« 06東福寺紅葉情報2 | トップページ | 06東福寺紅葉情報3 »

2006.11.13

京都と「作家」 その7 水上勉

Hl_0022

わしにとって、水上勉こそ、京都を描いて最も心に沁みる作家である。
若狭に生まれて、九歳で京都の瑞春院に入り、十一歳で得度し、やがて等持院に移って十八歳まで小僧として修行を続けたのち、二十一歳で東京にでた水上は、
「京都の人びとや京都の風光が私にあたえたものは大きく、大きいというよりは、ふかく根づよいものになってしまっている事に気づいている。(中略)はっきりいえば、京都をはなれて私はあり得なかった。」(立風書房刊「京都花暦」収録の「京の人びと」より 以下も引用はこの本より)
と書いている。
そして、彼の視点は、京都に奉公にやってきた地方人、なのである。
「つまり、京はこのような奉公人といえば古風すぎるが、よそからきて、京の風土に培われている人びとの多い街といえるだろう。」
さらに、こう綴るのである。
「谷崎潤一郎も長田幹彦も、近松秋江も、吉井勇も、川端康成も、大仏次郎も京を描いた。もちろん一級の文学もあった。ところが、これらの作品によく目をすえて、今考えてきたような京の土の深さ、根のつよさみたいなもの、地下茎のようなものが、この古都を息づかせている世界に分け入った作品はというと数少ない。明治以後は、ほとんど旅人の目にうつった世界といえぬはない。」
「それでは私はどうか。問われれば、地下茎を踏んまえた上での物語を好んできた。旅人の目にうつった物語には惹かれなかった。」「『金閣炎上』も『五番町夕霧楼』も『雁の寺』も『西陣の蝶』も、私は、いくらかでも旅窓から降りて、地べたを見つめながら書いたつもりだった。」

よそから来て、京都に根づき、地べたを見つめながら生きる庶民の哀歓。それこそが水上勉の京都を舞台にした小説を貫くものである。
彼の文名を確固たるものにした「雁の寺」を読めば、それは一目瞭然だ。

ある日本画家が襖に雁を描いた京都の禅寺が舞台なのだが、一応設定は架空であり、画家も寺院も名称はすべて実在する名前ではない。しかし、描かれる寺院生活の日常はあくまでもリアルである。その寺の和尚は日本画家の死後、画家の妾を寺に引きとって愛人にする。そして、執拗に描かれるのは、水上の体験を基にした小僧の生活の過酷さ。それは、当時の庶民=奉公人たちが共通に味わった苦しみである。厳しい戒律と屈従を小僧に強いながら、自らは欲望をほしいままにする和尚への小僧の敵意は、ついに惨劇を生む。そして、小僧をさいなむのは和尚ばかりでなく、虚弱な身に軍事教練を強いる中学校であり、その背後にある国家権力でもあった。この小説は、権力を持つものに対する弱者の怨念と反逆の文学といっても過言ではないだろう。
その一方で、和尚の愛人である女性は優しく、ある意味母性の象徴のようにも描かれ、小僧がこの女性に母の面影を見ていることも暗喩される。彼女もまた、八条坊城という京都郊外に生まれ、幼い頃から京都の料亭で奉公人として働かざるを得なかった庶民である。

「愛憎もつれあって、悲しみも喜びも、吸いこんでいる冷たい土壌の街」と京都を語る水上。「雁の寺」も「五番町夕霧楼」も結末は非情で哀切だ。その非情と哀切こそ、京都を最もリアルに体感させてくれると、わしは思うのである。

|

« 06東福寺紅葉情報2 | トップページ | 06東福寺紅葉情報3 »

コメント

小生にとって等持院と水上勉氏は切っても切れない関係にあります。今や隣のうるさい大学の音が聞こえる等持院ではなく、山懐に佇む古刹としての等持院が、であります。足利家の菩提寺として戦前は厳しい寺院経営を強いられたであろう、その環境の中で小僧をしていたのですから並大抵の厳しさではなかったと思われます。それでも故郷越前貧しさよりはましとだということなのでしょうね。若狭湾の原発に反対されなかった水上氏の発言を思い出しました。

投稿: takebow | 2006.11.13 18:33

takebowさん、水上勉氏は、お寺を出た後、短い期間ですが立命館大学の夜間部に通っていたそうですが、ご存知ですか。もちろんまだ、衣笠学舎ではありませんでしたが。
また、等持院は経営の苦しさを補うため、時代劇の撮影場所に境内や伽藍を貸していたそうで、小僧だった水上氏はレフ板持ちなどによく参加していたとか。
貧しさの辛さ、人間の裏表をよく知り、なおかつ京都の美しい風物を愛する感受性も豊かだった水上氏にはとても惹かれます。

投稿: 龍3 | 2006.11.13 22:25

学生時代、お世話になった人物が福井県出身で、水上氏と直接お話しされる機会のある人だったので、聞きました。
等持院と映画に関しては、マキノの撮影所が境内にあって、京都が映画の町になる元が作られた土地です。詳しくは

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/makinoP/syouzou.html

なんと立命のページでした。長門弘之・津川雅彦兄弟がデビューするのもマキノ省三氏の存在無くして語れないでしょう。

投稿: takebow | 2006.11.14 09:02

たびたびすみません。上のアドレス間違ってました。

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/makinoP/syouzou.htm  です。

投稿: takebow | 2006.11.14 09:05

takebowさん、紹介してくださったページ、興味深く見ました。
なるほど、こういうものも立派な研究対象になっているんだなあと納得。マキノ映画の興亡史は、ちらっとみただけでもかなりの修羅場で、仁侠映画も真っ青の暗闘が秘められているんだろうなあと思います。
あの、今は静かな(隣はうるさいけど・笑)等持院の境内にそんな時代があったとは、感慨深いですね。

投稿: 龍3 | 2006.11.15 00:02

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/20826/12670545

この記事へのトラックバック一覧です: 京都と「作家」 その7 水上勉:

« 06東福寺紅葉情報2 | トップページ | 06東福寺紅葉情報3 »