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2004.07.26

巨樹5・折れてなお

kamigamo_013.jpg

京都市北区の賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=いわゆる上賀茂神社)の大鳥居の脇に立つスギである。
折れてなお天を刺す鋭い幹と、横に張り出した大枝の生命力溢れる葉の繁りが印象的。
山に近い上賀茂神社の境内は、幽遠な森があり、木々も生き生きとしている。雷が名前にある神社のことで、高くそびえた樹は、雷撃を受けて折れることが多いのではないだろうか。

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コメント

ただいま~。今週は北陸の方の山にいました。
 木の生命力には驚かされますねぇ。このあたり、北の方には天神さんとか雷神を祀る神社が多いと思うのは気のせい?あ、でも賀茂氏の祖は、八咫烏=建角身命というから太陽神とも関わりがあるのか。
 今でも、こういうアジールというかサンクチュアリというか、人が簡単に踏み込んではいけない場所というのは必要なんじゃないだろうかと思う。北陸の山中を行っていて、突然、お行儀のいい森から、太い禍々しくい木々に出くわすとそこからが、かつて人が入ってはいけない場所、神々の領域だった場所であったりする。このデモーニッシュな森は、お行儀のいい森に比べて、なんと動・植物の相の豊かなことか。人はどこまでも自然に分け入り自然を搾取しようとするけど、こうした人が分け入っては行けない場所というのは、自然と共存するための古の人の知恵だったかも知れない。寺社の境内というのも、そうした聖域の、人の側に切り取られた部分なのだろう。

 神々を一柱二柱と数えるように、巨木や巨石は神々のよりしろとなるため、落雷は必然なのでしょうね。
 ヨーロッパでは、落雷は神の下した罰ということで、教会が避雷針を立てることを禁じたところ、教会の塔に頻繁に落雷があって(考えれば当たり前、街で最も高い建物なんだから)教会は、早速、避雷針を立てる許可を出したとか。

投稿: Bach | 2004.07.30 12:58

Bachさん、おかえり~(書く順序が違うが・笑)
樹の生命力は、人間とかけ離れていて、それだけに崇敬の対象になるのでしょうね。
でも、文明は樹を容赦なく皆伐してきました。京都近郊の山は、見る限りほとんど巨樹といえるようなものはないようです。町なかにある巨樹は、植えられて育ったクスノキとか、用がないので残ったエノキ、とかが多いですな。
そんな中で神社に森を残し続けた感覚は、なかなかの知恵だったと思うし、それを近代にたくましく主張した南方熊楠は偉い!
そして、落雷は自然を恐れぬ者に落ちます。森羅万象に畏敬の念を忘れたら、やっぱあかんと思うわ。

投稿: 龍3 | 2004.07.31 01:24

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