も書いてなかったじゃないか」
 駿の名前を出すと、真那の顔から笑みが消える。
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2004.07.26

小説・残光(仮)第八回

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 祇園祭の季節、どの店に行っても鱧(はも)は付き物である。豊潤に脂の乗った白い身を噛み締めながら、健二と真那は冷えた日本酒を酌み交わす。
「真那は、昔から飲んでも全然顔に出ないんだよな。駿とは正反対だ」
「彼はすぐ真っ赤になって寝ちゃうからね。飲み歩くのは私ばかり」
「真面目で堅物のあいつが、何で家を出たりしたんだ?」
健二が問いかけると、真那は、切子ガラスのぐいのみをあおった。
「そうよ、真面目で、堅物で、気が小さくて、でもね、ものすごく頑固でプライドが高いの。とても潔癖でね。そんな彼が・・・若い女の子と京都で同棲するために、家出したのよ。信じられる?」
一気に言い切った真那の言葉に、健二は目を丸くする。
「なんだ、そりゃ・・・誰かが見たのか?京都で、あいつを?」
「こんな、ふざけたモノを送ってきたのよ・・・」
真那は、バッグの中から一枚の葉書を取り出して、カウンターに置いた。
 くじ付きの暑中見舞いである。絵柄は祇園祭の鉾が印刷されている。ボールペンで書かれた子供じみた丸っこい字で、こう綴ってあった。
「塩澤真那様
 突然のお便りで申し訳ありません
 駿さんは、京都で私と暮らしています
 ご心配なさってると思って、お知らせします
 でも もう東京に 駿さんは帰りません 
 ずっと私といてくれます
 ごめんなさい 
                     奥宮彩夏」
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2004.07.23

小説・残光(仮)第七回

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 驚いて健二は真那に、矢継ぎ早に問いかけた。
「待てよ、駿のやつ、仕事はどうしたんだ?あいつ、編集長だっただろ?家を出たって・・・行方不明だったのか?京都にいるって、どうしてわかったんだ?」
 真那は片手を挙げて、健二の質問をさえぎり、首を横に振る。
「仕事はね・・・いろいろあって、一年前に辞めたのよ、駿。家を出てからは、ほんとに音信不通。だって、携帯電話さえ置いて行っちゃったのよ。家の貯金を、きっちり半分持って行ったわ。・・・ねえ、あとは、夜に会って話すから、今は待って」
「夜?」
 健二が眉をひそめて聞き返すと、真那は沈んだ表情で頷いた。
「今夜、駿の居るところへ一緒に行って欲しいの」

 宿に荷物を置き、夜まで休憩するという真那を送って、健二は民宿まで一緒にタクシーに乗った。降りた場所は御幸町通錦小路上ル。新京極や錦市場の賑わいに隠れた、ごく普通の町屋で、看板も何もない宿だ。馴染み客だけを相手に細々と営業を続けている。
「じゃ、今夜七時に、ここへ迎えに来て」
そういい残して真那は、格子戸の向こうに消えた。

 祇園祭の宵山まで、あと数日だと、健二は夕暮れに町に灯った提灯を見て気付く。どこからか、祇園囃子の音色が聞こえてきた。
 古ぼけてはいるが、よく手入れされた玄関の格子を開けると、老女の話し声と、相槌を打つ真那の声が耳に入った。
「宵山まで、泊っていきよし。せっかく祇園さんのお祭りのときに来はったんやから。初めてやろ?真那ちゃん」
「初めてじゃないわ。学生のとき、二年間は京都で暮らしたんだもの。でも、あの頃はバイトばっかりで、お祭りなんてあんまり行けなかったからね」
 温かい電燈の明かりが土壁ににじみ、式台に続く小さな部屋で、文机を挟んで、女性二人は親しく言葉を交わしている。壁側に座る宿の主人・小西のおばあちゃんが和服なのはいつものことだが、背中を向けて座っている真那が、髪をアップに結って藍地の浴衣を着ていることに、健二は目を見張った。
「あ、おこしやす、柳田くん。真那ちゃん、お迎えが来はったで」
小西のおばあちゃんは、目を細くして健二を迎え、真那は立ち上がって振り向いた。電燈の明かりにきらめくその瞳が、今まで見たこともなく美しいと、健二は感じた。
「ほな、しっかりおごってもらいよし、ハモでも」
笑いを含んで、老女は真那を送り出す。

 錦小路は石畳で、真那の下駄の音が高く響いた。両側に魚屋が続く通りは、ほとんど店を閉めて、車が通れない狭いアーケードの下は暗い。東の突き当りにある錦天神に、たくさん掲げられた提灯だけがまばゆく目を射る。
「駿をつかまえに行くのに、浴衣に下駄履きかい?」
拍子抜けして、健二がぼやくと、真那は微笑んで頷く。
「捕獲作戦は、まだよ。腹が減ってはいくさは出来ぬって言うじゃない。まず、飲んで食べてからね」
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2004.07.22

小説・残光(仮)第六回

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 火の鳥の足元には水時計があり、水琴窟の音色が響いてくる。
「糺の森に・・・行きたいな・・・」
真那がそう呟いた。
「宿はもう決めてあるのか?」
「うん。小西のおばあちゃんの民宿。でもその前に、糺の森へ」
 そう言って歩き始めた真那に並んで地上に出た健二は、タクシー乗り場へ向かう。

 原初の京都の森の名残りだという糺の森は、下鴨神社の参道を挟んで濃い緑陰を作っている。
 森の中を流れる清流を眺めて、真那は微笑する。
「ここも、時間が止まってるね。昔と、何も変わらない・・・」
「そうでもないさ。この川・・・泉川とか、瀬見の小川とか、奈良の小川とか、古典に歌われた小川を、昔どおりに復元しようとしたりして、あの頃とは微妙に違うんだぜ」
「健二は、でもあの頃に呪縛されてる・・・だから京都にいるんでしょ?」
微笑を向けてきた真那に、健二は絶句した。真那は微笑したまま、視線を水面に落とした。
「どうして、あなたも駿も、そんなにあの頃にこだわるのかなあ・・・」
「駿は・・・どうしてる?」
気になっていたことを、健二は小さな声で口にした。真那は表情を変えずに答えた。
「一ヶ月前に、わたしに黙って家を出たの。それで、一昨日、京都にいるってわかったの」
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2004.07.21

小説・残光(仮)第五回

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 思案しながら、携帯電話をもてあそんでいた健二は、ふと、視線を落とす。上に伸びる構造が視線を奪いがちな京都駅だが、もちろん地下もあった。健二から携帯電話を受けないつもりであれば、電波の届かないところへ行くのも手である。
 伊勢丹デパートの地下には、土産物売り場が並び、明るい賑わいが続いていた。けれど、そこから離れ、東側との通路をたどると、コインロッカーが並ぶほかは何もなく、黒い艶やかな壁がひんやりとした空気を湛えている。地上の暑さと喧騒から遠ざかり、どこか墓地の落ち着きさえ思わせるその地下に・・・彼女の姿はあった。
 さらさらした長い髪を、ポニーテイルにくくり、白いノースリーブのワンピースを着て、素足に茶色い革のサンダルを履いた塩澤真那は、健二の靴音にも振り返らず、じっと、通路の隅にある、祭壇のようなモニュメントに見入っている。
「こんなものが出来たのね・・・手塚治虫の火の鳥」
「ああ、駅ビルの東ゾーンに、KYOTO手塚治虫ワールドっていうのがあるから、その関連だろ」
「不死の鳥・・・神様の一種みたいね」
そう呟いて、真那は、掌を合わせて拝むようなそぶりをした。驚く健二に、顔を上げた真那は舌を出してみせる。そんなしぐさは、少女の頃とまるで変わらないが、彼女の顔にはやつれた色が浮かんでいた。
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2004.07.20

小説・残光(仮)第四回

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 室町小路広場をステージとして、コロシアムの観客席のように立ち上がっていく大階段。その頭上数十メートルを斜めに走る空中経路。健二は視覚を圧倒する京都駅ビルの仕掛けを見上げ、首をかしげる。
 修学旅行生でもあるまいし、そういった場所に、彼女がたたずんでいる気はしなかった。駅ビルには、伊勢丹デパートがあって、その各階には喫茶店があるし、食堂街をはじめ、他にも飲食店は数多い。そのどれかで涼んでいるのか、と健二は考える。それにしても選択肢は多すぎる。
 あっさり降参して、携帯電話をかけたくなったが、健二は思いとどまった。
(多分、しばらくは彼女は電話に応答しないだろう。あいつの声は、何か、普通じゃなかった。あのはしゃぎようには、違和感を感じた。なんだろう?いったい)
 長いエスカレーターで、大階段の脇をゆっくりと屋上に向かいながら、健二は笑顔の観光客を眺める。昨日の深夜届いた、彼女からのメールの文面を思い出す。

   明日、のぞみで京都に行きます。到着予定12:13。迎えに来て。 真那

 ぶっきらぼうすぎるメールに驚いて送った返信に、まったく応答はなくて、さっきの携帯からの電話が、数年ぶりに聞く彼女の声だった。
 塩澤真那・・・健二と共に京都で青春時代を過ごした、大切な「仲間」の一人であり、そして、健二の親友である塩澤駿の妻である。
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2004.07.19

小説・残光(仮)第三回

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 京都駅に着き、改札口に急ぐ健二のポケットで、携帯電話の着信音が鳴った。パッヘルベルのカノン・・・
 携帯電話を耳に当て、「もしもし」と話しかける健二に、少しかすれた女性の声が返ってくる。
「健二?今、どこにいるの?」
「ごめん、遅れた。やっと駅に着いたところだ。改札に行けばいいかな?」
「ちょっと待ちくたびれたよ。だから、罰よ」
 笑いを含んだ彼女の声が、健二の足を止めさせる。
「わたしがどこにいるか、教えてあげない。探しなさい」
「おい、この暑いのに、勘弁しろよ!」
 華やかな笑い声を残して、電話は切れた。舌打ちして健二は携帯電話を閉じ、行き交う人の群れに茫然と目を向ける。修学旅行の学生たちの制服が、白い渦となって健二を取り巻く。新幹線の発着に近い八条口は、特に団体の修学旅行生たちの姿が目に付いた。
(こっちには、彼女はおそらくいないだろうな)
健二は、直感的にそう思った。連絡通路に足を踏み入れて、駅の正面である、北側へ向かう。巨大な吹き抜け空間を持つ駅ビルがそこにある。
 知人と何度か待ち合わせに使った、室町小路広場で、健二は辺りを見回した。赤いモニュメントが目に沁みた。
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2004.07.16

小説・残光(仮)第二回

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 この石段で、あの少女と待ち合わせた日々は遠い記憶である。けれどもまだそれは、今の健二の胸に鋭い痛みをもたらす景色だ。
 (最後に約束した、祇園祭の宵山に、彼女は来なかった。おれは、虚しく石段の上で待ち続けた)
 陽射しは今、石段を灼いて、乾いた風が、楼門の周りにそびえるクスノキの葉を揺らす。
 (あの日は、待っているうちに激しい夕立が襲ってきたんだ)
 祇園祭のクライマックス、宵山から山鉾巡行の頃、よく雷を伴う豪雨があって、大概そのあとに、京都の梅雨は明ける。今日あたり・・・その雷雨が来るかもしれない・・・と、健二は空を見上げた。
 正午近くの祇園の空は晴れ渡り、西に続く四条通には、陽炎が揺れている。
 腕時計に目を落とし、健二は約束の時間が近いことに気付くと、手を挙げてタクシーを拾った。
「京都駅・・・八条口へ」
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2004.07.14

小説・残光(仮)第一回

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 知恩院の巨大な三門が、烈日の中にぼやけている。
 神宮道を粟田口からたどってきた柳田健二は、青蓮院前の木陰から、強い日差しの下にさらされて、手の甲で汗をぬぐった。
(ここに来たのは久しぶりだ・・・あの少女と、月光を浴びて門の下にたたずんだのは、もう、何年前になるのだろうか)
 改修もされていたはずだが、東山連山の緑を背にした巨大な門は、あの頃といささかも変わらない。
 不意に胸を掠めた感傷に首を振り、健二は三門に背を向けて、西へ向かう知恩院道をたどり始める。やがて新門をくぐると東山通りの喧騒が待っていた。そして道なりに南へ下がれば、ほどなく祇園。八坂神社の丹塗りの楼門が目に入ってくる。
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☆唐突ですが、blogで小説を連載するという試みを始めてみます。あまり構想やプロットなど前もって考えず、ほぼぶっつけ本番で。

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