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2008.06.30

「源氏物語」を読む(1)

Outenmon

「源氏物語千年紀」に際して、なんか語ろうという程度で、天邪鬼的に
「『源氏物語』をどう見るか」
などという文章を書いてきたのでであるが、思いも寄らぬほど深入りしてしまった。
やはり、「源氏物語」の持つ力は凄いのだ・・・と、今更ながら気づいた次第である。

そこで、ここからは稿を改め、
真っ向から「源氏物語」に取り組んでみることにする。
「源氏物語」初心者として、読むことを始めたい。

ところで、ここへ来てふと、気づいたのだが・・・
今まで大雑把ながら紹介してきた、賞賛、崇拝から、軽蔑、弾劾に至るまでの、おびただしい「源氏物語」の論評。さて、それらの著者は、一体、どういう「源氏」本文を読んだのであろうか?

そう、本文。
もっとも基本的な、「源氏物語」そのもの。

「原文」という言い方は誤解しやすい。
「源氏物語」は、著者が書いた直筆原稿がちゃんと残っている、現代の小説とはわけが違うのである。
「原文」を、紫式部が書いた直筆原稿と言う意味でとるならば

そんなん、どこにも残ってまへん!!

という、ある意味当たり前で、しかし驚愕の事実を、わしはこの歳になって初めて気がついたのであった。

そして、書かれた当時の状況を想像してみた。
当たり前すぎるが、印刷などはされていない。全部手書き。
作者紫式部が書いたものを、誰かが読み、「これ、凄い!チョー面白いやん!」と書き写して、また誰かに読ませる。それをまた誰かが書き写し、書き写し、広まって行ったのである。

・・・その書き写した本、作者とかが校閲したのか?
・・・まあ、ごく最初は出来たかもしれへんけど、あとは、できるわけがないわな・・・(汗)

写し間違いは当然発生するだろうし、「著作権」などというもの、かけらもない時代であるから、書き写した者が「うちやったら、ここはこうしたほうがエエと思う」と勝手に改変するのも自由自在・・・

うわー、もしかして、「源氏物語」って、中身が違う本が一杯存在するようにならないか?

・・・で、現実はそうなったのである。(大汗)

語句の違い、展開の違い、巻数の違い・・・なかには文の意味の取れない本まで存在するようになったらしい。
「こらあかんわ!紫式部はんが書いた、基のヤツを復元せな!」
と、心ある者は考えるだろう。
それを、実行したのが、藤原定家と、源光行・親行父子であった。
平安時代末期から、鎌倉時代初期に掛けてのことである。

定家と源父子には交流があり、お互いに集めた本を見せ合ったりしつつ、それぞれに、「これぞ決定版・源氏物語」というものを作っていったのであるが、
定家が残したものを「青表紙本」という。青い表紙で装丁されていたからである。
源父子が残したものを「河内本」という。父子とも、河内守を務めて、そう呼ばれていたから。

ここで2種類の「源氏物語」が存在したことになる。協力して一つにすればよかったものを・・・と思うが、どうも双方の「編集意図」が違っていたようだ。

「青表紙本」は、可能な限り元の文章を復元しようとして古い文章を尊重し、意味の通らないところがあってもそのままにした。
「河内本」は、文章の筋が通っていることを第一に考えて編纂し、かなり改変を加えたかもしれない。
・・・というのが、これまでの研究の一般的見解である。

その後、これらの本も、写本段階でいろんな異本が生じている。両系統が混じった本もたくさんあるらしい。また、この2系統にあてはまらないものも存在する。
それでも、定家さんと源父子のおかげで、かなり混乱は収められたわけで、感謝せねばならんやろなあ・・・

ともあれ、平安時代に書かれたと証明できる「源氏物語」写本は、現在一冊も存在しない。青表紙本も河内本も、さまざまに異なるたくさんの「源氏物語」から必死に作り出したものである。
紫式部の手になる「原文」は、遥かな幻のままなのである。

それでは、わしらが今、読むことの出来る「源氏物語」本文とは、具体的にどのようなものなのか?
(続く)

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2008.06.25

「源氏物語」をどう見るか(番外編)

Daigojito

さて、源氏物語にとっての最大の受難時代の話が長くなってしまった。
だいぶ「源氏物語をどう見るか」から、道が外れてしまっているような気もする。
外れついでに、「大不敬」問題をめぐる人々の、その後の人生について触れてみたい。

まず、「大不敬」論を展開し、源氏物語排斥の急先鋒だった橘純一。
彼の論は結局、国文学界からは黙殺されてしまった。
彼はそんな中、陸軍士官学校の国漢教官(国語と漢文を教えたのだろう)となる。しかし、1943年(昭和18)に出版しようとした「日本神話の研究」はなんと陸軍当局から「発禁処分」になってしまった。当時国策として公認されていた神話解釈と異なるものだったせいだ。
やがて敗戦となり、陸軍士官学校は閉鎖となって自然退官。5年後に跡見短期大学教授となったが、その4年後、70歳で死去。

橘純一の攻撃した教科書を編纂した井上赳。
彼は引き続き教科書編纂事業に携わったが、1944年(昭和19)、文部省図書局廃止に抗議して辞職。戦後は1946年から1947年まで衆議院議員。日本国憲法の審議にも参加。
1951年から1956年まで東京文科大学(現二松学舎大学)、1958年から1965年の死去まで共立薬科大学の教授を務めた。
彼は戦後、「戦時中の自分は軍部や国家主義・国粋主義と戦い、その干渉に抵抗し続けた」と主張している。

源氏物語のことを
「いかにわが民族が、優秀なる民族であるかを、最も具体的に説明することであって、その内容が、頽廃的であるかどうか、などいふことは、まったく問題にならないことである」
と戦時中、国粋主義的に発言していた小説家・舟橋聖一。
彼は、敗戦の翌年、雑誌「国語と国文学」で
「自分の戦時中の考えは『もののあはれこそ国文学精神』というものだったが、大東亜文学者会議の事務局に握りつぶされて、発言を許されなかった」
と書いた。
その後、日本文芸家協会初代理事長、文部省国語審議会委員などを務め、1976年死去。

ちなみに「国語と国文学」の同じ号で、橘純一は
「戦前は為政者の魔術にかかって、科学的態度を軽視し、独善的態度に陥っていた」
と反省?している。

最後に、橘純一に対し、唯一名指しで反論した蓮田善明。
その当時、成城高等学校教授であり、日本浪曼派の論客としても活躍していた。やがて軍隊に召集され、陸軍中尉としてマレー半島で敗戦を迎える。その翌日、8月16日に、上司を射殺して自決。


このブログにコメントをくれる畏友が、示唆を受けたという
「文学部をめぐる病い(」高田理惠子著 松籟社)
という本を、数日前に読んだ。
副題に、「教養主義・ナチス・旧制高校」とある。
主に戦時中から戦後への日本のドイツ文学者たちの右往左往する言動を、シニカルで客観的、かつ愛情に満ちた筆で描いて、「二流」の自覚にさいなまれた「半端な文化人」がどう生きてきたかと言う問題を提起した本・・・だと思う。
戦時中から戦後に掛けての、源氏物語に関する国文学者たちの右往左往と、この本に書かれたドイツ文学者たちと、相似形であるのは言うまでもない。

彼らの「論」に対して、わしは批判的であるが、彼らの生き方、人格については何も言うことはできないだろう。
高田理惠子氏の言葉を借りれば、
彼らの「努力、悔しさ、悲しみ、そして過ち」を、何とか理解しようと思うだけである。

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2008.06.23

「源氏物語」をどう見るか(9)

Tuyusikibu

ひたすら、源氏物語が千年の昔に書かれたということや、古来から賞賛されてきたことにすがり、権威主義的におしつけようとする勢力に比べて、橘純一の「大不敬」論が、ある意味明晰で鋭いものに思えてくる。

橘の指摘した「源氏物語の情的葛藤中、最も枢軸をなす藤壺中宮対源氏の君の関係・・・」

 (情的葛藤中、最も枢軸をなす・・・ これ、凄くかっこいい言い回しだなあ・・・と思ってしまうのはわしだけだろうか。きっと、枢軸って言葉はこの頃、流行だったのだろうなあ・・・枢軸国っていうたら、ナチスドイツとファシズムイタリアと、大日本帝国だったしなあ・・・
そして、かっこいいだけじゃない。わしも、藤壺と光源氏の関係から生じる葛藤こそ、源氏物語の最重要部分であり、そして、 まさにここが精髄だと思うのであるが、それについてはまた別記。)

ここを指摘した橘の意見を黙殺しておきながら、源氏物語を教材に載せた勢力もまた、同じようにここを国民に見せないように、知らさないようにした。
同じ穴の狢だったのである。橘純一の指摘した部分を、「ヤバイ」と彼らも思っていたのである。
だから、まともに反論するのは拙かった。黙殺し、この部分を「必要性は無い」「中心事情になってゐない」(山田孝雄「谷崎氏と源氏物語―校閲者のことば」「中央公論」昭和14年1月所収)と歯切れ悪くも一蹴した。

しかし・・・
それもこれも、「源氏物語」を愛し、あの時代に生き延びさせる方便だったと見ることは出来よう。
一見、傲慢に見えるが、彼らは、必死だったのだと思う。
国を挙げて、戦争の遂行にすべてを捧げさせる時代に、「源氏物語」などは、役に立たない無用のものとまっさきに槍玉に挙げられる。そんな中で生き残っていくために、最大限に源氏物語を持ち上げ、日本国民の誇りとしなければならなかったのだ。おそらく、それこそが本音だったのではないか。

今、京都では、源氏物語千年紀、と祝し、源氏物語賞賛の雨あられ。
けれどそれが「世界に誇るべき日本の宝」ということだけで、物語の中身にさして目を向けないのなら、あの惨憺たる戦争の時代と、「源氏物語」に関する事情はほとんど変わらないのではないか。
あるいはそうかもしれない。
儲かる学問、就職し易い学部にばかり人と金が集まる風潮はますます強まり、いまや、多くの大学の「国文科」や「日本文学科」は存亡の危機にあるとまで聞く。
かつて小学校教科書に「源氏物語」を載せようとした者たちが聞いたら、悲憤慷慨し、また、同じ事をしようとするだろうか。

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2008.06.22

「源氏物語」をどう見るか(8)

Jidaiisho

中心となって教科書を作った井上赳によれば、源氏物語を教材としたのは
「平安京の最も栄えた時代に、枕草子や源氏物語の如き世界に誇るべき文学が出たことを想はしめる」(小学国語読本尋常科用巻十一編纂趣意書)ためであった。
その「編纂趣意書」を貫く思想は、「国民精神」「国民文化」「国民文学」「国民思想」を児童に叩き込もうというものである。やたら「国民」が強調されるが、つまり日本国民であることを世界に向けて誇るよう教えるのが、第一義だったのであった。
そして、具体的に「小学読本」に載った「源氏物語」は、およそ本文の面影をとどめない、けったいなものとなった。全部を引用すれば誰でもわかりやすいのだが、要約すると
●前後2段に分かれる
●前段で、作者としての紫式部、作品としての源氏物語の簡潔な説明。
●後段が本文で、源氏物語の中から、ほんの一部分を抜粋し、わかりやすい口語訳にして紹介。
ということになっている。
前段では「源氏物語五十四帖は、我が国第一の小説であるばかりでなく、今日では外国語に訳され、世界的の文学としてみとめられるやうになりました。」と強調された。
後段には、「若紫」と「末摘花」からの抜粋が載る。これが実にとんでもないシロモノであった。
「若紫」からは光源氏が幼い少女である紫の上を見初める部分が採られたのだが、なんと、「光源氏のいない源氏物語」になっている。少女の可愛らしさをひたすら描写しているのだが、それを見つめる光源氏の姿と存在は文章のどこにもない。抹殺されているのだ。
「末摘花」のほうでは、光源氏が愛人の一人、末摘花のところから自邸に戻り、引き取って育てていた紫の上と絵を描いて遊ぶ箇所が採られている。もちろん愛人・末摘花などはかけらも出さない。ただ、兄と妹のように仲良く遊ぶ二人の姿が描かれるだけだ。
その後、この「末摘花」からの抜粋部分は「紅葉賀」からのものに差し替えられる。
こちらでは、光源氏と紫の上の関係はなんと「いとこ」と書かれる。それはまあ、系図上から見ればそう見れないことはないが、それを辿るには、禁じられた藤壺と光源氏の関係に言及しなければならないじゃないか!
もちろん教科書の文章に、そんなことを書くわけには行かない。

教材として載った「源氏物語」は、本文をただ口語訳したのではなく、まるで別の物語をでっちあげたものであった。小学生の教材として提示するには、こうでもするほかはなかったのだろう。
それにしてもあまりに無理やりなやり方である。どうしてこんなに捻じ曲げてでも、源氏物語を教材に載せなければならなかったのか。

それについては、次の文章が最も意図を露骨に語っていると思われる。

「今や世界は各国とも自国的のものを熱心に主張する時代となつた。国際的大試合の最中の感がある。大事な試合の際に、わが長所を用いる遑(いとま)がなく、敵の長所に引きずられるやうになれば勝味は無い。だからどの国でも自分の長所とする特色を発揮するのに一心になる。我等も日本的なものの発揚を怠つてはならない。その方法は一に限らぬが、日本的なものの因って来る源泉である古典を普及するのもよい事である。国定教科書に万葉集の歌が入り、古事記の話がはいつたのは結構である。相並んで源氏物語が採られたので完璧に近づいた。我等の祖先は、皇室を中心として一致団結し、明浄直の三徳を実践して驀(まっしぐ)らに発展の一路を歩いて来た事を、小国民に自覚させねばならぬ。発展の途上には文化的にも偉大な足跡を残して他の追従を許さない誇りをも持たしめねばならぬ。源氏物語の如きは文化史上の金字塔として世界に誇るに足るものである。我等の祖先にかくの如き偉大な作品の作者があった事を知らしめるだけでも、自国愛の涵養に予想外の効果があるであらう。」
(平林治徳「教材としての源氏物語」「文学」昭和13年12月所収・岩波書店)

「我等の祖先にかくの如き偉大な作品の作者があった事を知らしめるだけでも」

そう、それを知らせるだけでよかった。それ以上のことを知らしてはならなかったのだ。
だから、あんないびつな抜粋を載せたのである。
それ以上の興味を持ち、もとの文を読みたい・・・と思わせては困るのであった。

「約千年も昔に、その頃はヨーロッパの如きは、まったく無知蒙昧の野蛮時代であった頃に、このやうに、すぐれた小説が製作されてゐたといふ動かすべからざる事実は、いかにわが民族が、優秀なる民族であるかを、最も具体的に説明することであって、その内容が、頽廃的であるかどうか、などいふことは、まったく問題にならないことである。」
(舟橋聖一「源氏物語と国民文学」「新潮」昭和15年11月所収・新潮社)

大和民族が他民族に優越することの証明が大切であって、物語の中身などはどうでもいいのであった。まさに、時流に応じた「源氏物語」の役立て方であろう。
それを進めようとした者たちにとっては、橘純一のように、源氏物語の中身の問題を暴き立てるのは、最もタブーとするところである。
「それをいっちゃあ、おしめえよ」だったのだ。

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2008.06.20

「源氏物語」をどう見るか(7)

Jidaigissha


前回、昭和13年以降、敗戦に至るあたりを「源氏物語にとって最大の受難時代」と書いた。
しかし、これにはもう少し説明を加えなければならないと思う。
単純に「受難、暗黒時代」であったなら、焚書だの禁書だのになったように思われる。
ところがこの時代、源氏物語は、なんと小学校の国定教科書の教材になり、全国の少年少女が読まされていたのだ!

そもそも、橘純一が源氏物語を非難・弾劾したのは、国定教科書(この時代、これ以外は学校で教科書にすることは禁じられていた)に載る事に際しての反対意見だったのである。
彼の意見は確かに大きな反響を生んだ。しかし彼に賛成したほとんどは、源氏物語に関して専門化ではない人々である。
肝心の教科書編纂側、そして国文学界は、ありていに言うと彼の意見を黙殺した。
かくて、国定教科書「小学国語読本」巻十一=六年生用に1938年(昭和13)から1947年(昭和22)まで源氏物語は載っていたのである。

これをして、教科書編纂者や国文学者たちが、軍国主義や国粋主義に抵抗し、良心を守り抜いたから・・・と賞賛する向きもある。ところが、そうではなかったのだ、残念ながら・・・

たとえば、彼らのうち、正面から橘純一に反論した意見はほとんど・・・いや、ひとつもなかったのである。
教科書編纂者井上赳(たけし)は
「区々たる俗論の如きは敢えて論ずるに足らない」と言っただけ。
ほかには、「源氏物語をもつて頽廃文学とするのは一知半解の考であらう。」「もし源氏物語を頽廃文学と認める立場から考へれば、わが国の古典文学は何らかの意味で退廃的であり不健全といふ事になる」「源氏物語を排撃する人々は(中略)左翼思想を隠した人々に多いことを一言しておく」などと、頭ごなしに恫喝した者もあれば、「橘は主催していた国語研究の雑誌が運営困難になったので、名前を売ろうと過激なことを言ったのだ」と、誹謗するやつなど、ろくでもない意見しか残っていない。
実は、教科書に源氏物語を載せようとした彼らの意見もまた、十分に当時の軍国主義、国粋主義的時流に乗っかったモノであった。(続く)

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2008.06.16

「源氏物語」をどう見るか(6)

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(写真は、左京区岡崎にある、京都市美術館。1933ー34年(昭和8-9竣工)

源氏物語を現代語に訳したものは、与謝野晶子以来、今に至るまでいくつも出版されている。
谷崎潤一郎が手がけたものも有名だ。
ところが、彼が現代語に訳した源氏物語は、3種類存在するのである。
なぜ彼は何度も現代語訳を試みたのか?

実は最初のものは1935年(昭和10年)から書かれ、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)にかけて刊行されたのだが、一部が削除された不完全版であり、戦後になってそれを補う第2回のものを出版したのである。3回目は、かなり時間が経ってから「決定版」として、新仮名遣いのものとして出したのだった。

では、最初のもので削除されたのは、どこかというと、

「源氏の構想の中には、それをそのまゝ現代に移植するのは穏当でない三カ条の事柄がある。
その一つは、臣下たる者が皇后と密通してゐること、他の一つは、皇后と臣下との密通に依って生れた子が天皇の位に就いてゐること、そしてもう一つは、臣下たる者が太上天皇に準ずる地位に登ってゐること、これである」
という、部分であった。
この言葉を谷崎に申し渡したのは、校閲者として携わった国語学者・山田孝雄(よしお)である。
その背景には、皇国史観による、思想統制があったことは言うまでもない。山田孝雄は、国語学者として「山田文法」理論で知られる実力者だったが、国粋主義を推進した「国士」とも見られていた。

次に引用するのは、橘純一という国文学者が、1938年(昭和13)に発表した文章である。おそらく、源氏物語に対する、史上、最も苛烈な非難と弾劾の言葉だと思う。

「源氏物語の情的葛藤中、最も重要な枢軸をなす藤壷中宮対源氏の君の関係、これより起こつた第三帝(桐壷の巻に出で給ふ帝を第一帝として数え申す)御即位の事、源氏の君が太上天皇に准ぜられる事、これらは大不敬の構想である。源氏の君の須磨引退の原因となった第二帝の寵姫朧月夜内侍との関係も亦然り源氏物語は全篇一貫して、その性格が淫靡であり不健全である。平安貴族衰亡の素因を露呈した文学である。」
(小学国語読本巻十一「源氏物語」について文部省の自省を懇請する・太字は原文のまま)

 光源氏と藤壺の密通、その間の不義の子が皇位に就く、
 そして光源氏が皇位に就いた子の父として「太上天皇」となる、
 また、光源氏とやはり帝の妃だった朧月夜との密通、

 これらは「大不敬の構想である」と、橘純一は喝破した。

天皇・皇族・皇室に敬意を払わず、無礼な行為をするのを不敬というのであるが、「不敬罪」というものが存在した時代、これは法律違反と言う以前に、道徳的に糾弾されたのである。
それが、「大不敬」だよ・・・おそらく当時にあっては、最大級の非難、糾弾、弾劾だ。
山田孝雄は、橘純一のように、源氏物語全篇を否定したりはしなかったが、橘の指摘した部分に関しては、厳しく削除を言い渡した。

「(山田)先生が粛然と襟を正してこれを申し渡された時の態度は、いかにも古への平田篤胤などに見るような国士の風があったことを、今も忘れることは出来ない。」
(谷崎潤一郎「あの頃のこと」(山田孝雄追悼))

谷崎潤一郎はもちろん不本意だったに違いないが、「大不敬」とされた部分を削らなければならなかった。
そして、これ以降、源氏物語に関する書物は、この「大不敬」に関わる部分を削るか、伏字(××)にするものが多かったらしい。
源氏物語にとって、最大の受難時代だっただろう。

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2008.06.14

「源氏物語」をどう見るか(5)

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(写真は京都国立博物館。1895年(明治28)に竣工)

仏教の立場から、儒教・儒学(朱子学)の立場から、源氏物語を非難する向きがあったのは既に触れた。
明治になっても、そうした空気はあり、また、外国に対して勇ましく士気を高めようという意識が盛り上がったせいか、軟弱なるモノへの風当たりは強まる。源氏物語はしばしばその格好の槍玉に挙げられた。

たとえば、キリスト教の思想家・実践家である内村鑑三などは、こんな風にぶちあげた。

「また日本人が文学者という者の生涯はどういう生涯であるだろうと思うているかというに、それは絵艸紙(えぞうし)屋へ行ってみるとわかる。どういう絵があるかというと、赤く塗ってある御堂のなかに美しい女が机の前に坐っておって、向こうから月の上ってくるのを筆を翳(かざ)して眺めている。これは何であるかというと紫式部の源氏の間である。これが日本流の文学者である。しかし文学というものはコンナものであるならば、文学は後世への遺物でなくしてかえって後世への害物である。なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何もしないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしになした。あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい(拍手)。」

太字部分はわしが加工しました(笑)それにしても、日露戦争に反対したという内村先生にしては実に好戦的な文章で驚いた。長くなるので引用しなかったのだが、これに続く部分には「文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。」という言葉まで。
これは、京都便利堂から明治三十年に発行された「後世への最大遺物」という小冊子の一部分。何度か再版され、「後世への最大遺物・デンマルク国の話」というタイトルで岩波文庫にもある。

さて、この内村鑑三と同時代、芳賀矢一という人が国文学の世界で活躍している。実は活躍などと言う生易しいものではなく、「国文学」というものの成立に絶大な力を発揮したと言うほうが良い。
この人、夏目漱石と同じ船でヨーロッパに留学し、ドイツで文献学を学んで持ち帰り、それまで、「国学」の一分野であった国語や国文に対する研究を「国文学」として成り立たせたのである。
国語国定教科書を編纂したり、文部省唱歌の歌詞を作ったり、後には國學院大學学長に就任。日本の文学研究の基礎を作った大きな存在だった。
「形容動詞」という言葉を作ったのも彼だという。
そんな彼はもちろん日本の古典のほとんどを研究しているのだけれど、源氏物語にはこんな言葉を述べているのである。

「腐敗した社会の有様を書いたものを
 我国文学の第一のもののやうに珍重しなければならぬ
 というのも、実は情けないものです」

また、平安時代の物語全般を評してこう書く。

「而して其文の艶麗緻密に長じて、豪放奔快の事なきもの」
「其載する所多くハ艶話等に過ぎざる」

どうも芳賀先生も内村先生と同様、勇ましいもの=豪放奔快を愛し「艶話」のようなものを毛嫌いしていたようだ。
この人の著作で有名なものに「国民性十論」というものがあり、これは日本人の国民性について述べた本の走りと言うて良い。
その手の本のほとんどと同じように、他の民族や人種と比べて、日本人はこんなに優れているんだぞ!と勝手な印象を並べたものだ。今読んでみると、「ああ、日本人は芳賀先生の述べた美徳のほとんどを裏切っていたんだなあ」と感慨深い。
ただ、その中で「草木を愛し自然を喜ぶ」という項があり、その中で源氏物語の描写も例として引用される。源氏物語のそういう面は自慢したかったらしい。

ともあれ、近代国文学にあっても、発祥の頃から、源氏物語には賞賛と共に批判が向けられていたことは間違いない。
やがて、国粋主義の暴走、天皇の絶対化、神格化が進むと、源氏物語には根本的な非難、弾劾が襲うことになる。

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2008.06.11

「源氏物語」をどう見るか(4)

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(写真は、「源氏物語千年紀」関連のイベントポスター)

源氏物語を「好色」だからと排除した勢力の一方で、「好色」だからこそもてはやした者達も、もちろん存在した。
江戸時代のそれを、はなはだ大雑把ではあるが紹介してみたい。

さて、もしも、

あなたが、大学の文学部に進み、国文科とか日本文学専攻とかを選んで、研究対象を決めるとする。
「紫式部の源氏物語にします」
と言えば、友人とか家族とか、一般の人は
「ええな~、結構やな~」と納得するであろう。
しかしこれが、
「井原西鶴の好色一代男にします」
と言い出すと、まあ、ほとんどの人は引くに違いない。
「こ、好色って、あんたそんなえげつないものを・・・」

だが、「好色一代男」こそは、「源氏物語」を受け継ぐ文学作品の画期的なひとつであった。
構成からして「源氏物語」が54帖であるのにならい、主人公・世之介の人生を7歳から60歳までの54年間、54章で描いている。
そして、「源氏物語」が取り扱った「いろごのみ」=多くの女性を遍歴する男のロマンを、江戸の現世に再現するものだったのである。

けれど小説の内容としては、ひたすら女性との交情を描いており、「好色」がただただ、色欲の充足とみなされていく結果になった。
それは遡って、原型である「源氏物語」の「いろごのみ」もそう解釈されてゆく風潮を生んだかもしれない。

江戸時代の文芸はさまざまな展開をしていくけれど、「源氏物語」と「好色」の系譜はやがてもうひとつの爆発的ヒット作を生む。

その名も「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」。
将軍直属の武士・旗本出身の柳亭種彦が作者であるが、この本、38巻に及ぶ大作で、1000部も売れればベストセラーと言う時代に、各巻それぞれが1万巻も売れたという超ベストセラー。貸本が普通だったので、おそらく江戸の町民がほとんどみんな読んでいた。
内容は源氏物語を江戸時代に移し変え、光源氏は「足利光氏」という武士で、足利将軍や山名・細川など大名のお家騒動のなかで、活躍するというもの。
ただし、読者の興味は勧善懲悪的活劇にはなくて、主人公の「好色」な女性遍歴描写が、当時の江戸将軍家「大奥」の内情暴露ではないかというところにあった。
そのために時の権力に睨まれ、ついに発禁処分を食らい、作者も程なく死んで(自殺説あり)、作品としては中断している。

だがこの「田舎源氏」こそが、当時の江戸の庶民にとっては「源氏」だった。
光源氏はよく知らないが、足利光氏こそはわれらがヒーローであり、アイドルなのであった。
また、「田舎源氏」の本は、挿絵が大きな役割を果たし、文章はむしろ従、今で言うマンガみたいな感じだった。そしてその挿絵を描いたのが浮世絵師・歌川国貞で、売れたのは彼の絵のおかげだと、柳亭種彦のライバル、滝沢馬琴は皮肉っている。
ついには、「田舎源氏」の挿絵や、その名場面を描いたものを「源氏絵」と呼ぶようになり、単独でももてはやされるようになった。国貞もノリまくって描きまくり、1千枚に及ぶという。

「源氏物語」原文はほとんど読まれていないが、挿絵たっぷりの「田舎源氏」は誰もが読んでいる・・・
この江戸時代の構図、現代と良く似ていると思う。

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2008.06.04

「源氏物語」をどう見るか(3)

仏教の教えに五戒というものがあり、そのひとつは「不邪淫」である。簡単に言うと、「不倫をしてはいけない」というものであり、源氏物語の主人公たちはまさに不倫の連続であって、その意味で罪深いとされた。

やがて鎌倉時代になり、儒教の朱子学が移入されて盛んになると、こちらからの「源氏物語」排撃が行われる。
「忠孝」や「倫理」を説く立場からは、光源氏が父帝の妃と密通するなどという行為は、もってのほかであった。近親相姦は最も嫌悪すべきタブーなのである。
儒教の影響の強かった中国・韓国では、いまだに「同姓不婚」であり、特に韓国では、民法でそう決まっているそうだ。
光源氏は、「空蝉」という人妻のところへ忍んでいったおり、彼女に逃げられ、同じ部屋にいた空蝉の義理の娘「軒端荻」を「まあ、これでいいか」と抱いてしまっているが、儒教倫理に照らせば(照らさなくてもか・笑)、言語道断だろうなあ・・・

そうした儒教・朱子学は京都五山の僧らが持ち込み、広めていったのであるが、武士階級がそれを主に受け入れ、徳川幕府の御用学問となっていった。
反面、公家は余りこれに染まらず、「源氏物語」の文化を保ち続けたというのが一般的なイメージである。
ところがどんな事にも例外があり、それも時に過激に現出する。

Gosho
(写真は京都御所)

江戸時代初期、京都で藤原惺窩らが活躍し、僧に担われていた儒教から、学問としての儒学に変容し、さらに広まる。
そうした空気の中、漢詩文を好み、和歌や物語を蔑視する傾向があったらしい。中でも突出したのが、後光明天皇であった。

「同帝(後光明天皇)常々被仰候は、吾国朝廷の衰微いたし候は和歌の発興と源氏物語の行はれ候との二つより起候。(中略)況、源氏は淫乱の書に相極候旨被仰候て、一向歌は不被為読候。源氏、伊勢の類は御目通へも遣不申候。」(室鳩巣『鳩巣小説』)

 儒学者・室鳩巣が肯定的に記述するところで、
「わが国の朝廷が衰えたのは、和歌と源氏物語のせいだ」
「源氏物語は淫乱の書、その類のものは一切読まない。和歌も詠まない」
 と言い切る帝であった。
 このお方、剣術も好んでいたという硬派ぶりなのである。

しかし、この後光明天皇、父親はあの、後水尾天皇なのだ。
ご存知だろうか?
後水尾天皇は、徳川秀忠の娘・和子を妃(女御のち中宮)として迎えた帝で、徳川幕府と長年熾烈に渡りあう一方、修学院離宮を造営させ、気概と覇気を示した天皇と知られる。
そして、子どもの数は皇子皇女合わせて、公式に36人!第19皇子は58歳で、第17皇女は61歳で産ませているというのである。
ホントかうそか知らぬが、遊女を宮中へ呼んだり、お忍びで遊郭に通ったりと言う話も伝わる。
なんというか、光源氏みたいなスーパープレイボーイなのだった。学問好きでもあり、「伊勢物語御抄」という本も書いているが、もちろん自分自身を業平や光源氏になぞらえていたに違いない。

そんな父親に対して、息子がとった硬派的生き方というのは、やはり、父への反発がそうさせたのじゃないかと言うのが、わしの想像である。なにしろ、後光明天皇が即位したのはわずか11歳で、父の後水尾上皇の院政の手の中。公私ともに巨大な壁である父親に反抗し、剣術に、源氏物語批判にとあがいていったのではなかろうか。

そんな後光明天皇、わずか22歳で崩御してしまっている。公式には天然痘が病名だが、毒殺説もある。
幕府の朝廷抑圧と巨大な父親の存在に反抗するなかで発した「源氏物語なんぞいらん!」という叫びは、時の流れに埋もれて久しい。

Sennyuji
(写真は、東山の泉涌寺。皇室の菩提所であり、後水尾天皇も、後光明天皇もこの寺内の月輪陵に葬られている)

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