祇園祭と八坂神社・4 本殿の伝説
さて、3で写真を掲げた八坂神社本殿、これも特異なものである。
以下、「建築MAP京都」(ギャラリー・間編 TOTO出版)より、引用する。
「八坂神社本殿
東山区祇園町北側(=住所)
建立:1654年(承応3年)
構造形式:正面7間、側面6間、祇園造、入母屋造、檜皮葺
・・・本殿は、本殿と礼堂を大規模な入母屋造の屋根で覆い、側面、背面の三面に庇を付ける独特な構造を持つ。千木、堅魚木を持たず、奥行きが深い建物のため、一見すると仏堂のような印象を受ける重厚な造りである。」
つまりこの独特の構造を「祇園造」と称するのだが、いかにもかつては神仏習合の信仰の場であった祇園さんらしい、神社なのに仏堂みたいな建物なのだ。
そしてこの建物には、伝説がある。
「床下に、池があり、その水は竜宮につながっている」
という、お伽噺じみた、ちょっと壮大な言い伝えなのだ。
なぜここに、「竜宮」とのつながりが出てくるかというと、それこそ、「牛頭天王」からの関係なのである。
牛頭天王の説話は、祇園祭とも切り離すことのできないものなので、ここで述べておきたい。
詳しく書くととても長いのでかいつまんで。
「北天竺マカダ国大王だった牛頭天王は、天帝の使者に教えられ、南海のシャガラ竜宮の第三王女である頗梨采女(はりさいじょ)を妃に迎えようと旅立った。
途中、南天竺で、富裕な巨旦(こたん)大王に宿を乞うたが断られ、困っているところを、貧乏だが親切な蘇民将来に歓待を受ける。
そのおかげで、めでたく妃を得ることができた牛頭天王は、のちに八人の王子や眷属を引き連れて巨旦大王一族を攻め滅ぼすが、蘇民将来の一族は守り、その子孫も疫病から免れるように約束した。」
だいたいこんな感じである。いろいろとバリエーションがあって、巨旦大王は、「巨端将来」あるいは「古端長者」とされたりしている。
いずれにしろ、南海の竜宮は、牛頭天王の妃の実家であり、結婚してからもしばらくは牛頭天王はそこで過ごし子を成すのである。
つまり、八坂神社本殿地下の池の水脈は、牛頭天王の妃の実家である竜宮との連絡路というわけなのであった。
そして、この説話で出てきた「蘇民将来」の名は、祇園祭のおり、間違いなく目にすることになる。
厄除として授けられる粽(ちまき)に、「蘇民将来子孫也」と記した護符が付いているのだ。
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