2009.07.03

祇園祭と八坂神社・6 鬮取式

7月2日の祇園祭の行事は、鬮取式(くじとりしき)。

これは、山鉾巡行の際の、鉾や山の順番をくじで決めるのである。
どうも、昔は順番争いでけんかになったらしく、応仁の乱のあとくらいから、くじで決めるようになったそうだ。
江戸時代には、京都所司代という幕府の役人のもと、六角堂で行われた。

今、これをおこなうのは、京都市議会本会議場!
京都市長列席のもとでやるのである。
山鉾町の代表は黒紋付き羽織袴姿の正装。

ただし、全部の山鉾がくじを引くわけではない。
「鬮取らず」という、毎年何番目に巡行するかが、慣例で決まっている8基の山鉾は、くじを引かない。
先頭の長刀鉾などである。

くじをひく中で、最も注目されるのが「山一番」というやつで、
長刀鉾の次に行く、全体で2番目のもの。これは鉾でなく山と決まっている。
今年は芦刈山がそれをあてたとのこと。

以下、鬮取式の結果決まった、今年の巡行の順番である。


1  長刀鉾         (鬮取らず)
2  芦刈山         (山一番)
3  白楽天山
4  霰(あられ)天神山
5  函谷(かんこ)鉾    (鬮取らず)
6  孟宗山
7  四条傘鉾
8  郭巨(かっきょ)山
9  月鉾
10 蟷螂(とうろう)山
11 油天神山
12 占出(うらで)山
13 菊水鉾
14 太子山
15 綾傘鉾
16 伯牙(はくが)山
17 鶏鉾
18 木賊(とくさ)山
19 保昌(ほうしょう)山
20 山伏山
21 放下(ほうげ)鉾     (鬮取らず)
22 岩戸            (鬮取らず)
23 船鉾            (鬮取らず)
24 北観音山         (鬮取らず)
25 橋弁慶山         (鬮取らず)
26 黒主山
27 鈴鹿山
28 八幡山
29 役行者(えんのぎょうじゃ)山
30 鯉山
31 浄妙山
32 南観音山         (鬮取らず)


鬮取式を終えた、山鉾町の代表は全員で八坂神社に参詣し、祭の無事を祈願する。
これを「山鉾町社参」というそうだ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009.07.02

祇園祭と八坂神社・5 いよいよ七月

もっといろいろ書きたいことがあったが、手のつかないまま、祇園祭の七月に入ってしまった。

最も知られている「山鉾巡行」は17日に行われるのだが、祇園祭は、1日に始まり、31日まで一カ月間、さまざまな行事が続くのである。

まず最初は、「吉符入(きっぷいり)」

神事始めの行事で、各山鉾町の町会所で、それぞれ、1日から5日にかけて行われる。
関係の人々が集って、祭神を祀り、神事の無事を祈るので、観光客には公開されることはない。

ただ、これが済んだ夜から、各町会所では、祇園囃子の練習が始まるのである。
町会所の二階で行われることから「二階囃子」と呼ばれているそうだ。
鉦(かね)と笛で奏でられる祇園囃子は、「コンチキチン」の擬音でも有名だろう。
そうなのである、もう、祇園祭の山鉾町では、コンチキチンの音色が聞こえているのだ。
録音されたやつも、京都の町中ではあちこちでBGMに流され始めるので、七月の京都は一気に祇園祭一色になるのである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009.07.01

6月末、緑滴る下鴨神社

0391

このところ、やたら忙しく、blog記事を更新できていなかった。
月末はそれにもまして、用事に追われるのであるが、
今日は、その合間を縫って、下鴨神社を訪ねてみた。

梅雨さなか、このときだけは雨は降っていなかったが、木々の葉は露に満ち、境内は湿気に満ち満ちて、植物の緑と楼閣の朱がまことに目に鮮やか。

奈良の小川の水も潤沢に流れ、心を潤してくれたのである。

0371


0431

さあ、明日から七月。
祇園祭が始まる・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.06.05

祇園祭と八坂神社・4 本殿の伝説

さて、3で写真を掲げた八坂神社本殿、これも特異なものである。

以下、「建築MAP京都」(ギャラリー・間編 TOTO出版)より、引用する。

「八坂神社本殿
  東山区祇園町北側(=住所)
  建立:1654年(承応3年)
  構造形式:正面7間、側面6間、祇園造、入母屋造、檜皮葺

・・・本殿は、本殿と礼堂を大規模な入母屋造の屋根で覆い、側面、背面の三面に庇を付ける独特な構造を持つ。千木、堅魚木を持たず、奥行きが深い建物のため、一見すると仏堂のような印象を受ける重厚な造りである。」

つまりこの独特の構造を「祇園造」と称するのだが、いかにもかつては神仏習合の信仰の場であった祇園さんらしい、神社なのに仏堂みたいな建物なのだ。

そしてこの建物には、伝説がある。

「床下に、池があり、その水は竜宮につながっている」
という、お伽噺じみた、ちょっと壮大な言い伝えなのだ。

なぜここに、「竜宮」とのつながりが出てくるかというと、それこそ、「牛頭天王」からの関係なのである。
牛頭天王の説話は、祇園祭とも切り離すことのできないものなので、ここで述べておきたい。
詳しく書くととても長いのでかいつまんで。

「北天竺マカダ国大王だった牛頭天王は、天帝の使者に教えられ、南海のシャガラ竜宮の第三王女である頗梨采女(はりさいじょ)を妃に迎えようと旅立った。
途中、南天竺で、富裕な巨旦(こたん)大王に宿を乞うたが断られ、困っているところを、貧乏だが親切な蘇民将来に歓待を受ける。
そのおかげで、めでたく妃を得ることができた牛頭天王は、のちに八人の王子や眷属を引き連れて巨旦大王一族を攻め滅ぼすが、蘇民将来の一族は守り、その子孫も疫病から免れるように約束した。」

だいたいこんな感じである。いろいろとバリエーションがあって、巨旦大王は、「巨端将来」あるいは「古端長者」とされたりしている。
いずれにしろ、南海の竜宮は、牛頭天王の妃の実家であり、結婚してからもしばらくは牛頭天王はそこで過ごし子を成すのである。
つまり、八坂神社本殿地下の池の水脈は、牛頭天王の妃の実家である竜宮との連絡路というわけなのであった。

そして、この説話で出てきた「蘇民将来」の名は、祇園祭のおり、間違いなく目にすることになる。
厄除として授けられる粽(ちまき)に、「蘇民将来子孫也」と記した護符が付いているのだ。

0041


| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009.06.04

祇園祭と八坂神社・3 祭神について

Yasakasan1
(八坂神社本殿)

八坂神社が、かつては違う名前で呼ばれていたように、この神社が祀る神さまの名も、変遷を経ている。

現在の八坂神社の祀る神さまは

スサノヲノミコト(素戔嗚尊)
クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)
ヤハシラノミコガミ(八柱 御子神)

であるが、主神はスサノヲノミコトであり、クシイナダヒメノミコトはその妃、ヤハシラノミコガミは、スワノヲ・クシイナダ両神の間に生まれた八人の子である。

しかしながら、この祇園の地で最初に祀られていたのは
「祇園天神」
という名の神さまであるらしい。
(「日本紀略」延長4年=西暦926年6月26日条)
そしてこの天神さまは、「牛頭天王」の名でも呼ばれていた。

牛頭天王・・・頭に黄牛の面を戴き、鋭い両角を持ち、夜叉のように容貌魁偉な神であり、疫病にかかわる存在と考えられた。
八坂神社に伝わる社伝によれば、斉明2年=656年に、高麗の国からやってきた副使(大使の補佐)伊利須(いりす)もしくは伊利之(いりし)が、新羅の国の牛頭山に鎮座していた大神の霊を奉戴し、山城の国の八坂郷に鎮座したのが、すなわち牛頭天王だという。
この神さまが、やがて神仏習合の考えから、スサノヲノミコトにみなされて行ったのであった。

牛頭天王にしても、スサノヲノミコトにしても、その素性についてはさまざまな考察がなされており、一筋縄ではいかない。
牛頭天王については、さまざまな説話が伝わっていて、インドの土俗信仰の対象であったという説から、ラマ教、ヴィシュヌ信仰とのかかわりなど、かなりインターナショナルな雰囲気がある。
また、スサノヲノミコトも、「日本書紀」には、新羅国のソシモリなる地に降り立ったという記述があり、そのソシモリこそ牛頭山という説があるのだ。
大胆に推測すれば、東アジアの古代のひとびとが、海を越えて交流する中でつくりあげていった神格が、牛頭天王・スサノヲノミコトに結晶して行ったのではないだろうか

ただ、いずれにしても祇園の地に祀られた神さまが、異国からの伝来という伝承を持ち、疫病に関わる神という面を持っていたのは確かなようである。
そして、祇園祭は、疫病を鎮めるための祭礼として始まったのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.06.01

祇園祭と八坂神社・2

Yasakasan2

さて、八坂神社だが、この名前になったのは明治元年のことで、それ以前は「祇園社」「祇園観神院」「祇園天神社」「牛頭天王社」などといろんな名前で呼ばれていたそうだ。
しかも、延暦寺の支配を受ける仏寺だった時代もある。足利義満の命で、延暦寺の支配を離れてからも、神仏習合の、寺とも神社ともつかぬ形であったようだ。
明治元年に名前が変わったのは、「神仏分離令」によるものである。
このことは、祀られている神さまのことに深くかかわってくるので、また詳しく。

あと、もう一つ、わしにとって意外だったことは、東大路に面してランドマークとなっている西楼門が、正面の門ではないこと。
これは、神社の内部の建物配置を見れば一目瞭然で、本殿は南に向いており、そこから、舞殿、南楼門、石の鳥居と続く向きが正面に当たる。
上の写真は、南楼門を内側から見たもの。

西楼門を入ると、小さな祠が幾つかあって、それを迂回する参道を上がっていくと、社務所の前を通って舞殿の西側面が見えてくる。どう考えても横っぱらから進入する経路である。
今でこそ、西楼門の門前が賑やかな祇園町なので、こっちから参る人が多いのだが、かつては全くこのあたりの町並みは違っていたのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.05.29

祇園祭と八坂神社・1

0081

「京都の三大祭」、と称される三つの祭礼は、良く知られているところだろう。
季節的に順番に言うと、五月の葵祭、七月の祇園祭、そして十月の時代祭。
どれも大規模で、催される祭事は多く、複雑で、興味深いのだが、
わしは、中でも祇園祭にもっとも魅かれているのである。

ここ何年も、その好きでたまらぬ祇園祭になかなか触れることができなかった。
今年こそは、深く楽しみたいと思うので、このblogでじっくり記事にしていくことに決めた。

手始めに、夜の西楼門を撮影してみた。上の写真がそれである。
四条通の東の突き当たり、石段の上にに聳える、朱の鮮やかな門で、この一帯を象徴するランドマークといえよう。
この門を背にして向くと、下のような風景になる。

0091

まっすぐ西へと続く四条通。
この四条通の真ん中に、祇園祭の際には巨大な「鉾」が立ち並ぶことになるのだ。
その光景を想像すると、いつも胸がわくわくするのである。
その日まで、いろいろと、祇園祭と八坂神社について、考察してみようと思っている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009.05.02

5月1日の四条・先斗町・三条

0081
5月1日、旧友と待ち合わせて、京洛の巷を飲み歩く。
この日から、鴨川には床が出ていた。

0011
待ち合わせの前に、四条からひとり、そぞろ歩いてみた。

0031
夕空が綺麗で、南座の雄姿が映える。

0061
四条から、川端通りの東側、「せせらぎの小道?」とやらいう遊歩道があり、流れに沿って情緒ある明かり。
そのライトの上に、子猫がのっかっていて、人懐こい瞳だった。

0101
懐具合を考えつつ、先斗町をうろうろし、初めて入る店を試してみる。
刺身の盛り合わせに、湯葉のサラダ。

0141
おでんも自慢の店で、わしは日本酒、友人は焼酎といういつものチョイスで、2時間余り。


0181
二軒目には、三条京阪近くの居酒屋。店内に貼りまくられたおびただしいポスター、チラシ類を眺め、冷奴やハムカツなどを肴に酔う。

ちょっと飲み過ぎたが、晩春から初夏の鴨川沿いは、なんとも爽やかで、酔いもすがすがしかった。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009.04.29

平野神社の桜・「突羽根」

0191

京都の桜を語るなら、「平野神社」を欠かすことはできない。
「京都の桜は平野神社から始まって平野神社で終わる」(河出書房新社刊「桜は一年じゅう日本のどこかで咲いている」印南和磨著より)と言われるほどである。
それほど、ここには多種の桜(一説に45種)が植えられていて、2月上旬に咲く「桃桜」が京都の桜の口火を切るのだ。
そして、4月28日、最後を彩る「突羽根桜」が満開であった。

0081

平野神社は、北野天満宮の北門を出て西へ行くとすぐである。けれど、北野天満宮が上京区にあるのに、平野神社は北区なのだった。創建は平安遷都に遡るというが、「平野造り」という珍しい形で知られる本殿が建てられたのは江戸時代の寛永年間で、そのときに桜がたくさん植えられ、以来、桜の名所となったそうだ。神社の紋も桜なのである。

0131
境内には、500本の桜がある。4月10日の「桜祭り」には、鳳輦、稚児、織姫、花山車などの平安行列が練り歩いて華やぐ。
もちろん花見、夜桜見物のにぎわいでも知られ、わしは、大学に入学した年、先輩に連れられて夜桜を見に来た。ここは飲食する場所があらかじめ出店となって固定されていたので、シートで場所取りするようなことはなかった。敷地もそれほど広くないので、人数も限られ、品良く雅な花見の風情だったと記憶している。
おそらく、今もそんな花見が続いているのだと思うが、4月末となればそのにぎわいも過ぎ去り、500本の桜はほとんど全部葉桜となって、咲き誇っているのはこの突羽根、ただ一本と言ってもよかった。

0141
ほんとうに、やさしい、ふわふわとした夢のような桜花である。

0201
花弁の数がとても多く、一つの花に100枚から250枚もあると、本(前掲「桜は一年じゅう日本のどこかで咲いている」)には書いてある。

0121
「突羽根」があるのは、本殿の前庭の南端。この写真では、中央の舞殿の左奥に見えている。
近くには「平野妹背(ひらのいもせ)」「御衣黄(ぎょいこう)」「平野手弱女(たおやめ)」「虎の尾」「胡蝶」「嵐山」などなど、名桜の樹が並んでいるが、ほとんどみな散って、地に落ちた花びらすらもない。本殿の中から塀越しに咲く「白雲」も、葉っぱだけであった。
以前、「西陣桜巡り」と題して、このブログにアップした記事には、「白雲」が印象的だった。
参照はこちら↓
http://ryu3.cocolog-nifty.com/dragontail/2005/04/post_fc43.html

0281
満開なのは、ほんまにこの一本だけであったが、境内にはジャーマンアイリスがそこかしこに咲き、新緑も美しい。舞殿の南東には樹齢1000年ともいわれる巨大な楠が聳えていて、こじんまりとした境内の割には荘厳である。

0441
そして探すと「突羽根」のほかにも、「普賢象(ふげんぞう)」が咲いていた。これは千本閻魔堂の有名な桜で、わしはその名に憧れ、4年前に「西陣桜巡り」をしたのであった。

0531
ほかにも、「松月」がまだ見ごろであったが、こちらは落花激しく、地面が美しかった。

0591
西大路通に面したほうに、大きな鳥居があるけれど、こちら側はなんだかそっけなく、有名な枝垂れ桜「魁(さきがけ)」に飾られる東側の風情に負ける。特に今は、桜園のほうが出店片付けの作業中で、余計にその感が強かった。
これで、わしにとっての今年の桜は、見おさめかな・・・

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009.04.23

岡崎の桜3・名残りの八重桜

0021
すでにソメイヨシノは、すっかり葉桜になっているが、まだ、八重桜が咲き残って、目を楽しませてくれている。
4月22日、京都市左京区、岡崎の琵琶湖疏水のほとりに、甘やかに咲いていた一樹。

0181


0101
先に紹介した岡崎の枝垂れ桜と、道を隔てて向き合うように立つ八重桜なのである。
上の写真の奥が、その枝垂れ桜であるが、言うまでもなく、花は散って、緑一色。

0051
疏水めぐりの十石舟も、桜よりは新緑を楽しむようになっている。瑞々しい緑が映って、疏水の水が最も美しい季節かもしれない。

0141
重たげで豪奢な花弁は、晩春の爛熟した気配に、とてもふさわしい気がする。

0171


0081
落ちた花弁は、タンポポと混じって地面を彩っていた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

«大阪海遊館