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2008.06.23

「源氏物語」をどう見るか(9)

Tuyusikibu

ひたすら、源氏物語が千年の昔に書かれたということや、古来から賞賛されてきたことにすがり、権威主義的におしつけようとする勢力に比べて、橘純一の「大不敬」論が、ある意味明晰で鋭いものに思えてくる。

橘の指摘した「源氏物語の情的葛藤中、最も枢軸をなす藤壺中宮対源氏の君の関係・・・」

 (情的葛藤中、最も枢軸をなす・・・ これ、凄くかっこいい言い回しだなあ・・・と思ってしまうのはわしだけだろうか。きっと、枢軸って言葉はこの頃、流行だったのだろうなあ・・・枢軸国っていうたら、ナチスドイツとファシズムイタリアと、大日本帝国だったしなあ・・・
そして、かっこいいだけじゃない。わしも、藤壺と光源氏の関係から生じる葛藤こそ、源氏物語の最重要部分であり、そして、 まさにここが精髄だと思うのであるが、それについてはまた別記。)

ここを指摘した橘の意見を黙殺しておきながら、源氏物語を教材に載せた勢力もまた、同じようにここを国民に見せないように、知らさないようにした。
同じ穴の狢だったのである。橘純一の指摘した部分を、「ヤバイ」と彼らも思っていたのである。
だから、まともに反論するのは拙かった。黙殺し、この部分を「必要性は無い」「中心事情になってゐない」(山田孝雄「谷崎氏と源氏物語―校閲者のことば」「中央公論」昭和14年1月所収)と歯切れ悪くも一蹴した。

しかし・・・
それもこれも、「源氏物語」を愛し、あの時代に生き延びさせる方便だったと見ることは出来よう。
一見、傲慢に見えるが、彼らは、必死だったのだと思う。
国を挙げて、戦争の遂行にすべてを捧げさせる時代に、「源氏物語」などは、役に立たない無用のものとまっさきに槍玉に挙げられる。そんな中で生き残っていくために、最大限に源氏物語を持ち上げ、日本国民の誇りとしなければならなかったのだ。おそらく、それこそが本音だったのではないか。

今、京都では、源氏物語千年紀、と祝し、源氏物語賞賛の雨あられ。
けれどそれが「世界に誇るべき日本の宝」ということだけで、物語の中身にさして目を向けないのなら、あの惨憺たる戦争の時代と、「源氏物語」に関する事情はほとんど変わらないのではないか。
あるいはそうかもしれない。
儲かる学問、就職し易い学部にばかり人と金が集まる風潮はますます強まり、いまや、多くの大学の「国文科」や「日本文学科」は存亡の危機にあるとまで聞く。
かつて小学校教科書に「源氏物語」を載せようとした者たちが聞いたら、悲憤慷慨し、また、同じ事をしようとするだろうか。

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