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2008.06.22

「源氏物語」をどう見るか(8)

Jidaiisho

中心となって教科書を作った井上赳によれば、源氏物語を教材としたのは
「平安京の最も栄えた時代に、枕草子や源氏物語の如き世界に誇るべき文学が出たことを想はしめる」(小学国語読本尋常科用巻十一編纂趣意書)ためであった。
その「編纂趣意書」を貫く思想は、「国民精神」「国民文化」「国民文学」「国民思想」を児童に叩き込もうというものである。やたら「国民」が強調されるが、つまり日本国民であることを世界に向けて誇るよう教えるのが、第一義だったのであった。
そして、具体的に「小学読本」に載った「源氏物語」は、およそ本文の面影をとどめない、けったいなものとなった。全部を引用すれば誰でもわかりやすいのだが、要約すると
●前後2段に分かれる
●前段で、作者としての紫式部、作品としての源氏物語の簡潔な説明。
●後段が本文で、源氏物語の中から、ほんの一部分を抜粋し、わかりやすい口語訳にして紹介。
ということになっている。
前段では「源氏物語五十四帖は、我が国第一の小説であるばかりでなく、今日では外国語に訳され、世界的の文学としてみとめられるやうになりました。」と強調された。
後段には、「若紫」と「末摘花」からの抜粋が載る。これが実にとんでもないシロモノであった。
「若紫」からは光源氏が幼い少女である紫の上を見初める部分が採られたのだが、なんと、「光源氏のいない源氏物語」になっている。少女の可愛らしさをひたすら描写しているのだが、それを見つめる光源氏の姿と存在は文章のどこにもない。抹殺されているのだ。
「末摘花」のほうでは、光源氏が愛人の一人、末摘花のところから自邸に戻り、引き取って育てていた紫の上と絵を描いて遊ぶ箇所が採られている。もちろん愛人・末摘花などはかけらも出さない。ただ、兄と妹のように仲良く遊ぶ二人の姿が描かれるだけだ。
その後、この「末摘花」からの抜粋部分は「紅葉賀」からのものに差し替えられる。
こちらでは、光源氏と紫の上の関係はなんと「いとこ」と書かれる。それはまあ、系図上から見ればそう見れないことはないが、それを辿るには、禁じられた藤壺と光源氏の関係に言及しなければならないじゃないか!
もちろん教科書の文章に、そんなことを書くわけには行かない。

教材として載った「源氏物語」は、本文をただ口語訳したのではなく、まるで別の物語をでっちあげたものであった。小学生の教材として提示するには、こうでもするほかはなかったのだろう。
それにしてもあまりに無理やりなやり方である。どうしてこんなに捻じ曲げてでも、源氏物語を教材に載せなければならなかったのか。

それについては、次の文章が最も意図を露骨に語っていると思われる。

「今や世界は各国とも自国的のものを熱心に主張する時代となつた。国際的大試合の最中の感がある。大事な試合の際に、わが長所を用いる遑(いとま)がなく、敵の長所に引きずられるやうになれば勝味は無い。だからどの国でも自分の長所とする特色を発揮するのに一心になる。我等も日本的なものの発揚を怠つてはならない。その方法は一に限らぬが、日本的なものの因って来る源泉である古典を普及するのもよい事である。国定教科書に万葉集の歌が入り、古事記の話がはいつたのは結構である。相並んで源氏物語が採られたので完璧に近づいた。我等の祖先は、皇室を中心として一致団結し、明浄直の三徳を実践して驀(まっしぐ)らに発展の一路を歩いて来た事を、小国民に自覚させねばならぬ。発展の途上には文化的にも偉大な足跡を残して他の追従を許さない誇りをも持たしめねばならぬ。源氏物語の如きは文化史上の金字塔として世界に誇るに足るものである。我等の祖先にかくの如き偉大な作品の作者があった事を知らしめるだけでも、自国愛の涵養に予想外の効果があるであらう。」
(平林治徳「教材としての源氏物語」「文学」昭和13年12月所収・岩波書店)

「我等の祖先にかくの如き偉大な作品の作者があった事を知らしめるだけでも」

そう、それを知らせるだけでよかった。それ以上のことを知らしてはならなかったのだ。
だから、あんないびつな抜粋を載せたのである。
それ以上の興味を持ち、もとの文を読みたい・・・と思わせては困るのであった。

「約千年も昔に、その頃はヨーロッパの如きは、まったく無知蒙昧の野蛮時代であった頃に、このやうに、すぐれた小説が製作されてゐたといふ動かすべからざる事実は、いかにわが民族が、優秀なる民族であるかを、最も具体的に説明することであって、その内容が、頽廃的であるかどうか、などいふことは、まったく問題にならないことである。」
(舟橋聖一「源氏物語と国民文学」「新潮」昭和15年11月所収・新潮社)

大和民族が他民族に優越することの証明が大切であって、物語の中身などはどうでもいいのであった。まさに、時流に応じた「源氏物語」の役立て方であろう。
それを進めようとした者たちにとっては、橘純一のように、源氏物語の中身の問題を暴き立てるのは、最もタブーとするところである。
「それをいっちゃあ、おしめえよ」だったのだ。

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コメント

なんか読んでて笑ってしまった。。。
確かに、お国第一の国粋主義者の子どもたちを育てるに、あまり適切な内容じゃないですよねぇ~笑。
愛人いっぱい、ロリ○ン、覗きにストーカー・・・爆。
なんか、源氏って、いつも女性を覗いていませんか(笑)?
女流作家の長編文学としては、世界に誇れるものながら、内容は知らしてはいけない・・・矛盾していますね。

そういえば、O阪教育大学の国文科を卒業したわが父は、卒論が源氏物語の何かやったと昔聞いた記憶がありますが、どんな考察書いてたんやろ?

投稿: よりりん | 2008.06.22 11:15

もともとのネイション・ステイツ(近代国民国家)における学校や教科書の役割って、民たちに「私は○○国民だ」という架空のナショナル・アイデンティティを植え付けることでしょ。
国民国家を形成していく過程でどこの国の教科書だってやってきた事だし(日本も欧米を模倣したわけで)、現在の中共の歴史教科書よりも遥かに実害がないじゃないですか。
ちょっと勉強すればその記述の怪しさが誰にでもわかるように作られている処など杜撰というか、良心的というか、むしろお茶目で微笑ましいという感想を持ちましたが。

投稿: 次元ジプシー | 2008.06.22 18:04

☆よりりんさん、そう、とても矛盾したことを無理やりやっていたのです。今振り返るととても滑稽なのですが、そんなことをやらざるを得なかった・・・と考えると時代の恐ろしさというか・・・
それにしても、お父様の卒論は、どんなテーマだったのでしょうね。

☆次元ジプシーさん、源氏物語をあんなふうに教えるのは、わしにはとても許せず、馬鹿馬鹿しく、そして実害巨大!と憤慨したのですよ。
何しろ、指導要領には「取り扱いに注意、原文に興味を引かせるな」なんて書いてあったりしましたしね。
しかし、振り返ってみれば、軍国主義一色に染められていく中での、国文学者・源氏研究者の、必死の生き残り策、だったかもしれません。

投稿: 龍3 | 2008.06.23 00:50

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