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2009.06.05

祇園祭と八坂神社・4 本殿の伝説

さて、3で写真を掲げた八坂神社本殿、これも特異なものである。

以下、「建築MAP京都」(ギャラリー・間編 TOTO出版)より、引用する。

「八坂神社本殿
  東山区祇園町北側(=住所)
  建立:1654年(承応3年)
  構造形式:正面7間、側面6間、祇園造、入母屋造、檜皮葺

・・・本殿は、本殿と礼堂を大規模な入母屋造の屋根で覆い、側面、背面の三面に庇を付ける独特な構造を持つ。千木、堅魚木を持たず、奥行きが深い建物のため、一見すると仏堂のような印象を受ける重厚な造りである。」

つまりこの独特の構造を「祇園造」と称するのだが、いかにもかつては神仏習合の信仰の場であった祇園さんらしい、神社なのに仏堂みたいな建物なのだ。

そしてこの建物には、伝説がある。

「床下に、池があり、その水は竜宮につながっている」
という、お伽噺じみた、ちょっと壮大な言い伝えなのだ。

なぜここに、「竜宮」とのつながりが出てくるかというと、それこそ、「牛頭天王」からの関係なのである。
牛頭天王の説話は、祇園祭とも切り離すことのできないものなので、ここで述べておきたい。
詳しく書くととても長いのでかいつまんで。

「北天竺マカダ国大王だった牛頭天王は、天帝の使者に教えられ、南海のシャガラ竜宮の第三王女である頗梨采女(はりさいじょ)を妃に迎えようと旅立った。
途中、南天竺で、富裕な巨旦(こたん)大王に宿を乞うたが断られ、困っているところを、貧乏だが親切な蘇民将来に歓待を受ける。
そのおかげで、めでたく妃を得ることができた牛頭天王は、のちに八人の王子や眷属を引き連れて巨旦大王一族を攻め滅ぼすが、蘇民将来の一族は守り、その子孫も疫病から免れるように約束した。」

だいたいこんな感じである。いろいろとバリエーションがあって、巨旦大王は、「巨端将来」あるいは「古端長者」とされたりしている。
いずれにしろ、南海の竜宮は、牛頭天王の妃の実家であり、結婚してからもしばらくは牛頭天王はそこで過ごし子を成すのである。
つまり、八坂神社本殿地下の池の水脈は、牛頭天王の妃の実家である竜宮との連絡路というわけなのであった。

そして、この説話で出てきた「蘇民将来」の名は、祇園祭のおり、間違いなく目にすることになる。
厄除として授けられる粽(ちまき)に、「蘇民将来子孫也」と記した護符が付いているのだ。

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2009.06.04

祇園祭と八坂神社・3 祭神について

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(八坂神社本殿)

八坂神社が、かつては違う名前で呼ばれていたように、この神社が祀る神さまの名も、変遷を経ている。

現在の八坂神社の祀る神さまは

スサノヲノミコト(素戔嗚尊)
クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)
ヤハシラノミコガミ(八柱 御子神)

であるが、主神はスサノヲノミコトであり、クシイナダヒメノミコトはその妃、ヤハシラノミコガミは、スワノヲ・クシイナダ両神の間に生まれた八人の子である。

しかしながら、この祇園の地で最初に祀られていたのは
「祇園天神」
という名の神さまであるらしい。
(「日本紀略」延長4年=西暦926年6月26日条)
そしてこの天神さまは、「牛頭天王」の名でも呼ばれていた。

牛頭天王・・・頭に黄牛の面を戴き、鋭い両角を持ち、夜叉のように容貌魁偉な神であり、疫病にかかわる存在と考えられた。
八坂神社に伝わる社伝によれば、斉明2年=656年に、高麗の国からやってきた副使(大使の補佐)伊利須(いりす)もしくは伊利之(いりし)が、新羅の国の牛頭山に鎮座していた大神の霊を奉戴し、山城の国の八坂郷に鎮座したのが、すなわち牛頭天王だという。
この神さまが、やがて神仏習合の考えから、スサノヲノミコトにみなされて行ったのであった。

牛頭天王にしても、スサノヲノミコトにしても、その素性についてはさまざまな考察がなされており、一筋縄ではいかない。
牛頭天王については、さまざまな説話が伝わっていて、インドの土俗信仰の対象であったという説から、ラマ教、ヴィシュヌ信仰とのかかわりなど、かなりインターナショナルな雰囲気がある。
また、スサノヲノミコトも、「日本書紀」には、新羅国のソシモリなる地に降り立ったという記述があり、そのソシモリこそ牛頭山という説があるのだ。
大胆に推測すれば、東アジアの古代のひとびとが、海を越えて交流する中でつくりあげていった神格が、牛頭天王・スサノヲノミコトに結晶して行ったのではないだろうか

ただ、いずれにしても祇園の地に祀られた神さまが、異国からの伝来という伝承を持ち、疫病に関わる神という面を持っていたのは確かなようである。
そして、祇園祭は、疫病を鎮めるための祭礼として始まったのであった。

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2009.06.01

祇園祭と八坂神社・2

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さて、八坂神社だが、この名前になったのは明治元年のことで、それ以前は「祇園社」「祇園観神院」「祇園天神社」「牛頭天王社」などといろんな名前で呼ばれていたそうだ。
しかも、延暦寺の支配を受ける仏寺だった時代もある。足利義満の命で、延暦寺の支配を離れてからも、神仏習合の、寺とも神社ともつかぬ形であったようだ。
明治元年に名前が変わったのは、「神仏分離令」によるものである。
このことは、祀られている神さまのことに深くかかわってくるので、また詳しく。

あと、もう一つ、わしにとって意外だったことは、東大路に面してランドマークとなっている西楼門が、正面の門ではないこと。
これは、神社の内部の建物配置を見れば一目瞭然で、本殿は南に向いており、そこから、舞殿、南楼門、石の鳥居と続く向きが正面に当たる。
上の写真は、南楼門を内側から見たもの。

西楼門を入ると、小さな祠が幾つかあって、それを迂回する参道を上がっていくと、社務所の前を通って舞殿の西側面が見えてくる。どう考えても横っぱらから進入する経路である。
今でこそ、西楼門の門前が賑やかな祇園町なので、こっちから参る人が多いのだが、かつては全くこのあたりの町並みは違っていたのだ。

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