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2005.01.13

原爆投下目標・京都!2

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それではなぜ、京都は原爆投下を免れたのか?

吉田守男氏の検証によれば、京都への投下を主張するグローブズ陸軍少将に、スチムソン陸軍長官が反対し、原爆投下命令が出される僅か4日前の7月21日、京都の除外が決定。その身代わりとして長崎が選ばれたのだそうだ。
では、このヘンリー・スチムソン陸軍長官は、なぜ京都への原爆投下に反対したのか。

「本人自身の日記によればー
『もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう』(京都に原爆を投下せよ・149ページ)」

つまり、戦後のソ連との対立を見通し、日本をアメリカの陣営に居させるための、国際情勢判断がその理由だった。
後に1947年になって、スチムソンは回想的手記を雑誌に発表し、その中で

「京都は軍事的には相当重要な目標地ではあったが、そこは日本の旧都であり、日本の芸術と文化の聖地であった。我々はこの町を救うべきことを決めた。(156ページ)」

と書いているが、戦時中には芸術と文化の聖地、などとは一言も言うていないようである。この回想的手記も、原爆投下の残虐性に非難が上がり始めたことへの、政治的弁明であることを、書いたスチムソン自身が、トルーマン大統領への私信で漏らしているそうだ。

そして、京都は最初の2発の原爆の投下は免れたが、3発目以降の標的として、グローブズ少将以下の軍人たちはリストから外してはいなかったのである。通常爆撃を行わずに原爆標的として温存しつつ、作戦部隊のB29に、繰り返し京都への投下リハーサルを行わせていた。

「われわれは、日本の戦争遂行能力を完全に破壊するまで原爆を引き続き使用します。日本の降伏のみが我々を思いとどまらせるでしょう。(ポツダム会談に関する、トルーマン大統領のラジオ報告)196ページ」

まさに、終戦の日に、3発目の原爆をB29に積み込んだという証言がある。
その照準がどこにあわされていたのかは、わからない・・・

梅小路公園には今日も、子供たちの歓声がこだまし、京都は幾多の文化遺産を抱いて息づいている。

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コメント

なるほど、そういうわけだったのか!
というのは冗談ですが、2年ほど前に
読んだので、かなり内容を忘れて
しまっていました。そのうえ、今
手元に本がないのです。

 京都が原爆投下を免れたのは、龍3氏が
書いている点の他に、京都では、原爆の
威力を知らしめるのには面積が広すぎる
ということもあった、と覚えています。

 スチムソンの回想は、「回想録」に
ありがちな、後になって自分に都合良く
書き換えている典型のような気がします。
こういう類のものは、きちんと「史料批判」
をしながら読む必要がありますね。

 「京都は伝統ある文化都市だから空襲
されなかった」という俗説は、「日米友好」
のために作られた「日米合作」の架空の
物語といえるでしょう。


投稿: zuisen | 2005.01.13 21:05

zuisenさん、コメントおおきに!
「史料批判」の重要性は、この本の中にも書かれていました。歴史学徒の方々には常識なのでしょうね。
惰弱な小説書きとしては、主観ばかりが突っ走るので、肝に銘じておきたいと思います。

投稿: 龍3 | 2005.01.14 10:49

検索で、こちらのブログにたどり着きました。
モルモン教では教徒への原爆投下を思いとどまらせたのは、親日モ
ルモン教徒が米政府、軍に働きかけたからだとしています。
くだらない『宗教宣伝』にすぎないのですが、こうしてしっかり説
明された文章があるとスッキリします。

ありがとうございました。

投稿: るう | 2005.02.06 13:37

興味深く読みました。
京都に原爆が落とされていたらなどとは考えたくもないのですが、権力者が自己の行為を正当化するときの法則のようなものを学んだような気がします。

 長崎ですが、じつは投下直前まで第2目標で、軍需工場のあった小倉市(現北九州市)が第1目標だったということです。天候が不順で雲が多かったので、高空からの爆撃ができなかったそうです。

 私は現在北九州在住です。私の母は当時幼児で祖父母とともに小倉にいたという経験があったので、毎年長崎原爆忌のころになると、私によくこういっていました。

「もし原爆が小倉に落とされていたら、おばあちゃんや私はもちろん、あんたたちもいないはずよ」

 小倉では、いまでも長崎原爆忌を迎えると、市役所のそばの公園で、市民による犠牲者追悼の集会が開かれています。

 長崎の人々が身代りになってくれたので、我々は生き残ったということを知ったとき、小学生の私には、それまでおぼろげに本やお話などで知っていた原爆の惨状が、実体となって目に浮かんでくる気がしました。

投稿: Rough Tone | 2005.02.07 15:57

>るうさん、コメントおおきに!
世間には様々な幻想や迷信がはびこり、わし自身も結構それにはまってしまっている中、一つ一つ目からうろこを落として行きたいと思っております。るうさんのサイトからも学ぶところが多そうです。

>Rough Toneさん、コメントおおきに!
拙文が、少しでもお役に立てたら光栄です。
今、わしらがこうして生きているのは、様々なめぐりあわせと僥倖、あるいは犠牲の上にあることを、しみじみ思います。愚行を繰り返して恥じ多き日々を送りつつも、自分も世の中も、少しずつ良くしていければ・・・

投稿: 龍3 | 2005.02.09 01:27

はじめまして。
この夏休み中にたまたま見たABCの番組で西陣空襲の慰霊碑ができた話の時に、この話題を知りました。

紛れもなく、まな板の鯉状態から、京都は残ったんですね。
謙虚に生きなければと思いました。

trackback後ほどさせて下さい。

投稿: panchan1121 | 2005.08.19 13:09

panchan1121さん、初めまして。ようこそ。
西陣空襲の慰霊碑、60年経ってようやくできたのですね。わしも新聞で知りました。
戦争の痛み、悲しみを、わしは伝え聞き、読んだりすることでしか知ることは出来ませんが、忘れてはならぬと思いますね。
伝統と文化財があるから、京都はずっと安泰などというのは幻想です。
ほんま、謙虚に真摯に生きなければ、ですね。

投稿: 龍3 | 2005.08.20 00:31

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